幕間二 人でなし伯爵と、への字娘
第146話 人でなし伯爵と、への字娘
パチリ、と目を開く。
裸で眠っていたハワードは、私室のベッドの上で上半身を起こした。
バルコニーから差し込む光で照らされた壁時計を見ると、時刻は深夜の四時頃。
まだ夜明けには早い時間だった。
(少々早く目覚めたか)
ハワードは寝起きであっても冴え渡った思考で考える。
そしてチラリと自分が座るベッドに目をやった。
そこには、全裸の上にシーツをかけてうつぶせに眠る少女の姿があった。
歳はハワードよりもかなり若く、十五、六歳ほど。
身長は一般女性よりかなり低いがプロポーションは抜群で、シーツの上からでもそれがはっきりと見て取れる。肩口より少し伸ばしたアイボリーの髪はほとんど手入れされておらず毛先がツンツンとした
少女を見やり、ハワードはふっと笑う。
彼女は微かな吐息を零してとても安らかな表情で眠っていた。
「お前のそんな顔を見るのも初めてだな」
ハワードの知る彼女の性格は男勝り……と言うより荒々しい。常に眉を上げ、口をへの字に結んでいるのが彼女の
しかも口調まで荒く、自分のことを『オレ』と呼ぶ始末である。
「まったく。お前と来たら」
ハワードは優しい手つきで少女の髪を撫でた。明らかに手入れをしていない髪だが、生来の髪質がよいのか意外なぐらいに柔らかった。
彼女の名はアイシャと言う。家名は持っていないそうだ。
最近は少しマシになったとはいえ、基本的には人でなしであるハワードに心からの優しげな顔をさせる彼女は娼婦――いや、正確に言えば元娼婦だった。
それも貴族御用達の高級娼館の元娼婦である。
彼女との出会いは三週間程前――
その日、どうにも抑えきれない興奮を、せめて気休め程度でも沈めるためにハワードは娼館に立ち寄った。そこで男物の服を着て雑用をこなすアイシャと出会ったのだ。
一瞬ハワードは彼女を少年かと思った。しかし、小柄な体格とは思えないほどの胸のボリューム、細い腰のくびれが彼女を女性だと教えてくれた。
ハワードは足を止め、しばし興味深そうに彼女を見つめていたのだが――。
『……おい。おっさん。オレに何か用かよ?』
愛らしい声でいきなりそんな台詞を吐かれた。
口元をへの字の形で強く結び、とても客に対するものと思えない態度でアイシャはハワードを睨み付ける。緋を帯びた瞳には強い敵意が宿っていた。
(……ほう。これは)
だが、その緋色の瞳こそがハワードの琴線に触れた。
ハワードは早速アイシャのことを娼館のオーナーに尋ねてみた。
すると、オーナーは困り果てた様子でこう語り始めた。
『あのへの字娘ですか? あれもうちの娼婦ですよ。あの娘は顔立ちやスタイルは一級品ですし、多くのお客さまに喜ばれる初物でもあるんですがいかんせん……』
おもむろに嘆息する。
『あの娘、少し分かりにくいんですが前髪の下に大きな火傷の痕があるんですよ。それも獣の爪で抉られたような酷い傷痕でしてね。その上、胸元から腹部にかけて無残な刀傷まであるんで育ちのいい貴族のお客さま方はどうしても引いてしまうんですよ。いつもへの字顔で愛嬌もありませんし、今じゃあ完全に雑用係ですね』
少々勿体なくとも一般客用の娼館に移そうとも考えている。
オーナーは最後にそう告げた。
『……ふむ』
それに対し、ハワードは少し考えた後、
『なら、私があの娘の身受けをしよう』
彼女の身受けを申し出た。
オーナーは目を丸くしたが、お荷物を引き取ってくれることが有り難かったのかあっさりと承諾した。貴族さまの善行ごっことでも思ったのかも知れない。
だが、当然ながらこれは善意の申し出などではない。
ハワードにはハワードの思惑があったのだ。
正直、彼は娼館にもいささか飽きていたのである。しかし、昂ぶる気持ちは自分だけで抑えるには限界がある。宿敵に対する闘志はもはや灼熱にも勝るからだ。
どうしても激情をぶつける相手が必要だった。
そこでハワードは敵意を宿す瞳を持つアイシャに興味を抱いたのだ。
要は善意どころか哀れみでさえもなく、単純に少し毛色の違う女を抱いてみたいと思っただけだった。そこら辺はまだまだ人でなしのハワードのままであった。
ともあれ、その後、ハワードはアイシャをメイドとして雇うことにした。
アイシャはメイド服を着ることを散々嫌がったが、いざ着てみると元々素材がよいので素晴らしく似合っていた。その素晴らしさがどれほどかというと、美女に見慣れているハワードでさえ思わず『……おお』と感嘆の声を上げ、胸を誇張するデザインのメイド服を採用した使用人にこっそりと金一封を与えたぐらいである。
それから、ハワードは機会があるたびにアイシャを口説き始めた。これまで培ってきた経験と技術を用いて口説き続けた。
所詮は激情のはけ口として身受けした少女だ。事実上、身柄を買い取ったようなものでもあるので、気分次第ですぐさま手籠めにすることは出来る。
しかし、ハワードは、どうせならばこの娘の貞操だけでなく、心まで奪ってしまおうと考えていた。これもまた昔の悪い癖である。
が、そんな若き伯爵の邪な思惑に気付いたのか、
『ふざけんな。あんたの冗談に付き合うほど暇じゃない』
と、
とは言え、身受けして貰った恩義もある。いつもいつもキツい訳でなく、伯爵家で働き続ける内に、ほんの少しだけ柔らかな表情も見せるようになっていった。
対するハワードの方も少しずつ変化があった。
宿敵との決戦が近づき、内なる闘志が胸を焦がす日々。だがそれでもアイシャにだけは常に穏やかで優しい顔を見せるようになっていた。主人であるハワードを呼び捨てにする彼女の態度が新鮮で子気味がよかったせいかもしれない。ちなみにその間、彼は一度も娼館に行っていない。二人は奇妙な関係を続けていた。
そうして決戦まで残すところ三日となった日。
その夜、ハワードは悩んだ末に、遂にアイシャを抱く決意をした。
出会っておよそ三週間。信頼関係がようやく芽生え始めた程度の時期だ。
当然ながらアイシャを口説き落とせた訳でもない。しかし決戦を前にして、昂ぶる激情はすでに限界を迎えようとしていた。
だからこそ、ハワードはやむを得ないと決断したのだ。
だが、後々振り返ってみれば、さほど強引なことはしていないな、とハワード自身は思っている。精々夜半遅くに彼女を自室に呼び出してベッドに押し倒したぐらいだ。ルッソにその感想を話すと呆れた顔をされ、アイシャ本人には「……ケダモノ伯爵め」とジト目で睨まれることになるのだが、それはまた別の話だった。
何にせよ、その日ハワードがアイシャを押し倒した事実は変わらない。
そして――。
『ハ、ハワード……』
伯爵家にあるハワードの私室にて。
アイシャが掠れた声で、自分の両手首を捕らえる青年の名を呼んだ。
いきなりベッドの上に押し倒され、最初は呆然としていたアイシャだったが、元々娼婦であった身だ。こんな夜半遅くに主人に呼び出された以上、心のどこかでは諦めの気持ちもあったのだろう。過剰な抵抗をすることはなかった。
ただその代わり、わずかに失望を宿した瞳でハワードを睨み付けて――。
『結局あんたも他の貴族野郎と同じだったってことかよ。いいぜ。こんな傷物でいいのなら好きにしろよ。どうせオレはあんたの所有物だ』
アイシャは首を大きく動かして自分の前髪を振り上げた。同時に裂傷にも似た大きな火傷の痕が晒される。大抵の男はこの傷を見ると不快げに眉をひそめていた。
しかし、ハワードは火傷に対しては一瞥するだけで顔色も変えず、ただアイシャの目を見つめてとても申し訳なさそうな表情を見せた。
アイシャは一拍置いて『え?』と呟き、目を丸くする。
青年のこんな表情は初めて見たからだ。
『……すまない。アイシャ』心から謝罪する。『きっとお前の心の傷は身体の傷以上なのだろう。本来ならもっと段階を踏んでお前を大切にしたかったのだが……』
そこまで告げると、ハワードはアイシャの額に軽い口づけをした。アイシャは驚いた。これは火傷の痕を気にもしていない証である行為だからだ。
『こんな傷がお前を嫌う理由になるものか』
と若き伯爵は愛情を以て告げるが、その後に身勝手な台詞も続ける。
『もう時間がないのだ。私は万全の状態で三日後を迎えねばならない。しかし、今の私はとても平常心とは呼べない状態だ。この限界まで膨れあがった激情を一度吐き出す必要がある。だからこそ今夜、お前を抱くんだ』
ハワードの声には、有無を言わせないほどの力が宿っていた。
恐らく彼がこんな行為に出たのには訳がある。そう察すると同時に、これはもう逃げられないと改めて悟ったアイシャは、ただ息を呑むだけだった。
かくして理由も告げず、なし崩し的に行為に及ぶのだが、ハワードは決してアイシャを今までの女のように欲情をぶつけるだけの道具としては扱わなかった。
気丈に振る舞っていても不安を隠しきれていない少女を安心させるように、何度も何度も口づけをし、愛を告げ、愛を囁き、彼女の心とその心奥にある傷さえも包み込むように丁寧かつありったけの愛を注いだのだ。
これには所詮娼婦と乱暴に扱われると思っていたアイシャの方が困惑した。
だが、同時に青年の深い愛情はとても心地よかった。身体の芯が痺れてくる。
ハワードは彼女の胸の刀傷も気にしなかった。優しい愛撫はさらに続いた。そして時が経つにつれてアイシャの唇から女としての声が幾度となく零れ落ちた。
そうしていよいよ感極まり、アイシャが切ない声でハワードを求めた時、彼はずっと昂ぶり続けていた激情を少女の中へと一気に吐き出した。
『―――っ~~!』
アイシャの瞳が大きく見開かれる。
アイシャへの愛情も合わさったその情熱は凄まじく、初めてだった彼女にはあまりにも激しすぎた。結局、情熱は一度や二度程度では収まりきらず、アイシャが果てるまでハワードは彼女に夢中になった。
キュウ、と完全に目を回してしまった少女を前にした時には、流石にこれはやり過ぎてしまったか、と人でなし伯爵が珍しく冷や汗までかいて反省したぐらいだ。
「いや、その、本当にすまなかったな、アイシャ」
そう告げて苦笑を浮かべると、ハワードはアイシャの髪を一房ほど手に取った。
これまでは女など使い捨ての道具のように扱っていたが、彼女だけは違う。
「だが感謝もしているんだぞ。アイシャ。お前のおかげで、三日後に向けて私はこの上ないベストコンディションを整えられそうだ」
指先でアイボリーの髪を愛しげに弄る。
次いで彼女の頭に手を乗せ、少し真面目な表情に切り替えると、
「時間がなく今回はやむを得なかったとは言え、こうしてお前を一度抱いたからにはもう不慣れな我慢をする気もない。お前の人生はすでに私の掌中にある。手放すつもりもないので見初められたのが運の尽きと諦めてくれ」
と、何とも手前勝手な宣言をした。
無茶苦茶な台詞だと多少の自覚はあるのか、どこか自嘲の笑みを浮かべるハワードだったが、それも一瞬だけのこと。アイシャは自分のモノである。その考え自体は少しも揺らぐことはなかった。これはもはや確定事項なのだ。
ただその時、アイシャが「う、ン……」と呻き、「うるさい。ハワードのむっつり伯爵」と呟いたことにだけは目を丸くしたが。
ハワードは「……ふふ」と笑みを零すと、彼女の髪を撫でながら「アイシャよ。これからもずっと私に尽くしてくれ」と願う。
その声には紛れもない愛情が宿っていた。
始まりは歪な関係であったが、間違いなくハワードはアイシャを愛していた。
これから抱く女はきっと彼女だけだろうと予感していた。
だからこそ、一時しのぎで他の女をあてがうような真似はせず、拙速であると自覚しつつも、今アイシャを抱いたのだ。自分の闘争本能を受け止められるのは、宿敵を除けばもはや彼女だけなのだから。
かつて多大な才に恵まれた故に空虚だった青年はかけがえないものを得ていた。
それは、己が半身とも呼べる新たなる愛機――『力』の象徴。
それは、決して失いたくない愛する少女――『心』の支柱。
そして、全力を尽くすに相応しい少年――『運命』の敵。
「……ふふふ」
ハワードはベッドから立ち上がった。
その顔には、不敵に笑みが刻まれていた。
ハワードは壁にかけてあったガウンを纏うと、一人バルコニーに向かった。
そして――。
「さあ、我が宿敵よ!」
両手を天へと広げ、夜明けを前にして喜びを叫ぶ。
「あと三日だ! いよいよあの日の続きを行おうではないか!」
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