深愛なる者 (前編)
健全な精神は健全な身体に宿る。
軟禁部屋に五日間引きこもって、不衛生を満喫した寸田川先生は不健全の塊になっていた。精神がイッてしまうのは道理と言えよう。
そういうわけで、寸田川先生は部屋備え付けのバスタブに沈められた。
「ぐぼぼぼ、っ、ちょ、息がっ……すとっぷぅ、ごぼぼ……てごころ……ふうぶ……ぷりーず」
「そない不潔な外見で拓馬はんに会うとか許さへん! みんな遠慮はいらん、隅から隅まで洗うんや!」
風呂場から聞こえてくる派手な水音と寸田川先生の溺れ声は二時間サスペンスを彷彿させ、俺の手は自然と合掌の形となる。
バスタブから生還した寸田川先生には食事が(強制的に)振る舞われ――
「もがもがもが、むっぐぐ」
息つく暇なく口に食べ物を詰め込まれる先生の姿はフォアグラ用のアヒルを彷彿させ、俺の目は自然と悲惨な光景から逸れる形となる。
ともあれ風呂と食事を済ませ健全さを取り戻した寸田川先生は、取り返しの付かない変態から取り返しが付きそうで付かない変態へと人間性を向上させた。ようやくまともな会話が期待できる。
「そんで、脚本の執筆はどうなん?」
「胃が……一気に食べさせられたから胃が……うう、脚本かい? ご覧の通りだよ。
テーブルの上のパソコンを見やり寸田川先生は肩をすくめた。彼女らしからぬ自嘲的な笑み、相当参っているようだ。
「『親愛なるあなたへ』を超えるのは難しいんですか? 涙腺突破のストーリーなのはあたしも同意ですけど、あれって時間もかけずにパパッと書いた作品でしょ。時間をかけて考えた作品ならもっと凄い物になるんじゃ?」
音無さんが素人ならではの考えを示す。
「そこのダンゴ君は創作というものが分かってないね。脚本のクオリティと構想時間に相関性はないよ。むしろ難産より安産な方が秀逸な出来だった、なんてままあることさ――それより、タクマ君がここに来たと言う事はボクらのチームに参加してくれると解釈して良いのかな?」
「参加の判断をするために、寸田川先生の様子を見に来ました」
俺抜きでも『親愛なるあなたへ』を凌駕する脚本を作っているなら無理して出しゃばる必要はないと思っていた……って、我ながら度し難い傲慢な思考だ。いけない、俺が重宝されているのは男としての希少性からだ。演技自体は及第点ギリギリレベル。未熟と自覚し、謙虚に己を研鑽しなくては。
「タクマ君が協力してくれるなら大いに助かるよ。格好悪いところを見られた手前、見栄を張っても仕方ないか……正直に話すと、ボクは
「なんやて? 天道祈里がうちらを口説き落とすのを想定していたっちゅうんか?」
「想定していたと言うより願っていたかな? 元よりタクマ君がいなくちゃ『親愛なるあなたへ』には勝てない。タクマ君なしの脚本を書くなんて時間の無駄さ」
『親愛なるあなたへ』
先日、日本語に訳したソレを読んでみたのだが、名作とは
平和な母子家庭に忍び寄る婚活女子の重圧。結婚を義務付けられ荒れる息子と、彼をお婿に行かせたくない母。二人の葛藤が織りなす人間模様が、観る者の心をつんざく。
タイトルの『親愛』通り、母が子に抱く愛をこれでもかと表しており、日本に残した母さんを思い出さずにはいられない。クライマックスの婿入りする息子と送り出す母親のシーンは感涙必至で、試験管片手に俺の涙を回収せんとするダンゴ共を追い払うのには苦労したものだ。
演技の勉強の一環として古今東西の名作ドラマや映画は一通り鑑賞しているのだが、『親愛なるあなたへ』は俺の世界でも間違いなくトップクラスの出来。それを上回ろうとして、寸田川先生が精神を病み変態ランクを上げてしまうのは順当かもしれない。
「『親愛なるあなたへ』の凄さはボクが一番理解している。アレを打ち破るのは並大抵のことじゃないだろうね」
「ほーん。『親愛なるあなたへ』を毛嫌いしとったセンセにしては殊勝なお考えやんか」
「嫌いだからと言って、作品を過小評価していたらボクは今の地位にいないよ。その辺りのバランスと言うか分別は出来ている」
「せやったらまた酒飲んで書いたらどうや? センセの趣味やないけどごっつ感動作が生まれるかもしれへんで」
「冗談でも言ってほしくないな、マーヤ。人間の善の部分を前面に押し出して『イイハナシダナー』させる脚本をまたボクに書かせるのかい? ゲテモノ過ぎて吐き気がするよ」
「なに言うとんねん。昔のセンセは心を温かくする名脚本を書きまくとったやないか。ゲテモノなら今のセンセの作品やろ!」
「その口ぶりからしてマーヤはボクの過去作のファンかな? あんな嫌々で書いていた物を尊ぶなんて趣味が悪いな」
「そのまんま返すわ! 過去の作品はしっとり系で婚活や仕事に疲れたうちの心を慰めてくれた。それやのに、今の作品はなんや! 特殊性癖が乱舞する話ばかりやないか!」
だんだんヒートアップする真矢さんと寸田川先生。
「ちょ、ちょっとお二人とも」
いがみ合う二人をどうすれば説得出来るかは分からない。でも、とにかく落ち着かせようと俺は間に割って入った。でーー
「あん。拓馬はん、そこぉ」
「かつてなく湿るっ! オムツ付けていて正解だっ」
割って入る時に二人の身体に手が当たってしまった。その触りどころが悪かったらしい、アンラッキースケベである。
真矢さんと寸田川先生は喧嘩するのも忘れて、もじもじとその場に座り込んだ。
はぁはぁと元気に発情して「もっとぉ」と物欲し気な視線を寄越してくる。
「あえて争って三池さんからのお触りをゲット!? なんて高等テクニック!?」
音無さんが目を見張り「あたしも静流ちゃんと一芝居……」とブツブツ言っている。
他の組員さんたちも「そういう手もあるのか」と感心して何度も肯いている。
どうやら今後、南無瀬組内では見せかけの不和が流行りそうだ。
クールタイム後、再び場が熱くなったり
「真矢さんって寸田川先生のファンだったんですね」
「昔の話や。今はちゃうねん」
真矢さんが寸田川先生に対して当たりが強いのには理由があったんだな。かつて好きだった脚本家が変態化したら、そりゃ反感を持ちたくもなるか。
「寸田川先生としては今の姿が本来の自分だと」
「そうさ。若い頃は実績がなくてね、上の注文には絶対服従だったんだ。お行儀のいいテーマでたくさん書かせてもらったよ。共感できない台詞を考える時の苦痛ったらないね」
「でも、高く評価されていたんですよね?」
「自分の才能が憎い。やる気がなくても一流の脚本を書いてしまうなんてね。まったく、人間の汚い部分や毒を廃して聖人ばかりを出して何が面白いんだか。みんなもっと自分と下半身に素直になるべきだよ」
みんなが寸田川先生レベルになったら終わるぞ、この世界……
あれ、寸田川先生は綺麗な脚本を嫌っているんだよな。でも、酔っ払った時はいつもの自分を恥じて『親愛なるあなたへ』なる美しい物語を書き上げていた。
どっちが本当の彼女なんだ?
「ご高説は構へんけど、自分好みの要素を取り入れてその結果がアイディア欠乏による文豪ごっこなん?」
「ぐっ、言うじゃないかマーヤ」
「ま、真矢さん。煽らないでくださいよ」
「もう感情任せに突っかかったりせぇへん。拓馬はんのおかげで熱ぅなっとった頭は冷えた」
「その分、下が熱くなっていましたよね」
ポロッと出た音無さんのツッコミを無視して、真矢さんは続ける。
「今のセンセは自分を見失っとる。我欲ばかり優先して空回りや。天道美里はんに挑発されてムキになっとるんやないか?」
「そんなことはっ!」
「そこや。普段のセンセならうちの言葉に反発したりせぇへん。ヒョイヒョイと受け流すやろ。もっと冷静になったらどうや?」
「……んん」
「まあ、自分の欲を追求するのは否定せぇへん。せやけど、自分だけで追うのは止めた方がええで。迷った時は誰かからアドバイスをもらうのが常道や。部屋に五日こもっても出てこへんかった良案が浮かぶかもしれへんで」
「へ、へぇ。ボクの好みを取り入れつつ『親愛なるあなたへ』を超える案を持っている人がいるなら、是非とも会ってみたいもんだ。そんな人が存在するならね」
「おるかもしれへんよ。意外とセンセの近くに」
そう言って真矢さんは寸田川先生から見えないようにして、意味ありげな視線を俺へ向けた。
…………へっ? 俺がアドバイザー?
寸田川先生の軟禁部屋を退出して、テレビ局の廊下を進む。
別れ際に「マーヤの意見に耳を傾けるのはシャクだけど、身近な人に聞いてみようかな」と寸田川先生は
「あの真矢さん」
「なんや?」
「もしかして、俺が『親愛なるあなたへ』を超えるアイディアを持っている、って思ってます? ……ってまさかですよね。すみません、ちょっと自意識過剰なことを言ってしまって」
照れ臭くなって頭を掻く俺に、真矢さんは何でもなさそうに言った。
「せや。拓馬はんなら何とか出来る、ってうちは思っとる」
「い、いいっ。買い被り過ぎですよ」
「そないなこと言って、拓馬はんはいっつもうちらを驚かせるアイディアを出すやん。期待してまうで」
期待されても困るって。世界トップレベルの脚本に勝つアイディア? んなもん持ってるわけない。
「……すんまへん、拓馬はんにプレッシャーを与えてもうて。今の話は聞き流して忘れてな。だいたい拓馬はんがセンセの脚本に出るって決まったわけやない。むしろこれ以上近付かんのが賢明やろ」
「真矢さん……」
「椿はんと同じでうちも調子悪いみたいや。ちょい一人になるわ」
真矢さんは先頭を歩き出した。俺からは表情が見えない先頭を。
「くんくん。愛憎の匂いを感じます」
隣の音無犬が鼻を鳴らす。
「かつてはファンとして応援していた寸田川先生。彼女が変態だと判明して失望したものの……ファン故の未練か、その窮地には手を差し伸べたくなる。真矢さんも複雑ですねぇ」
「ですね」
ふざけた物言いに反して鋭い人間観察をする音無犬。
椿さんと真矢さんが不調の中、この人が健在なのは心強いようなそうでないような……うむむ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
中御門邸の南無瀬組用離れに帰り着く。
「三池さん、手洗いウガイが終わったら静流ちゃんを見舞ってくれませんか?」
「そのつもりですよ。椿さん、体調が回復しているといいんですけど」
本日、椿さんは休養日となっていた。朝方会った時、一目で分かるほど憔悴していて音無さんがベッドに押し戻したのである。
「絶対回復していません。だって産地直送の三池さん成分を六時間くらい摂取していませんから。お見舞いついでに静流ちゃんの部屋を念入りにマーキングしてください。三池さんの濃厚な残り香が治療の鍵です」
「で、出来るだけ善処します」
俺は音無犬と違って人間なんだけどな。マーキングってどうやってするんだ?
「椿さん。起きていますか?」
ドアをノックすると。
「肯定。遠慮無く入ってほしい」
椿さんの声がドアを越えて届く。弱々しい声量でも聞こえるなんて、通りの良い声なんだな。ちょっとした事に彼女が天道歌流羅だと気付かされる。
「失礼します」
「来て。可及的速やかに」
薄暗い部屋の奥、ベッドに座った椿さんが俺を迎えた。
寝間着姿が病衣に見えるほど彼女は衰弱していた……ものの。
「すーはーすーはー。これ、これを待っていた。三池氏成分が身体を駆け巡る。すーはーすーはー」
何ということでしょう。
カサカサだった肌に潤いが戻り、ちぢれていた髪の毛はクシでとかしたようになり、充血しクマが出来ていた目には輝きが灯る。
枯れ木が満開の花を咲かせるように、椿さんの身体が生命の息吹を取り戻していく。
「すーはーすーはーすーはー。ふぅ、峠は越えた」
周りの人々が、まことしやかに囁く俺成分。それをとても分かりやすく視覚化することが出来た。
こいつはやべぇ、麻薬より数段やべぇ。自分から流れる謎成分の影響の大きさに震えが止まらねぇ。
「寸田川氏は脚本を完成させていた?」
「白紙に等しい状態でした。難航しているようです」
「そう……」
落胆しているのだろうか。百面相の相方と違って、表情から椿さんの感情は読み取りにくい。
「三池氏は天道祈里らを手助けするつもり?」
「えっ?」
「寸田川氏の動向を調べに行ったのも、祈里チームがどこまで母親の美里氏に肉薄出来るか観るため」
祈里さんたちに協力するかもしれない。
その事は椿さんに伏せるようにしていた。
自分の姉妹の強制結婚を防ぐために、護衛対象の俺がやらなくてもいい難題に巻き込まれる。椿さんは責任を感じるだろう。
「そんなわけないですよ。ただの敵情視察です」
「私は他人の嘘を見破るのが得意。忘れた?」
くっ、あったな。そんなインチキスキル。
「勘違いしないでほしい。私の体調不良と祈里、紅華、咲奈は無関係。私は天道家を捨てた女。元姉妹には何の感情も持っていない」
「……嘘ですね」
「なぬっ?」
俺は椅子をベッド横に引き、その上にドカッと座った。とことん言い合うためである。
「椿さんほどのスキルは持っていませんけど、それくらい俺にでも分かりますよ。例えば咲奈さん。あの子に対して、椿さんは親愛の情があるはずです」
「なにを証拠に?」
「以前、『魔法少女トカレフ・みりは』の舞台に俺が急遽悪役として参加したことがあったじゃないですか」
当初悪役を務めるはずだったサカリエッチィ役が負傷し、着ぐるみも壊された。咲奈さんの劇団の窮地を救うためにぎょたく君こと俺がアダルティな悪役に扮したのである。
「大きなトラブルによって咲奈さんは不安に
「そ、それは主役である咲奈のモチベーションが下がっていては、三池氏の参加する劇が失敗に終わる可能性があったから」
「同じ劇団の人でも咲奈さんの心中を察知していなかったのに、椿さんだけは分かっていた。彼女をよく観ていたからだと思いますけど」
「ダンゴの観察力を甘く見てはいけない。三池氏以外の人物にも適応される」
「……分かりました。そういうことにしましょう。じゃあ、次は祈里さんです」
頑固な椿さんである。次の手札を切ろう。
「むっ、天道祈里に私が親愛の情を?」
「ちょっと異なりますけど、パンツァーになった祈里さんが犯罪に走らないよう、お手製パンツを作りましたよね」
「ああ、あれ」
椿さんが心底嫌そうな顔をする。
「何も思っていないのなら、どうしてパンツ作りを手伝ったんです? 実の姉が犯罪者になるのを忍びなく感じたからじゃないですか?」
「深読みよくない。手伝ったのは、天道祈里を下着泥棒にさせたくないという三池氏の意向を汲んだから。パンツ狂いの姉が三池氏を困らせるくらいなら、いっそ塀の中で大人しくしてほしい――というのが私の本心」
……あれっ。本音を誤魔化しているようには見えないぞ。
実の姉だろうと、パンツァーにかける慈悲はないのか?
「ごほん。えーと、祈里さんの話題はなかったことにして……残りは紅華ですね」
「私が紅華をフォローしたことがあった?」
「ありましたよ。えーと、ほら……えーと……」
…………いや、ないわ。思いつかないわ。
そもそも紅華は『お
「思いつかないのなら、話はここまで」
「ちょ、ちょっと待ってください。何があるはずです。椿さんが親愛の情を持っているのは確かですから」
「そんなものはないってーの!」
「……へっ?」
一瞬、誰が喋ったのか分からなかった。目の前の椿さんから出たはずなのに、声色もテンションもまったくいつもと違った。
椿さんはハッとしながら自分の口に手を当てて。
「……謝罪する。少し、バグった」
「バグった?」
「深い意味はない」
嘘だ――とは言えなかった。我が身を呪うような忌々し気な顔。椿さんに大きな影が落ちている気がして、俺はそれ以上追及出来なくなる。
ここらが潮時か。マーキング? も多分できたと思うし。
「今日はお
「あっ、待って」
椿さんが縋るように呼び止めてきた。もしや、本心を語ってくれるのか!
「これ」差し出してきたのは。
「タオル?」
「そう。それで乾布摩擦して返却してほしい。汗をかいている状態だとなお良し」
「失礼しました」
俺は振り返らず椿さんの部屋を出た。
「どうしたもんかなぁ」
自室のベランダにて、夕暮れ染まる中御門家の広大な庭を眺める。
椿さんが言っていた「バグった」
一体どういう意味なのだろう。彼女の不調に深く関係している気はするんだが。
「姉妹への情もあると思うんだけどな……」
分からないことだらけだが、このまま何もせずにコンペ勝負になだれ込むのは不味い。俺の直感がそう告げている。
「けど、祈里さんチームに手を貸そうにも『親愛なるあなたへ』を超えるアイディアなんて浮かばねぇぞ」
真矢さんに期待されていることもあって、ずっと親愛超えを考えている。しかし、俺なんかが簡単にひらめくなら寸田川先生が文豪ごっこに興じることはないだろう。
「そういえば、真矢さんが言っていたな。迷った時は誰かからアドバイスをもらうのが常道……って」
俺も誰かから助言をもらうか――そう思った時である。
中御門家の母屋に繋がる渡り廊下に人の姿が見えた。
夕暮れによって
「あれは――由良様」
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