二ノ回廊 一葉さん

 ――こんな夢をみました。


「薄情者!」


 そう叫んで、立ち去る男の背中に向けてテッシュの箱を投げつけた。

 だが間一髪、玄関のドアに阻まれて、男には当たらなかった。ドアの向こうから、笑いながら立ち去る男の靴音が聴こえてくる。

 あんな男とは絶対に別れてやる。

 二度と来るな! 男への怒りが収まらない。


 自分は風邪を引いてアパートで臥せっていたのだ。たぶん熱があるのだろう、寝汗をかいて寝苦しい。その男はどうやら自分の恋人のようで、看病か見舞いに来てくれたようなのだが……。

 これは夢なので男との経緯が掴めず、シチュエーションだけで成り立っているようだ。


 ふたりで取り留めのない話をしていたら、いきなり男の携帯電話が鳴った。

 二言三言相手と会話して、すっと立ち上がると、病気で臥せっている自分のハンドバックから財布を出して、

「ちょっと金欠やねん、これ一枚貸してや」

 樋口一葉をヒラヒラさせながら、如才なく大阪弁で云う。

 てっきり看病に来てくれたものと思い込んでいた自分は、なぜお金がいるのかと男に訊ね返すと、

「スマン! これから俺デートやねん」

 と云って、へらへら笑った。

 自分の財布から抜いたお金で、今から女とデートだと!? なんて不実な男なんだ。

「これ、お見舞いや」

 コンビニの袋に入ったプリンを得意そうに自分に見せたが、こんな安い物で誤魔化されるもんかっ!

「じゃあ、また来るわ」

 そわそわと男が帰る支度を始めた。

「アホ! ボケ! カス!」

 自分は大阪弁三点セットの悪態を吐いたが、あははっ……と、男は動じる風もなく笑っていた。

 だから玄関に向かう男の背中にテッシュの箱を投げつけたのだが……命中せず……だった。


 チクショー! まじムカつく。

 ふと見ると、男が座っていたベッドの脇に何か落ちている。

 それは男の携帯電話だった。そういえば、さっき携帯が鳴っていたが、あれはデートの相手からだったのかも……。

 ベッドから手を伸ばして携帯を拾うと着信履歴を調べた。「ももこ」女の名前があった。

 ――この女が相手だな。証拠はないが確信を持ってそう決めた。

 何しろ夢の世界は思い込みだけで、成立する世界だから……。

 自分は男の携帯からリダイヤルを掛けた。ツルツツツゥーと呼び出し音の後で、やや甲高いかんだか女の声がした。


「あ、もしもし○○くん?」

 女は○○と親しげに男の名を呼んだ。

「…………」

「どうしたの?」

「○○くんのお友だち○○子よ。あのさぁー、あたしのベッドに携帯忘れていったって○○くんに伝言しといてねぇ。よ・ろ・し・くー」


 わざとタメ口で云うと一方的に切ってやった。

 今頃、相手の女がどんな顔をしているか、想像しただけで笑える。自分は結構、底意地の悪い女のようだ――。


 夢の中だから、時間は突然経つ。

 さっき出て行った男が夜明けと共に帰ってきた。

 ドアを細めに開けて、中の様子をうかがってからこっそり入ってきたようだ。男は自分のベッドの脇に座って、財布からお札を一枚取り出すと、


「これ、使わへんかったから返すわ」と云う。


 寝ている自分の目の前で樋口一葉をヒラヒラさせた。どうやら、デートはお流れになったようで……フフン、ざまぁみろ!

 なぜか男は横を向いたまま、右の顔しかこちらに見せない。

 なんだか不自然だ! 

 自分は起き上がり男の顔をグイッと両手でこっちに回したら……なんとっ! 男の左の頬には爪で引っ掻かれた傷がきっちり三本(人差し指・中指・薬指の爪跡)ついていた。

 ブッと噴きだした。

 あっはっはっはっ……自分はお腹を抱えて大笑いをした。


「薄情なやっちゃ……」


 溜息交じりの男の情けない声が聴こえた。

 まあ自業自得だが、ちょっぴり気の毒にも思えてきた。


 ――枕もとに置かれた、樋口一葉も笑っていた。

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