第5話 交換
俺は9時の5分前にいつもの公園に着いた。すでに龍治は居り、短い髪で袖の長いシャツにジーンズを纏った姿を初めて龍治に見せた。
「ああ、そのままの忍も素敵ですね……」
俺は微笑んでいる龍治の腕を引っ張りながら「道を憶えろ」と言い、職場へと向かった。職場は公園から歩いて行ける距離にあった。
職場に着き、朝礼が終わると、小野が龍治を立たせて俺と茅野に向かって言った。
「今日から一緒に働く須藤龍治君だ、仲良くやれよ……とりあえず仕事のやり方は加藤が教えてやってくれ、お前の紹介だから」
そう言うと、小野は何処かへ去っていった。
茅野は椅子から立ち上がり、龍治に声を掛けた。
「私は茅野那美、よろしくね」
龍治は茅野の左手首を見てから言った。
「怪我ですか?その左手首は」
茅野は笑顔で言った。
「ただのリストカットだよ、時々やってるんだ」
龍治は微笑んで言った。
「何だか、私と気が合いそうですね、よろしくお願いします」
2人は右手で握手をした。
とりあえず平野が座っていた席に龍治を座らせて、俺は仕事の流れを説明した。
「とりあえずこのマニュアルを読んで……大抵の事はテンプレートをコピーアンドペーストで終えられるから、担当者名だけ変えておけば良い……変なメールが来たら俺に言って」
龍治は「分かりました」とだけ言い、パソコンを操作し始めた。
龍治はパソコンの操作に慣れていた。作業方法の飲み込みも早く、その上、仕事を片付けるペースが早かった。
俺は驚きながら言った。
「龍治、普通に働けるじゃないか……」
龍治は微笑みながら言った。
「この程度なら、簡単じゃないですか……仕事って、これをひたすら続ける事ですよね?」
俺は「まぁ、そうだな」とだけ言った。
しかし、自分が撒いた種ではあるが、リストカット趣味の女と首吊り趣味の男に挟まれた状態で仕事をする事は、何となく嫌な気分だった。
しかし、俺には女装趣味がある。
コールセンターの片隅にあるメール処理担当者は、所謂変態だけの状態になってしまった。
その日の夜も、いつもの公園で俺はウィッグを被り、ワンピースを着て、地面に横たわっている龍治の上半身を起こした。龍治はまた俺を抱き締めた。
龍治は耳元で優しく言った。
「忍も、体験してみませんか?自殺未遂を」
いつもうっとりとした龍治の顔を見て、俺は少し興味を持ち始めていた。
龍治はゆっくりと言った。
「忍の為に、切れ込みを入れたロープをもう1つ用意してあるのです……やってみませんか?」
俺が頷くと、龍治は俺から腕を離して、小さい脚立に乗った後、地面に置いてあったロープを桜の木の太い枝に縛り付けた。
「ほら、やってみてください……気持ち良いですよ」
龍治の言う通りに俺はロープに首を掛けようとしたが、輪の半分にしか頭が届かなかった。龍治は俺の体を抱きかかえ、少し上げた。俺がロープの輪に首を掛けると、すぐに龍治は手を離した。
「がっ……がっ……」
呼吸が出来ない苦しさに耐え切れず、俺は声を漏らした。
しばらくすると、ロープが切れて俺の体は地面に落ちた。
龍治は微笑みながら言った。
「どうですか?気持ち良いでしょ?」
俺は龍治を睨みつけて言った。
「全然気持ち良くない……苦しいだけだ」
龍治は悲しそうな顔をして言った。
「理解して貰えなくて残念です……でも、何度もやっていれば、いつか気持ち良くなると思います……今度は忍の番です」
俺は唖然として言った。
「俺の番って、どういう事だ?」
龍治は微笑んで言った。
「私が忍の様に女装するのです……忍の家で」
公園から10分程歩くと、俺の住むアパートに着いた。
玄関のドアを開け、部屋の照明を点けてから、玄関に佇んでいる龍治に向かって手招きをした。
龍治は「お邪魔します」と言って、靴を脱ぎ、揃えてから部屋の中に入ってきた。龍治は部屋の中を見て言った。
「随分とシンプルな部屋ですね」
部屋にはベッドと小さなテーブルとクッションが1つ、三面鏡と姿見だけが置かれていた。
ぼんやりと部屋を見回している龍治に俺は言った。
「給料のほとんどは女装用の服と靴に使っているからな」
その時、急に龍治は俺のワンピースの裾を掴んで捲り上げた。
俺は慌ててワンピースを抑えると、龍治は手を離して不思議そうな顔をした。
「下着はトランクスなのですね……」
俺は俯いてから言った。
「さすがに、女性下着売り場へは行けないから……」
「では、今度私が女性用の下着をプレゼントしましょう……サイズはSで良さそうですね」
そう言う龍治の顔を見ると、やはり微笑んでいた。
俺はクローゼットを開け、龍治に向かって手招きをして言った。
「着てみたいワンピースはあるか?どれを着てみる?」
龍治はハンガーで吊り下げられているワンピースを次々と手に取りながら言った。
「もう少し、大きいサイズの物はありませんか?肩幅が大きい物は?」
俺はクローゼットから1つのワンピースを取り出して龍治に渡した。
「これはどうだ?前に付いているボタンで閉めるタイプだけど」
龍治はワイシャツを脱ぎ、ワンピースを身に纏ってボタンを閉めようとした。しかし、ボタンとボタンホールが重なる事は無かった。
俺はため息を付いてから言った。
「これより大きいサイズは無い……駄目だな」
肩を落とした龍治を見て、俺は言った。
「じゃあ、せめてウィッグだけでも被ってみるか?」
俺は龍治を姿見の前に立たせ、自分が被っているウィッグを渡した。龍治はそれを受け取ると、鏡を見ながら頭に乗せた。
「うーん」
龍治は唸った後、振り返って俺を見て言った。
「どうしても、ただの髪の長い男です」
龍治はウィッグを取り、俺に渡してからため息を付いた。
俺はそれを三面鏡の前に置いてあるウィッグスタンドに乗せ、ブラシで整えてから言った。
「とりあえずコーヒーでも飲むか?インスタントだけど……適当に座ってくれ」
龍治はクッションを置いてある方の向かい側に座り、テーブルに肘をついて重ねた両手の上に顔を乗せた。
その姿を見てから、俺はキッチンで湯を沸かし始めた。
俺はクッションの上に座り、龍治と向かい合った。
龍治はマグカップの取っ手を左手で持ち、中身のコーヒーを一口啜ってから、悲しそうに言った。
「女装、楽しみにしていたのに……駄目でしたね」
俺もマグカップの中身を一口啜ってから言った。
「まぁ、龍治は俺よりも背が高いし、肩幅もあるからな……俺の様なナヨナヨとした体とは違うから」
龍治はマグカップをテーブルの上に置いてから、微笑んで言った。
「ところで、忍の恋愛対象は男性ですか?女性ですか?」
俺もマグカップをテーブルの上に置いてゆっくりと言った。
「恋愛対象は女性だ……女装は好きだけど、女が好きだ」
龍治はまた問い掛けてきた。
「彼女は居るのですか?」
俺はため息を付いてから言った。
「大学生の頃、1人だけ居た」
龍治は悲しそうな顔をして言った。
「では、童貞では無いのですね……」
俺は昔の頃を思い出してから言った。
「いや、童貞だ……彼女と良い雰囲気になって、お互いに服を脱いでベッドに入ったが……彼女の脱いだ服ばかりを見ていたら彼女が急に怒り出して、服を着て、さよならとだけ言ってから俺の部屋から出て行った……それきりだ……電話も着信拒否だ」
龍治はまた微笑んで言った。
「では……私と寝てみますか?私は男と寝た経験はありませんが」
俺は龍治から目線を外して言った。
「お断りだ……男同士なんて考えられない」
ふと壁に掛けてある時計を見た。すでに深夜2時だった。
「龍治、明日も仕事だから、もう寝よう……泊まって行け」
龍治は楽しそうに言った。
「じゃあ、ベッドに2人で寝ましょう」
俺は立ち上がってクローゼットから薄い毛布を取り出してから言った。
「龍治は床で寝ろ、これを掛けて……枕はクッションを使ってくれ」
龍治は項垂れて言った。
「また……これで2回目です」
俺には龍治が言っている意味が分からなかった。
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