幕間二 宝石の子
第284話 宝石の子
その時、赤ん坊の泣き声が響き渡った。
瞳を閉じ、廊下の壁に背を預けて瞑想してたラゴウは、すっと目を開いた。
そこは、とある屋敷。
窓の外から近くに海が見える広大な館だ。
ラゴウは、しばらく廊下で佇んでいた。
すると、近くの部屋のドアが開き、黒いスーツを身に纏う女性が出てきた。
ラゴウの部下である女性だ。
彼女は、ラゴウに一礼してから報告する。
「無事、お生まれになられました」
「そうか」ラゴウは彼女を一瞥した。「男児か?」
部下はかぶりを振った。
「いえ。女の子です」
「……そうか」
ラゴウは、一瞬だけ複雑な表情を見せた。
「お世継ぎであることも密かに期待したのだが、無事お生まれになることに比べたら些細な願いだな。それより母子ともに健康なのだな?」
「はい」
部下は頷く。
ラゴウのぶっきらぼうな顔に微かに笑みが零れる。
「ならば、なお喜ばしきことだ。奥方もご無事。そして主君の初の御子。さぞかし主君もお喜びになられることだろう」
そこで、少しだけ苦笑も見せる。
「まあ、予定よりも早産だったために出産に立ち会えなかったことは、かなり気を落とされるかもしれんが」
ラゴウの主君。
生まれた赤子の父は、現在は海上にいる。
急ぎ帰還している最中なのだが、それでも後三日はかかるだろう。
「ともあれ、奥方さまに祝辞を述べねば」
ラゴウは部下に尋ねる。
「もう入室しても構わんか?」
「はい」
部下は頷いた。
「奥さまがお待ちしておられます」
「うむ。分かった」
ラゴウはドアの前まで進んだ。
そしてノックする。と、部屋の中から「どうぞ」という許可が下りた。
ラゴウは「失礼します」と告げて、ドアを開ける。
そこは、今日の日のために用意された広い部屋だった。
数人のメイド達が傍に控えている。産婆を務めた女医もいた。
部屋の中央には大きなベッド。
その上には、一人の女性がいた。
年齢は十九か、二十歳ほど。
菫色の長い髪を胸の前で束ねた美しい女性だ。
彼女の両腕には、白いシーツに包まれた赤ん坊がいる。
「エルクレアさま」
ラゴウは頭を垂れる。
「ご出産、おめでとうございます」
対し、赤ん坊を抱く女性――エルクレアは、
「………」
無言のまま、不快そうに唇を噛みしめた。
そして、
「……まさか、このわらわが、あの忌まわしい男の子を産むことになるとは、思いもしませんでした」
「……エルクレアさま」
エルクレアは、視線を腕の中の赤ん坊に落とした。
「あの男に敗れて早二年……」
紫色の双眸を細める。
「武で敗れ、奴に攫われて地位を失い、挙句、純潔さえも奪われました」
そこでグッと唇を噛みしめる。
「その上、初産までも。いえ。ああも毎夜のように幾度も仕込まれれば、当然と言えば当然の帰結ですか」
皮肉気に笑う。
ラゴウは、エルクレアを見やる。
「主君を憎んでおられるのか?」
「当然です」
エルクレアは、鋭い眼光でラゴウを睨みつける。
「あの男は、わらわのすべてを奪いつくしました。騎士の誇りも。磨き上げた武も。女としての純潔も。憎んで当然でしょう」
エルクレアは、そう言い放つ。
「……忌まわしい。すべてを奪われたこそ、あの男にはもう逆らえません。かつては戦姫と謳われたわらわも、今や犯罪組織の長の情婦。あの男の女です。子を望まれれば産まねばなりません。全くもって忌まわしい」
言って、エルクレアは、腕の中の赤子を睨みつけた。
まるで睨み殺そうとしているように見えるが、ラゴウは気付いていた。
エルクレアの目尻が、少しずつ緩んでいることに。
明らかに愛しさが隠しきれていない。
「……そうですか」
ラゴウは、微かに苦笑を零した。
エルクレアは、主君を毛嫌いしている。
常に、彼女は主君のことが憎いと公言していた。
しかし、主君に対峙する時の彼女は、全く別物なのである。
確かに悪態は変わらない。辛辣な言葉も吐く。
けれど、主君に頬を撫でられるだけで彼女は乙女の顔になる。
口付けの一つもすれば、ご機嫌になる。
そんな光景を幾人もの社員やメイドが目撃していた。
「まあ、数いるあの男の女の中でも、最初にあの男の子を産んだのはこのわらわです。それだけあの男も、わらわに執着しているということですね」
と、どこか嬉しそうに、エルクレアは鼻を鳴らした。
「あの男は、手に入れた順でわらわ達に序列をつけていますが、それも、そろそろ見直すべきですね。わらわが第一夫人で構わないでしょう」
そんなことまで言い出す。
ラゴウは苦笑を隠しつつ、彼女の傍へと進んだ。
そして、彼女の腕の中の赤ん坊を覗き込む。
赤ん坊は眠っていた。わずかに髪も生えている。母と同じ菫色の髪だ。
「抱いてみますか?」
すると、エルクレアがそんなことを言い出した。
ラゴウは少し困った顔をした。
「いえ。まずは主君が……」
「こんな時にいないあの男が悪いのです。気遣う必要はありません」
言って、彼女は赤ん坊を差し出した。
ラゴウは、恐る恐る赤ん坊を受け取った。
母の手から離れても、赤ん坊はすやすやと眠り続けていた。
「名は決められているのですか?」
「いえ。まだです」
エルクレアは、かぶりを振った。
「
「そうですか……」
ラゴウは、腕の中の赤ん坊に目をやった。
主君の待望の一子。
ラゴウにとっては、まさしく『姫』である。
その時、『姫』が、ふわあっと欠伸をした。どうやら起きたようだ。
(……む)
ラゴウは、武骨な戦士だ。
赤子の抱き方もぎこちなく、決して上手いとは呼べない。
しかし、目覚めた赤ん坊に不安がる様子も、泣きだすような様子もなかった。
何とも豪胆さが窺える『姫』である。
「……ふふ。『姫』よ」
ラゴウは、そんな『姫』に対して笑みを零す。
「このラゴウ。御身を必ずお守りしましょう」
そう告げると、『姫』は、パチリと目を開いた。
続けて、紫色の瞳で、まじまじとラゴウの顔を見やる。
宝石のように輝く瞳に、ラゴウは目を瞬かせた。
「この子は、本当にエルクレアさまによく似ておられますな」
「ええ。そうでしょう」
エルクレアは大きな胸を反らして告げた。
「あの男に全く似ていないのは、まさに僥倖です」
中々辛辣なことを言う。
ラゴウは、苦笑を零した。
すると、
――うむ。わらわもそう思うぞ。
そんな意見を言いたいように、生まれたばかりの『姫』も微かに笑顔のようなものを浮かべるのであった。
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