Bonus Track
文學少女
こんにちは。三原夏菜子です。今日は、自殺部のみんなと一緒に、隣街のショッピングモールに来ています。来ています、だなんて、正確には今電車を降りたばかりなのですが……。こういうところにお母さん以外の人と来ることなんて初めてなので、なんだかどきどきです。
お母さん以外の人。お父さん以外の人。――友達。
そうです、私には初めて、友達と呼べる人ができたみたいです。十五歳にして友達なんて、変かな。遅すぎるかな。これまで私は、自分から友達だと思える人なんて、一人もいませんでした。でも、そんな私が、今こうして、誰かと隣り合って歩いています。――笑いながら。
友達。本当にそう思っていいのかな、思い違いじゃないかな。
多分、いいんだよね。だって、あの日、少なくとも、この小さな集団の先頭を歩く、あの先輩に、間違いなく言ってもらえたのだから。
「いい空ね」
駅前の広場を大型ショッピングモールへ向かう道程。唯さんが空を見上げて言いました。
私もおんなじように、そんな空を仰ぎます。
空は青く、どこまでも青く、風は涼しく、悩みなんてないみたいに、雲は穏やかに流れていきます。
今日はなんでも……、その……、私の「イメチェン大作戦」……の日らしいのです。
事の起こりは私が入部してしばらく経ったある日の放課後です。
「夏菜子ちゃん、あなたもうちょっと自分を主張できるようになるといいと思うのだけれど」
「……ええっ?」
全員が揃った部室で、唯さんが唐突に言いました。
「まずは如何にもなその雰囲気を変えていくことが大切だと思うの」
唯さんはずばり言いました。彼女の言葉は嫌味なところがあまり感じられません。相手のことを想って言ってくれていることがちゃんと伝わってくるのです。それは多分唯さんの魅力にも繋がっているのだと思います。
「これまでの自分とは違うのだと言葉にせずとも周囲に気づかせるような振る舞いを取る、身も蓋もない言い方をすれば、端的に社交的になること、それだけで多分、あなたの人生は変わっていくと思うの」
「か、簡単に言いますねぇ……」
私の正面に座る青木くんが、彼の右手側にいる唯さんに言います。
「世界を拓くこと、それこそが、現状打破に繋がるのよ。というわけで、そうね……」
「この色なんてどう?」
「う~ん、私は暖色系が似合うと思うけどな」
……眼鏡。
今使っている味気のない、野暮ったい銀フレームの眼鏡を買い替えよう、と唯さんは言いました。
「お金足りないようなら和海くんが出してくれるから、好きなの選んでいいからね」
「えっ、ハァ⁉ ……足りるかな」
「いや……そんな、お金は、ほんと、大丈夫ですから……」
中学の時から使い続けてきた眼鏡。これを機会に買い替えるのも、悪くないのかもしれません。もしもその些細な変化が、自分を変えていくきっかけになるのなら。
「…………」
赤色で、控えめにチェック柄が入っている眼鏡を手に取ります。
「お、それいいんじゃないか?」
かけてみて、目の前の鏡を覗き込みます。鏡に映り込んだ隣の青木くんが言います。
「いいじゃないいいじゃない! 値段は大丈夫?」
「はい、充分足ります」
「よしよし、せっかくだから洋服も見に行こうじゃないか!」
紗代ちゃんが言います。唯さんも、紗代ちゃんも、二人ともお洒落です。
「案外、見た目から変えていくっていうのも、悪くない一歩なのよ」
唯さんはそう言って、笑いました。
謹慎中の土曜日、唯さんから「明日は暇か」とメールが来ました。あの日の屋上で頂いた連絡先に当日中にお礼のメールをして、それっきりだったのですが、唐突に受信した簡素なメッセージに初めは戸惑いました。謹慎中なので暇も何もないのですが、唯さんは出かけようと言うのです。当然のことですが両親にきっと止められるからと返事をすると、私がどうにかするから住所を教えなさいと言われました。
次の日、唯さんは私の友人として私を迎えに、いえ、まさに連れ去りに、やってきました。なんと両親を言いくるめてしまい、私は見事に連れ出されました。「友達が困っている時には傍にいてあげたいんです」だなんて、演技でも言われたのは初めてで、思わず泣きそうになってしまいました。
唯さんと電車に乗って、横浜に行きました。なんとなく駅前の海浜公園をふらついて、そうして向かったのは、展望台です。展望台。世界を見渡せる、高い場所。
地上から二百五十メートルを越える高さから見下ろす世界。何もかもがちっぽけに見えて、いろんなことに、些細なことに悩んでいる自分が馬鹿らしくなって、そんな自分自身すらも、ちっぽけに思えて。
「三原さん」と、しばらく互いに無言で景色を見つめていた沈黙が、唯さんによってほどかれます。私は「はい」と、そう答えて、続く言葉を待ちます。
「改めて。手荒な方法をとってしまって本当に悪かったわ、ごめんなさい」
「……いえ、最初から、その……助けてくださるおつもりだったと、聞いていますし……」
あの日。私は死ぬのだと思っていました。短いようで長かった十五年間に、別れを告げるつもりでした。でもそれは、幸いなことに、叶いませんでした。
思い返しても、なんだか夢のようで、妙に現実味に欠けています。まるで、あの屋上の、フェンスの内側から、私や唯さんたちを俯瞰していたかのような、そんな有り得ない情景が、確かに脳裡に広がっているのです。
「ただ――」
唯さんはぽつりと言います。その横顔には、次に出す言葉は果たして正しいものなのか、どこかそんな逡巡が含まれているように見えました。
「私には失敗しない自信があった」
唯さんはこちらを向きました。
向かい合って、見つめ合うかたちになったその瞳は、どこまでも真っ直ぐでした。力強く、偽りなく、この人は本気で言っているのだと、そう感じました。
「だって私は、あの二人を信じていたから」
信じる。信じるという言葉は、私にとっては、どこか遠いもので、それは小説の中にしか、ないものだったのかもしれません。――その時までは。
誰かを信じるということ。私には今までそんな経験はありませんでした。いつも一人ぼっちで、上手く自分の気持ちを伝えることは出来なくて、人の輪の中に入っていくことができなくて、誤解されて、傷ついて…………。
「……私はあまり偉そうなことを言える立場ではないのかもしれないけれど」
その言葉に、意識は目の前に引き戻されます。眼下には小さくなった海沿いの風景。観覧車が回っています。遊園地。例えばああいうところに、友達同士で行ったりするんですよね。
「世界を拓くのは、他の誰でもないあなた自身なの」
唯さんは言いました。
「難しいと思うかもしれない。簡単に言わないでと思うかもしれない。でも、あなたには、文学があるでしょう」
「……え?」
文学。確かに私は小説が好きでした。大好きでした。それだけが友達で、それだけが支えで、それだけが世界ですら、あったのかもしれません。でも、どうして唯さんがそのことを? その疑問は、続く言葉で解決します。
「夏休み前に発行された文芸部の季刊誌。そこに寄稿されていたあなたの文章を読ませてもらったわ。二篇。どちらも美しかった。瑞々しかった。どこか漂う死の薫りと、その奥でわずかに、でも確かに光る生。こんなに素晴らしいものを、死を以て放棄してしまうなんて、あまりにも勿体無い」
恥ずかしさと、嬉しさが、同時に込み上げました。頬が紅潮するのを感じます。
「それはきっと、あなたを支える大切なものなんでしょう。あなたをかたち作っている大切なものなんでしょう。違う? 文学が見せてくれる世界、その心の中に広がっている世界。それは無限大で、さあそうしたら次は、その足を使って、その目を以て、未だ見ぬ世界をその目に焼きつけたらいい。
書を抱いて町に出よう――そうしてあなたはいつかきっと思うはずだわ。この世界は死んでしまうにはあまりに惜しいほど、美しくて素晴らしい場所なのだ、って」
「あ……えっと……」
言葉に詰まりました。そんなのは過大評価だと、言いたくなりました。
でもそれは――誰かに言ってほしかった言葉だったのかもしれません。信じていたかったものだったのかもしれません。思わず、目頭が熱くなりました。何もかもを見透かしているかのような、唯さんのその瞳は、言葉にするならば――慈愛に満ちていました。
「そう思わせてほしい。そう信じさせてほしい。重荷……かしら。身勝手だということは、承知しているの。でも、ただ――私はあなたの言葉に、確かにエネルギーを感じたから、生の力を、感じたから、だから、信じさせてほしい」
そこでしばらく、ふたりの間には沈黙が訪れました。
そして再び開かれた唯さんの口から聞かされたのは、
「思い出話」
「……え?」
「思い出話を、してもいい?」
「……はい」
唯さんは語り出しました。ぽつり、ぽつり、静かに、確かに、噛みしめるように。
中学三年生、夏、色褪せた日々、クラスメイト、退屈、飛び降り自殺、学生服、少年、いじめ、葬式、死、生、
革命。
自殺部。
「…………」
「と、いうわけ。ざっくりとだけど、これでいくらかは私のこと、分かってもらえた?」
言葉も出せず、私は頷きます。その思い出は、これまでくれた言葉の重みを支えるには充分なものでした。
真摯――例えばそんな言葉が、この人には相応しい。そんな風に思いました。
「三原さん」
ややあって、唯さんはこちらに向き直ります。そして、
「お友達に、なりましょう」
「……え?」
世界の全てが、止まったみたいでした。
友達。
「それが結局、何の下心も裏もなく、誠実に対等に、あなたを必要と出来るかたちだと思うから」
「あ……えっと……」
突然のことに、返事をしあぐねていると、唯さんは続けます。
「……私だって、全ての『死にたい』を受け入れられるわけじゃない。私は釈迦でもキリストでもなく、無責任で身勝手なただの高校生に過ぎない。でも、それでも、少なくとも、私が惹かれた相手くらいには、傍にいてあげたいと思う。いさせてほしいと思うから――」
……惹かれた? 私に? でも唯さんの目は、嘘をつきません。その言葉に、偽善や陶酔はありません。そう思える、ならば、ならば私は――
「……こんな、私なんかで……よければ」
「こんな私? ――ふふ、それは、私の台詞かもしれないわね」
よろしくね、と、唯さんは柔らかく微笑みました。とても素敵な人だなと、思いました。
「世界は醜くて、世界は美しい。そのどちらも正しくて、だからこそ、それならば、そのどちらとも生きたらいい。生きるしかない。そしてあなたは、それを描けばいい。ありのまま、あなたが感じたまま、あなただけの表現で、あなただけの言葉で、書き記せばいい」
「唯……さん」
「平坦な戦場を、私たちは生きていく。でもたまに、こんな風に高い場所から、自分の生きている滑稽な平坦さを見下ろして、『こんなもんか』って、笑ってしまえば、案外どうにかなる気がしない?」
唯さんは、笑いました。
「いやあ、いい買い物した~」
「お前……今日は三原が主役だろうが」
フードコート。頬を綻ばせながら、アイスクリームを頬張る紗代ちゃんに、青木くんが言います。
「青木も本ばっか買ってないで、少しは服に金かけたらどうなんだ?」
「うるせーよ、優先順位が違うんだよ優先順位が」
私は、手元にある洋服屋の袋に視線を落とします。なんと一着、三人がお金を割って私にプレゼントしてくれました。「今日はあなたの日だから」って、私、誰かから貰い物するような人間じゃ……「いいんだよ、貰っておけって」唯先輩なりに反省してるんだよ、ああいう方法を取ったことをさ――小さな声で青木くんが言いました。
視線を青木くんに向けます。青木くんはキャラメルフラペチーノを飲んでいます。私も同じものを注文しました。初めて飲みました。美味しいと、思いました。
青木くん。屋上であの日、彼が声をかけていてくれていなかったら。きっと私は――そんなことを、今でも時折考えます。
青木くんは、私のことを想ってくれていました。謹慎中、唯さんから詳しい話を聞きました。私のために、動いてくれていたこと、助けようと、してくれていたこと。
それは私が思っていた以上に真剣なものだったらしく、それを拒絶した自分自身のことを、情けなく、恥ずかしく、申し訳なく思います。
私は青木くんのことを、面と向かって話す前から知っていました。文芸部の集まりの時、「この人はここにいる他の部員たちとは違う」と直感で思いました。本当に文学が好きそうな、そんな雰囲気をしていたのです。部会中に読んでいたのは坂口安吾でした。安吾。私は『桜の森の満開の下』しか読んだことがなかったけれど、青木くんが読んでいるのを見て、全集を手に取ったりしてみました。安吾の文章は、どこか気の抜けた柔らかい文章で、けれど鋭く心に刺さってくるもので、とても気に入りました。
そして夏休み明け。なんと青木くんは私の思った通りに、文学が好きな人だったのです。太宰治の読書感想文。校内賞受賞。まずそもそも、高校生は読書感想文を書きません。夏休みの必修課題になることはほとんどないからです。そんな中で、自発的に読書感想文を書き、そしてそれがなんと校内で最も優れているのだと賞に選ばれました。校内での応募総数はそんなにないのかもしれませんが、大学受験の内申のために、高校二年生からはそこそこ応募がなされるようなのです。そんな中で、先輩方を押しのけて、べた褒めの書評と共に、全校生徒に知られることになりました。
すごい、と、純粋に思いました。彼はきっと私とは違う、本物だって、思いました。
しばらくして、図書室が定期発行している紙面に、青木くんのその感想文が掲載されました。
圧倒的でした。感動すら、覚えました。
どこまでも素朴に、書き綴られるのは生と死についての実感。それはまさに、背伸びも衒学もない、「今此処に立っている私が想うこと」でした。
そして何より――文学に対する愛情です。
太宰と安吾。『人間失格』へのアンサーとも言える『不良少年とキリスト』。
彼のようになれたら。私あの時確かに、青木くんに対して憧れを抱いたのでした。
――大丈夫。また何かあったら、俺や先輩や高島が、絶対三原の力になるからさ。
青木くんが私に気づいてくれなかったら。あの日屋上で出会わなかったら。
感謝してもしきれません。だって私は、彼のおかげで今、こうして今まで出来なかったような経験を、することができたのですから。
「そろそろ時間ですね。先輩、映画館向かいましょう」
のんびり、気の抜けたように見える彼は実は、まるで対極そうな唯さんに、すごく近い人なのだと思います。
「ほら、三原、行くぞ」
「あ、うん……!」
三人が、こちらを向いて待っています。これから四人で、映画を観に行くのです。
みんなが私に向けるその表情は、どこまでも優しくて、暖かくて――。私は胸がいっぱいになります。
こんなに幸せで、私はいいのでしょうか。
唯さん、紗代ちゃん、青木くん。
私は自殺部が大好きです。自殺部のみんなのことが大好きです。私の、大切な居場所です。
ありがとう。ありがとう。こんな私を、その輪の中に入れてくれて。
お父さん、お母さん、私、生きているよ。私、此処にいるよ。
……あ、〝文学少女〟的にはもしかしたら、こう締めるのが、いいのかなぁ。
「みんなを愛したい」と、涙が出そうなくらい思いました。
美しく生きたいと思います。
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