第164話 望郷④

「……まったくもう」


 執務室を出て数分後。

 一人渡り廊下を歩くリーゼは嘆息する。


(……お父さまときたら……)


 思わず頬を赤く染める。

 執務室での父とのやり取りは本当に想定外だった。

 なにしろ、久々のコウタとの旅行だ。楽しみにしていたのは事実だが、まさか、それを父に見抜かれていようとは……。


「流石はお父さまですわ」


 父の慧眼には、感嘆の言葉しかない。

 しかも、背中を後押しまでされてしまった。

 案外、父は一向にコウタを連れてこないリーゼに業を煮やしていたのかもしれない。

 リーゼは足をゆっくりと止め、その場でかぶりを振った。


(レイハートに傑出した血を……ですか)


 リーゼは十五歳。コウタもまた同い年だ。

 小さな村や貴族同士の政略結婚ならば結ばれても不思議ではない歳だった。

 年齢的にはすでに問題ない。

 彼の出自に関しても許可を貰っている。

 恥じらいなどを別にすればリーゼが彼を拒む理由など何もなかった。

 ただ、問題があるとすれば、リーゼにとってコウタがことだ。

 レイハート家とコウタを天秤に掛けた時、恐らく自分は――。



「……お嬢さま?」



 その時、不意に声を掛けられた。

 リーゼはハッとして顔を上げた。そこにはリーゼのよく知る人物がいた。

 ――シャルロット=スコラ。

 藍色の髪と深い青色の瞳が美しいリーゼ専属のメイドだった。


「どうかされましたか?」


 彼女は眉根を寄せていた。


「もしかして腹痛なのですか?」


「え?」


 そんなことを尋ねられ、リーゼはポカンとした表情を見せた。

 ――が、シャルロットの視線を追ってすぐに気付く。


(……あ)


 いつしかリーゼは自分の腹部に両手をそっと当てていた。

 まるで、そこにとても大切な存在がいるかのように……。

 ――カアアアアッ、と。

 リーゼの頬が一気に赤くなった。

 次いで慌てて両手を腹部から離した。


「ち、違いますわ!」


「え?」


「そ、その、す、少し考え事をしていたのです!」


「そうなのですか?」


 シャルロットは不思議そうに小首を傾げたが、それ以上は質問してこなかった。

 リーゼはホッと胸を撫で下ろすが、


(ああ、丁度いいですわね)


 シャルロットの姿を見てそう思い直す。

 リーゼにとって従者であると同時に姉同然の女性。

 誰もが羨むほどの美貌とプロポーションを持つシャルロットのことだ。

 これまで付き合った異性の数も一人や二人ではないだろう。以前シャルロットが侯爵家の当主に求婚される現場を目撃したこともある。

 その時シャルロットは「ご冗談を」と優雅に断っていたものだ。


「ところでシャルロット」


 突然の求婚にも動じない大人の女性。

 少し悩んでいたリーゼは経験豊富な先達者に尋ねることにした。


「一つ訊きたいのですが、宜しいですか?」


「はい。何でしょうか。お嬢さま」


 シャルロットは従者として面持ちを改めた。

 リーゼはこくんと首肯する。


「あの、実は殿方のことで相談したいのです」


「……殿方、ですか?」


 リーゼの言葉を反芻しつつ……。

 シャルロットは動揺する心を抑えつけてあごに指先を置いた。


「シャルロットは殿方にとてもモテるのでしょう?」


「………そうですね」


 シャルロットは少し躊躇いながらもそう答えた。

 この返答は嘘ではない。

 モテるモテないなら、シャルロットは疑う余地もないほどにモテた。

 学生時代はさほどでもなかったのだが、少しは社交性を磨いたおかげか同僚であるレイハート家の使用人達から、時には貴族からも求愛されたことがある。

 しかし、彼女はそのすべてを断っていた。

 ゆえに異性との経験は未だ真っさらなのである。


「あの、もし愛している殿方がわたくしのすべてを求めていたら、わたくしはどうすればよいのでしょうか……」


 なのに、彼女のお嬢さまはそんな無茶な質問をしてくる。


(いえ、それ以前にお嬢さま? あなたはヒラサカさまともうそんな段階にまで至っているのですか?)


 恐るべし学生達。想像以上に進んでいる。

 これでは追い抜かれるのもすぐだ。シャルロットは内心でかなり焦った。

 ――が、


「わたくしはレイハートを継ぐ者です」


 続けてそう語るリーゼの表情はどこか暗かった。


「いざとなれば私人は捨てるつもりでした。民を救うために自分を投げ出す。それこそが貴族の誇りだからです。ですが……」


 そこで一拍おいて、


「きっとコウタさまはそれを許してくれません。わたくしが誇りを抱いて犠牲になることを許してくれないのです。そして今となってはわたくしの方も……」


「……………」


 シャルロットは無言だった。

 次いで、自分の主人を見やる。

 お嬢さまの瞳はとても真剣なものだった。


(……はあ)


 シャルロットは心の中で深い溜息をついた。


(ここらが潮時ですね)


 これ以上、見栄を張るのも限界だった。

 何よりここまで真剣に相談する相手に対して適当に答えるのは無礼に値する。


「申し訳ありません。お嬢さま」


「……え?」


 唐突な謝罪にリーゼは目を丸くした。

 それに対し、シャルロットは淡々と言葉を続ける。


「お恥ずかしい限りですが、実は私には男性経験がないのです」


「え? そうなのですか?」


 リーゼはますます目を見開いた。


「ですが、シャルロットは多くの殿方に好意を寄せられているではありませんか」


「そうですね。少しぐらいはそういったこともあります。ですが、それは私には何の意味もありません。何故なら――」


 一拍おいてシャルロットは告げる。


「私が身を委ねても構わないと思ったのは、今も昔も一人だけですから」


「……シャルロット」


 真剣な眼差しを向ける従者にリーゼは息を呑んだ。

 シャルロットはさらに話を続ける。


「いずれにせよ、私は経験が浅いのです。女性としては大した助言も出来ないでしょう。ですので、ここはこれまでヒラサカさまとお嬢さまを見続けてきた者としてお答えしたいと思います。それで宜しいでしょうか」


「は、はい。お願いしますわ」


 コクコクと頷いてそう答えるリーゼに、シャルロットも首肯した。


「ヒラサカさまは本当にお嬢さまのことを大切にしておられるのですね」


 と、前置きしてから、


「何があっても失いたくないのでしょう。しかしお嬢さまのお気持ちも分かります。レイハート家の次期当主としての誇りを抱かれておられるのですね」


 一呼吸入れて、


「それは素晴らしいことです。だからこそ迷いを抱かれるのも無理はありませんが、お嬢さま。一つだけお答えください」


 シャルロットはリーゼと視線を合わせた。


「お嬢さまはヒラサカさまを愛しておられるのですか?」


「もちろんですわ」


 リーゼは胸に手を当て即答した。


「わたくしはコウタさまを愛しております」


 シャルロットは苦笑した。


「ならば、答えは最初から決まっておられるでは?」


「それは分かっていますが……」


 リーゼは眉根を寄せた。

 それでも不安になる。いや、自分が庇護すべき者達に申し訳なく思うのだ。

 そんな主人を真っ直ぐ見つめて、シャルロットは語り続ける。


「お嬢さま。かつて私にも同じような選択肢がありました」


「え?」目を丸くするリーゼ。


「結果的に言えば私は公人を選びました。それにより得たものも多くありますが、日々想いは積もるばかりです」


 シャルロットは自分の頬に手を当てた。


「今思えば『彼』が私を『シャル』と呼んでくれたあの夜に、『彼』にすべてを捧げても良かったのかも知れません。あの夜は予期せぬ事態に不安も抱いていました。不謹慎であっても非常時だからこその雰囲気もありましたから。そうすれば、今頃私は『彼』の傍にいたことでしょう。今となっては過ぎた話ですが」


 少しだけ遠い目をして彼女は呟く。


「だからこそお嬢さま」


 一拍おいて、シャルロットはリーゼに告げた。


「どうかお嬢さまは後悔しないでください。本当にヒラサカさまがお好きならば」


「……シャルロット」


 リーゼは神妙な顔でシャルロットを見つめた。

 すると、シャルロットは口元を押さえてクスクスと笑った。


「そんなお顔をしないでください。実のところ、私はまだ『彼』のことを一切諦めてはいませんから。いずれは『彼』の元へと行くつもりですし」


「――え? そ、そうなのですか?」


 初めて聞く話にリーゼはかなり驚いた。


「はい。その時は何卒ご配慮のほどをよろしくお願い致します。ではお嬢さま。最後にもう一つ助言を。――きっと大丈夫ですよ」


 そこでシャルロットは朗らかに微笑んだ。


「ヒラサカさまがお嬢さまのすべてを求めているのなら、それはお嬢さまの心や誇りまで含めてです。彼はきっとお嬢さまの想いを無下には致しません。お嬢さまが守りたい、救いたいと思うものすべてを含めて愛してくれるでしょう」


「……あ」


 シャルロットに指摘され、リーゼはポツリと声を零した。


「信じるのです。あなたが愛した人を。私が『彼』を今でも信じているように」


 そう言ってシャルロットは一礼した。

 しばし沈黙が続く。

 そして――。


「ありがとう。シャルロット」


 リーゼは柔らかに微笑んだ。


「確かにコウタさまはそんなお方でした。勇気を頂きましたわ。オルバンには申し訳ないことですが、あなたの想いもその『彼』に届くようお祈り致しますわ」


「ありがとうございます、お嬢さま。ですが一つだけ質問が。あの、どうしてオルバンさまに申し訳ないのですか?」


 小首を傾げて尋ねるシャルロットに、リーゼは頬を引きつらせた。


「え、えっと、それは……」


 と、声を詰まらせてから、


「あっ! そうでしたわ! ごめんなさい、シャルロット! わたくしこれから用事があったのですわ!」


 そう言って、いきなり歩き出した。

 シャルロットは少し目を丸くしたが、立ち去っていく主人に一礼した。

 そしてリーゼは駆けるように歩き続ける。


(ええ! そうですとも!)


 早足で歩きながら、彼女はグッと拳を固めた。


(シャルロットの言う通りですわ! もう迷いません! コウタさまならわたくしのすべてを受け止めてくれます! そして――)


 そこで小さく息を吐き、リーゼは心の中で一つのことを覚悟する。


(わたくしももう十五歳です。そろそろ次の段階に入ってもいいでしょう。そう! 名実ともにわたくしはコウタさまのものになるのです!)



       ◆



 ……と、一人の少女が密かな決意をした頃。

 ゴオオオオオオオオッ、と激しい火柱が天を突く。

 そこはとても異様な場所だった。

 見渡す限り、果てなき水面の世界。火柱を放つ祭壇を中心に、十本の柱が円を描くように配置されている。《穿天の間》と呼ばれる特異空間だ。

 そしてそこにいるのは十人の人間達。

 全員が東方の大陸アロンに伝わる衣装を身につけていた。ゆったりとしてかなり気品のある衣装。彼らの位の高さが窺える装いだ。


 ――が、そんな中でも、最も印象的なのは祭壇前に立つ少女だった。


 年齢は十代後半。腰辺りまで伸ばした艶やかな黒髪が美しい少女である。

 純白の巫女装束を纏う少女は、顔の上半分を覆う無貌の仮面を付けていた。仮面の一部と装束の袖には炎の華の紋が刻まれている。


「姫さま」


 両膝をついて控えていた男の一人が口を開く。


「どうしてもお一人で行かれるのですか?」


「一人じゃないわ」仮面の少女は答える。「ジェシカも一緒よ」


「それでもたった二人ではありませんか。それにジェシカは本来暗殺者。彼女の『怨嗟』の力は恐るべきものですが、護衛には不向きな力であることも事実です。どうか、せめてもう少し護衛の数を――」


「不要です」


 男の懇願にも少女は即答する。


「そもそも家族に会いに行くだけなのよ。大掛かりな護衛なんて不要でしょう?」


「……確かにそうですが……」


 男は渋面を浮かべて顔を上げた。


「予期せぬ事態もありえます。何よりも《御子》さまは――姫さまの弟君は、我らに賛同して頂けるのでしょうか」


 そんな心配を吐露する男に少女は苦笑を浮かべた。


「そこは私の頑張り次第ね」


「……姫さま」


「そんな顔をしないで。危ないことをする気はないから」


 少女は微笑む。


「もう決めたことよ。護衛はジェシカのみ。私は行くわ」


 そこで彼女は巫女装束を揺らしてくるりと回った。


「あの子を。私の義弟おとうとを」


 そして《ディノ=バロウス教団》の盟主は歌うように宣言する。


「――《悪竜の御子》を、私達の教団へと迎え入れるために」

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