1.幸せのおまじない

2.



" ――この世界に閉じ込められてから一月は経つだろうか。


 きっかけは、向こうの世界の恋人によるおまじない。

 彼女曰く、幸せのおまじない。


 自分に幸福な世界ばかりを見てきた俺に、彼女が掛けてくれたおまじない "






*****






「――ふぅ」



 現在時刻、16時30分といったところだろうか。

 季節的な問題だろう。もう、陽はほとんど落ちかけてきて、辺りに若干の陰りを見せ始めていた。


 経験に基づいた完全な予測だが、気温は-5℃辺り。

 ガッチガチに冷えた両手は、本当に生きている人間の手かと錯覚するほどに青白く、また、それは両手だけに限った状態ではなかった。



「おらッ! トロトロ回してんじゃねぇぞ、奴隷共!! そんなに”外”に行きてぇのか!!!」



 何度聞いても聞き慣れる事の無い、下劣で低能な野郎の声。

 しかし、体というのは無意識に反応してしまうもので、反射的に声を張り上げてしまう。

 それは諦めた様子の小さい返事であったり、短い悲鳴であったり、悪態であったり、それぞれ様々な反応だった。



「……おい、今ァ文句言ったヤツはどいつだ? 261番、てめぇか?」


「……ヒッ! ち、ちが、」



 わざとであっても、そうでなくても、悪態をついてしまったクール気取りの阿呆にはクソ野郎からムチのプレゼントが待っている。


 ガッチガチに冷えて固まった身体にそのぶっといムチはよく効き、一度喰らえば自然治癒に数ヶ月は掛かると言われる跡がつく。

 また、その間はずっと気持ち悪く張り付いた蚯蚓腫れによる痛みと、不快感を伴いながら生活をしなければならない。

 それは俺達の様な奴隷にとって最も恐れるべき状態であり、それによって仕事の効率が落ちて更に叩かれたりと、悪循環の元になりかねないのだ。


 ……最悪、傷口からばい菌が入ったりしてしまったら、その時は。


 だから普通なら最低限の注意を払うものだが、今まさに俺の目の前でぶったたかれた阿呆の様に、要領の悪いヤツなんかは喰らってしまう。


 目の前だからよく見えるのだが、背中には滲む……という表現では多少温いほどの血が見え、それは叩かれた箇所だけでなくじんわりと彼のボロ布を濡らしていった。



「次何か言ったら、殺すぞ」



 クソ野労は血濡れのボロ布を着た男にそう言うと、唾を吐いてから少し離れた所で煙草を吸い始める。

 少しイライラした様子だった。



(痛いだろうな……)



 思わず、レバーを握る両手に力が入る。


 俺たちが回しているのは金属製の短いレバーだった。

 回す事で下方に設置してあるよく分からない機械から"魔力"とやらを生成し、クソ野郎共はそれを売って金を得ているらしい。


 しかし、この……いわば魔力生成装置とやらはやたら重いうえに、そうでなくても相当古いものらしく、レバーが錆付いていたりして一歩一歩足を踏み込む事でさえ苦しい。


 奴隷として連れて来られた俺たちは、ほとんど毎日この装置を動かすべくコキ使われ、日が完全に暮れると牢屋に戻される生活を送っている。

 その際にクソ野郎共が払う対価は硬いパン1つとドブの臭いがする一杯の水のみ。


 牢屋に戻した後は"商品"として俺たちを売り出す癖に、栄養バランスも糞もない、最悪な環境だった。


 もちろん、一日中行われる重労働や、劣悪な環境の所為でボロボロの俺たちを買おうなんて物好きは少ない。

 目をつけられたとしても、大抵イッた目をしてる富豪風の連中ばかりだ。

 そんなのに買われても、碌な結末にならない事は分かりきっている。


 もし俺が逆の立場なら、もっとうまくやるのに――



「――がッ!」



 ……と、そこで突然、目の前の男が倒れた。

 チラと見てみると、そいつの口から血が垂れているのが分かる。



(うっげ……リアルだ)



 引いた。


 ムチの勢いが強すぎたのか、元々体力が限界だったかは分からない。

 しかし、何らかの理由で男が内臓にダメージを受けていたのは間違いないようだ。


 それこそ、血反吐を吐くくらいに。



「ゲェッ! ゲェッ……!」



 男は吐き続けていた。

 ……辺りにむせ返るような血の臭いが漂ってくる。


 俺を含めた奴隷の人間たちの視線が一斉に使役者であるクソ野郎の元へと集中する。



「……あん? 

 ……ちィ、そういうことか」



 クソ野郎は俺たちの視線から男の様子に気付くと、ゆっくりと進みだした。


 欠陥状態の商品の状態を確認するつもりだ。

 こういう光景は別に珍しくない。



「……ひっ」



 男の方も何をされるのか知っているのだろう。

 クソ野郎が近付いてくるのが分かると、途端に震えて怯えだした。 


 

「……た、助けてくれ! 誰でもいい

 ――そうだ、あんた! 助けてくれ! 助けてくれ!」



 ……うわ。

 よりにもよって、男は俺を見上げながら助けを求めてきた。

 そんな事をしても無意味だという事は分かっているだろうに、悪あがきのつもりなのだろう。


 何にしてもクソ迷惑である事には変わりない。

 俺にまで被害が及んだらどうするつもりなのか。



「……」



 男の要求に対し、俺は目を逸らす事で解答を示す。

 ……誰がお前なんかを助けるか、と。



「――っ」



 男も悟ったのだろう。

 俺が助けてくれないと分かると、周りの人間にも叫び始める。



「た、頼むッ!! 助けてくれ!! た、助けてくださいッ! ま、まだやれる、やれますから!!」



 しかし、周囲の人間が示すのは俺と同じ反応。

 それでも男は必死に叫ぶが、ある者は気まずそうに、ある者はまるで聞こえてなどいないかのように振舞い続ける。


 当たり前だった。


 作業を中断させた奴隷を助けるなんて行為はこっちの命まで危うくなる。

 そもそも、助けてと言われたところで俺たちにはどうする事もできない。



(それに、自業自得だ)



 自分の本音を隠し通せないヤツはいつか痛い目を見る。

 俺が、あっちの世界で学んできた事だ。



「……」



 突然、男は声を上げるのをやめた。

 見れば、今追いついたであろうクソ野郎が男の首根っこを掴んで持ち上げている。


 首の皮を後ろから無理矢理引っ張るように持ち上げているから、声が出せないんだろう。


 男の喉からは、締め上げられ逃げ場を失った空気が漏れ出る音が聞こえた。



「……」



 男はもう、俺を見ていない。

 諦めたかのように虚空を見つめている。


 代わりに俺を睨みつけるのはクソ野郎の方だ。



「おい」



 クソ野郎の声。

 すぐ近くで聞こえる不快な声は、俺に向けられていたものだった。



「……なんでしょう」



 なるべく自然に、動揺に気付かれないように返事をする。



「お前は、こいつを助けられると思うか?」


 ……は?


 思わず、声に出すところだった。

 しかし、それほどに予想外の言葉を掛けられたという訳だ。


 ……返答は直ぐに行わなければならない。 



「……それは、医療技術的な意味でしょうか」


「違うな」



 ナイフが突きつけられる。



「――ッ!」



 ……それは頬をかすめ、すぅ、と傷口を作り、開いてゆく。

 それが浅いのか深いのか、恐らく前者だがしっかりと血も流れ始める。


 量は、目の前に居る男のように命に関わりそうなほどではない。



「お前は早すぎる」



 クソ野郎はそれだけ言うと、男を引きずってどこかへ行ってしまった。

 最後に謎な言葉を残して。



「……」



 俺はといえば、情けない事に恐怖で身体が震えている。

 人間、この状況でいきなりナイフなんて突きつけられたら皆同じ反応をするだろう。



(何だってんだ……)



 何か間違った事を言ったのだろうか。


 気に障ることを言ってしまっただろうか。


 何にしても、いきなり刃物を突きつける事は無いだろう。

 突拍子が無さ過ぎて、やはり自分はこれまでとは別の世界に居るのだと再認識せずにはいられなかった。


 ……ややあってから作業は再開されたが、日が暮れるまでの間、クソ野郎は二度と俺に目を向けることは無く。

 男も、もう戻る事はなかった。



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