掌に残った謎の柔らかい感触
「もういい?」
歌が終わる前に、幻の異色作品の余韻は少女の不機嫌な声でかき乱された。
え、という間に凪原は立ち上がり、ジャージの背中を見せてドアに向かった。
履きかけた靴のつま先をとんとんやりながら、ドアノブに手をかける。
「それじゃ」
野球帽を拾って、お姫様カットの長い髪を隠しもせずにかぶる。
僕が何か言うのを避けるかのように一言だけ言い残して、凪原は後ろ手にドアを閉めた。
しばし呆然としていた僕だったが、状況は少しずつ呑み込めてきた。
マスクと伊達眼鏡で男装して尾行してきたのは、凪原だったのだ。
理由は分からない。
だが、「倶楽部七拾年」メンバー共通の服装があることに気づいたのは、「ケイ」に尾行を巻かれたからだ。
あれだけ殴られたはずなのに、怪我一つないのを聡明な凪原が不審に思わないわけがない。
たぶん、僕と「ケイ」が入れ替わったのも察しがついたのだろう。
じゃあ、なぜ、そこまでして僕の行く先を知りたかったのだろうか。
そこまで考えたとき、ドアがバタンと音を立てた。
マスクと伊達眼鏡をした小柄な影が、そこにあった。
凪原が帰ってきてくれたのかと思ったが、ジャージ姿ではない。
どこかの高校の詰襟だった。
聞き覚えのある、甲高い声が「ユウイ」と呼んだ。
これが、本物の「サキ」だ。
入って日が浅いのでよくは知らないが、この会のリーダー格らしい。
どう見ても僕より力が弱そうな相手だったが、下手に出ないではいられなかった。
「あ、まだ僕は……」
DVD見てません、と言おうと思っていた。
最低限、凪原がいたことは隠さなければならなかったからだ。
だが、頭が真っ白になりそうなところで精一杯の機転を利かせたウソは、徒労に終わった。
甲高い声が、不愛想に僕を問い詰める。
「女を入れたな」
答えに困っていると、一言だけ最後通告があった。
「処分は、追ってメールで」
再び閉められようとするドアに駆け寄り、力任せにつかんだ。
これは事故だ。誤解だ。
どっちみち辞めるつもりだったが、こんな結末はまずいと心が叫んでいた。
僕は仲間を裏切ったわけではない。
そう言いたいだけだったのだが、「サキ」はドアノブにしがみつくようにして、僕を部屋に閉じ込めようとする。
やがて、力尽きたのは「サキ」のほうだった。
僕の開けたドアに弾き飛ばされるようにして、「サキ」は廊下に転がった。
しまったと思って駆け寄ったところで、裸電球のじんわりした光が照らしだされた華奢な影がもじもじと立ち上がった。
僕が差し伸べた手を無視して逃げ出そうとするのを、腕を掴んで止める。
意外に、感触が柔らかかった。
イヤ、という悲鳴に、思わず手を放す。
駆け出したのにはっと気づいて後ろから抱き留めると、声も立てずにひたすら暴れた。
アパートの人たちに聞かれたくないのだろうと思いながらも、とにかく落ち着かせようと力を込める。
ここを辞めるにしても、話だけでも聞いてもらわなければならない。
だが、その時だった。
もがく体に引き剥がされては抑え込む手が、なんの弾みか詰襟の服の隙間に滑り込んだ。
さっきの腕とは違う、独特の、初めての感触があった。
……何か、大きくはないが、確かにそこにあるという、不思議な膨らみ。
叫び声をこらえるかのような呻き声と共に、「サキ」の体が強張った。
身体にぞっとするものが走って、僕も慌てて手を放した。
胸のあたりを抱え込んだ「サキ」が、ものすごい形相で僕を睨んでいる。
思わず「ごめん」という言葉だけが口をついて出たとき、詰襟の少年は小さな影となって、暗い外廊下を駆け出していた。
『焚き火』の歌が広報無線で流れる中、非常階段が高らかに鳴るのを遠く聞きながら、僕は掌に残った暖かい感触を反芻していた。
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