八ノ回廊 ほおずき

――こんな夢をみました。


 明け方の浅い夢の中で、一年前に亡くなった母の夢をみた。

 昔住んでいた古い平屋の奥の六畳間、縁側のある部屋にちょこんと母が座っている。まだ四十代くらいの姿で、今の自分とほぼ同じ年代である。

 自分が幼かった頃に、家でよく着ていた銘仙めいせんの着物の姿だった。それは灰色がかったくすんだ色調で、生地が玉虫色に光る感じの典型的な銘仙の柄だった。 

 地味な着物だが、それは母によく似合っていたと思う。自分の中の母のイメージはこの銘仙そのものだ。


 長い間、母は家で和服の仕立てをやっていた。

 毎日、呉服屋さんから預かった反物で着物を縫っている。反物の切れはしを持たされて、いつも手芸屋さんに絹糸を買いに行くのが自分の仕事だった。

 昼間はずっと正座して縫い針でチクチクと着物を縫っている。それがいつも眼に浮かぶ母の姿だった。


 十五年前に亡くなった父は、昔気質な職人でお酒が大好きだった。

 金さえあれば、お酒ばかり呑んでいた。しかも酔うと酒癖の悪い父は、些細なことで腹を立てて、母を殴っていた。父に足蹴りされて、肋骨が折れたこともある。

 晩年、母が怖い夢を見たと云ったことがあった。――それは、酒に酔った父に殴られて逃げ回る夢だという。その言葉に自分は、ただ、ただ、涙を流した。

 こんな歳になっても、若い頃に受けた暴力の恐怖に脅える母が哀れだった。身体に刻まれた暴力の記憶は死ぬまで消えない。だから自分も父を嫌っていた。


 夢の中では、死人しびとはしゃべらない。

 冥界めいかいにいる母は、生前の苦しみを忘れたように、薄っすらと微笑んで穏やかな顔だった。何か、手に持っている。それは橙色だいだいいろのほおずきだった。

 子どもの頃、いつも仕立ての仕事が忙しく、遊んでくれたことなどない母が、ほおずきの実を鳴らして遊んでくれたことが、

 後にも先にも、あれが初めて母が遊んでくれた記憶である。


 ほおずきを貰って家に持って帰ったが、自分は遊び方を知らない。ほおずきの中身をくり出して音を鳴らして遊ぶのだが、鳴らし方が分からなかった。

 音なんか出ないと、ブツブツ文句を云って怒っていると、

「貸してごらん」と、仕立て物を縫っていた母が手をだした。

 そして、ほおずきを口に含むと音を鳴らした。


 ギュウ、ギュウ、ギュウー


 ほおずきを舌で押しつぶすようにして鳴らしている。ちっとも綺麗な音じゃない。

 まるで牛ガエルの鳴き声みたいだった。それでも、母が遊んでくれたことが自分には嬉しかったのだ。


 ギュウ、ギュウ、ギュウー


 また、ほおずきを鳴らす。自分の知らない、子どもみたいな母の姿だった。

 毎日々、生活に追われて、生活費のしにと、毎日懸命に仕立て物を縫っている母も、かつて、子どもの頃には、縁側でほおずきを鳴らしたことがあったのだろう。


 ギュウ、ギュウ、ギュウー


 ほおずきの音が、晩夏ばんかの夕暮れに哀しく響いた。


 あなたを見送ってから一年、あっという間に過ぎたけど、最近になって、あなたのことをよく考えている。

 あなたに不満ばかりをぶつけてきたが、心配をかけたり、怒らせていたのは、いつも自分の方だったことにやっと気づいた。

 実際のところ、あなたが母親として、こんな自分を産んで良かった、幸せだと感じることがあったのかな? 

 母娘だから、分かり合えるっていうのは嘘だね。

 本当は時間が経たないと分からないことばかりだった。結局、母娘ってお互いに肝心かんじんなことを話さずに終わってしまう、関係なのかも知れない。

 娘として何もしてあげられなかった。――こんな、親不幸な自分をあなたは許してくれますか? 


 ごめんなさい。いっぱい謝りたいんだよ。

 ありがとう。今なら感謝の気持ちを素直に伝えられそう……。

 大好きでした。夢でもいいから、お母さん、あなたに逢いたいよ――。

 

  もう逢えない人の夢をみた。

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