終章 天ヶ瀬唯は今日も、死を想う。

Amagase Suicide Club(終)

 十一月も半ばにさしかかろうとしていた。あっという間だった一ヶ月半。普通に生活していたらまず遭遇しないような、有り得ない出来事が次々と起きた。それらの出来事――いや、あれらは紛れもなく「事件」だったと言っていい。それら事件は全て、あの奇想天外・規格外な先輩によってひとつの方向へと集束していった。

 自殺部。部長天ヶ瀬唯率いる、死を想う部活。その他部員は入部順に青木和海、高島紗代、三原夏菜子。あと一人集まれば、学校に対し正式に部活動申請を行うことができる。……しかしそれを待たず、唯先輩はなんともアウトローな方法で同好会を立ち上げ、この部室までを正式に手に入れてしまった。

 自律支援考察同好会。何だそのネーミングはと思わず口にしてしまいたくなる組織名は、『じさつ部』という略称から唯先輩が適当にそれらしくつけた名前。その『自察部』は『自殺部』の表向きの名称、謂わばダミー組織であり、組織の活動も自殺部とはまるで関係ない。名目上は「生徒の自律を支援し、誰もが過ごしやすい学園生活を考える」集団であるらしいけれど、もちろんそんな考察なんて行いはしない。考えるのは、もっともっと難しくて、答えなんか出せない、哲学的で、本質的で、根源的な『死』についてだ。

 このエキセントリックな集団(俺自身はエキセントリックじゃないぞ)は、もちろん多くの生徒に認知されている。当たり前だ。イロモノにも程がある。天ヶ瀬唯、高島紗代、三原夏菜子、今やこの学校中でその名を知らない者はいないだろう。

 ……ところで先日、クラスメイトがこの部活について話してるの聞いちゃったんですけど、なんて言ってたと思います?

『ヤバイ奴らの部活』

 ヤバイ奴らの部活って。その通りだよ! 反論の余地もないよ! その『ヤバイ奴ら』に俺が含まれていないことを願うばかりだよ!

 自殺部部室では今日も賑やかに、(主にいつものふたりによって)傍から聞いたら疑問符必至のやり取りが飛び交う。時に楽しく、時に真摯に、『自殺』に対する想いは、言葉になっていく。


「はぁ、やっぱり駄目。自殺を物語の仕掛けとでしか扱ってないような作品は読んでいてイライラしちゃう。こんな作品が持て囃されるこの世界に喧嘩売りたいわ」

「世界に⁉」

「表現することに対する覚悟ってのは、必要だよなぁ」

「そうそう。ね、同じように物語を書く者として、夏菜子ちゃんもそう思うでしょう?

 文化祭の文芸誌の短編、この前改めて読んだけれど相変わらず惚れ惚れするわ」

「えっ、あ、いや、唐突に⁉ そんな……恥ずかしい、です」

「あれ、良いですよねぇ」

「純文学、って感じよね。レトリックも凝っていて秀逸だったわ。あの中じゃ頭ひとつ抜けていたわよ」

「いや……そん、な……」

「今年の一年は本当に、才能だらけね。嫉妬しちゃうわ」

 悔しげにそう漏らす唯先輩は、どこか嬉しそうで。


 元々の波長が合っていたのか、すっかり親友のように打ち解けた唯先輩と高島は、この部活を動かしていく主要メンバーとなっている。この二人が集まると非常に喧しい。……おまけに何をしでかすか分からないので冷や汗ものだ。混ぜるな危険とは正にこの事。

 遅れて入部してきた三原も、その性格や立ち振る舞いから時折唯先輩にイジられたりすることもあるが、それも愛故、といった感じで可愛がられている。高島とも同学年の同姓部員として仲良く、彼女が消極的で引っ込み思案な三原を部の輪に上手く溶け込ませてくれている。俺も好きな文学作品の話ができて喜ばしい事この上ない。本当に文芸部より文芸部しているからオドロキだ。もういっそ文芸部、なんなら文芸部と自殺部を合体して文芸自殺部でいいんじゃないかと思えるくらい。なんてくだらない脱線はいいとして、すっかり馴染んでいるようで何よりだ。……きっとこの人たちといたら、この部活にいたら、もうあまり思い悩むこともなくなるだろう。それはまぁ、ここにいる二人がある種強力な後ろ盾になってあげることができるから……なんていうのはぶっちゃけた話だけど。今はまだ癒え切らない傷も、きっと時間が治してくれる。――のだと、思っていたい。その苦悩は結局、俺には測りかねるものであって、悲しいことだけれど、どこまでも外側から見ていることしかできない。見守っていくことが、今は最善だろう。心を開いてくれた今ならば、苦しい時にはきっとこの部活を頼ってくれるはずだ。

「おわ、しまった、新聞部の集まりあるの忘れてた!」

 スマートフォンの着信を確認し、大慌てで荷物をまとめ出す高島。部員総出で片付けをし、以前よりも心なしか広くなった部室。そのおかげか四人居座っても十分身動きの取れるくらいの空間は確保できるようになっていた。

「いやあしかし、この部活は本当に居心地が良いな」

 鞄を背負い、立ち上がる高島は如何にも部室から出たくないという素振りをする。

「居心地良いかぁ?」

「あら、あなたからその言葉が出るとは心外だわ。いつもこの部室に一番乗りで到着しているのはどこのドナタなんでしょうね」

「う、うぐ……」

 はい。そうです。帰属する場所があるって、いいよね……。

「居心地、良いと、思います……」

 三原が小さい声で、でもしっかりと、言う。その言葉に、唯先輩も高島も、俺だって、微笑む。

「じゃ、名残惜しいが今日はお先に。また明日!」

 高島が部室を出ようとすると、三原も静かに立ち上がる。

「私も今日は……寄りたいところがある、ので、帰ります」

「おう、気ぃつけてなー」

「また明日ね、夏菜子ちゃん」

「はい、では、また」

 三原はささやかに、でも確かににっこりと笑って、二人連れ立って部室を出た。最近、よく笑うようになった三原。彼女の笑顔はとても可愛いらしいのだと、ボクは思います。

「一緒に帰ってあげたらいいのに」

 三原が出ていって静かになった部室に、唯先輩はイタズラっぽい声を投げる。

「何言ってるんですか。……俺には、まだ、そういうのは……」

「和海くんはあーいうコが好きなのねぇ。さすが根暗文学少年」

「……ほんとに皮肉屋ですねぇ。慣れましたけど」

「あら、これでも私なりに愛を込めているつもりよ」

「……伝わってますよ」

 この先輩、時に口は悪いけれど、特定の誰かを感情的な好き嫌いで推し量るようなことはしない。それは態度や行動によく表れているし、世界の善性のようなものを信じているその価値観が、真摯さの裏付けにもなっている。敵意を向けるのは常に世間、その総意、常識や規則、そういったものなのだろう。


「にしても」

 四人の賑やかさが消え、入部当初の光景がふとやってくる。たった一ヶ月とちょっと前のことなのに、随分と昔のことのような気がする。季節はもうきっとすぐに冬。日が沈むのも早くなって、夕陽だってあっという間に宵に呑まれる。

「まさか本当に部活らしくなっていくとは思ってませんでしたよ。唯先輩と俺だけの活動がずっと続くのかなぁなんて」

「同じ波長を持つ者は、必ず惹かれ合うのよ」

「……なんですかその台詞、かっこいいのか電波なのか」

 和やかな空気。このひと月で、すっかり唯先輩と打ち解けた自分がいる。

「あとあなた、自分だけは普通の人間だとか思ってるかもしれないけど、あなたも大概変な人間だからね」

「……えっ⁉ 嘘だぁ! 待ってくださいよどこがですか!」

「ふっ、それは言わないわ。クラスメイトにでも訊いてみたら?」

 うぐぁー! 気になる! 唯先輩に言われるとは思ってもいなかった。冗談だろ、この俺が?

「ヒント! ヒントくださいよ!」

「そうね……モノローグ高校生、とかかしら」

「も、モノローグ高校生……」

「ええ」

 含みを持った言い方で、唯先輩はにやりと笑う。


「あ――、そういえば先輩、屋上に向かう時、言いかけて止めたことありますよね」

「いつのこと?」

「っと……、三原の飛び降りを、止めに行く時です」

「あら、そうだったかしら」

「はい。屋上の扉の前で、なんでそんな方法で三原を止めるのか、って訊いた時に」

「……ああ、それね」

 そういえばずっと気になっていたんだったと、ふと思い出した疑問。今の今まで忘れていたのはきっと、あの日から随分と慌ただしく――楽しい毎日だったからだろう。

 唯先輩は部室の窓から、濃い紅に染まった千切れ雲を見上げ、ぽつりと呟く。

「私も、死を目の前に感じてみたかったから」

 ……やっぱり、この人オカシイ。

「いくら外側からいろんなことを論じたって、結局第三者でしかないわけじゃない。自殺を語るには、やっぱり自殺してみるのがいいと思うのだけれど、でも死んでしまったら思考はもうできないわけだからね」

「だからって……あの方法、本当に危険だったと思いますよ……」

「ええ、それは……私も少し衝動的すぎたかもと反省しているわ」

 少しどころじゃないけどね……なんて、この先輩が衝動的なのはいつものことか。

「――でも、私には失敗しない自信があった」

「えっ」

「だって、私はあなたたちを信じていたから」

 ……何だそれ、なんて言葉は、この人には似合わない。不思議な説得力になんだか少し、感動してしまった。

「……まぁ、結果として三原は元気に過ごしてくれているみたいだし、良かった……のかな?」

「私にはそれを言葉にする権利はないわ」

 ――ぶっ飛んでいるようで、ちゃんと理性的でもある。本当に不思議な人だと思う。

「三原、もういじめられたりしないかなぁ。心配だなぁ」

「多分大丈夫だと思うわよ。紗代と協力していじめの直接の加害者と、その家族全員の個人情報を手に入れて、然るべき機関の名を挙げつつ、『あなたがいじめを行い被害者を自殺未遂に追い込んだ、ということを両親と、それぞれの職場に報告させてもらう、同時にネットにそれら全ての情報をリークする』って釘を刺しておいたから」


 ……………………。

 ………………。

 …………こ、


 こっ、怖えええええええええ! 何なのこの人! やっぱ頭おかしい! なんでそんな事も無げに言ってのけるの! あと脅しの方法が絶妙に現代的!

「先輩って……ほんと敵に回したら恐ろしいですよね」

「紗代のアイデアよ。実際にそうやって〝炎上〟したいくつかの案件の詳細を教えてもらったけれど、なかなか生々しいものがあったわね」

「社会的制裁、ってやつですか……。今の世の中個人特定とネットでの炎上ほど恐ろしいものはないですからね……」

「もちろん、本当にその手を行使した挙句、加害者が被害者になってしまうようでは本末転倒だから、実行には移さないけどね。牽制を効かせられるくらいには頭の回る相手でよかったわ。皮肉なものよ」

「実際その手の過剰な炎上で自殺者も出たりしてますしね……」

「彼女をああやって助けた以上、責任を持ってその自殺願望を抱くに至った要因のひとつくらい減らしてあげたいと思ったの。余計なお節介かもしれないけれど、でも私には止める以外の考えはなかったから」

「……でもやっぱり、目の前に死のうとしてる人がいたら誰だって止めますよ」

「確かにそうね。けれど、ただそれを止めて、『与えられた命だから大切にしなさい』と言うだけでは根本的な解決にはならないじゃない。いじめという他者が介在する問題が付随していた以上、個人のカウンセリングだけでどうこうできる問題ではないし、少なくとも彼女が自分自身を変えていくまでの間、それからまた生きることになる環境を改善しなければ、結局同じ苦痛を受け続けてしまうわけだから」

「そうですね……」

「まぁそれでも、私も随分身勝手なものだとは思うわ。常に客観視はしているつもりなのだけれど、どうにもこの手でどうにかしたいという偏った正義感で動いてしまうことがあるの。

 ――だからこそ、あなたたちの存在が必要だったわけだし」

「……」

 ここ一ヶ月、唯先輩の行動や思想を肌で感じてみて、感化されたり、いろいろ思ったりすることがあったけれど、それでもやっぱり、どうして自殺部を立ち上げたのか、俺や高島、三原を勧誘したのか、その答えには辿り着けなかった。

 今なら、話してくれるだろうか。何度も繰り返す「味方が必要だ」というその真意を、教えてくれるだろうか。

「先輩……もしよかったら、話してくれませんか。どうして、この部活を立ち上げようと思ったのか、俺や、高島たちを入部させようと思ったのか、その理由を」

 唯先輩はじっと、俺の目を見た。しばし互いに黙り込んだ。

 吸い込まれそうになるその力強い瞳の先には、揺らがない意志が確かに伺える。

 ややあって、目線を外した先輩は、その口を開いた。


「思い出話」

「え?」

「今から話すのは、思い出」


 ――唯先輩は語り出す。静かに、ゆっくりと、いつものように、饒舌な、雄弁な、語り口で。


「一四歳、中学生最後の夏休みが始まる少し前。季節はもうすっかり夏。毎日のように続く炎天下。蝉はぎゃあぎゃあ鳴いていて、相変わらず鬱陶しい日だった。窓際の席で蒸し暑さにうんざりしていた私は、退屈な授業にも飽きて、何気なく窓の外に目をやった。視界に飛び込む風景もなんだかギラギラしていて、視覚も聴覚も皮膚感覚も、全部全部煩いなぁなんて思ったことを覚えている。

 ――そうしたら突然、視界を影が覆った。

 人が、降ってきた。学生服の少年。ちょうど私のクラスの真上から飛び降りたみたいで、地面に辿り着く少し前の彼と、私は眼が合った。

 あれだけ煩かった世界から一瞬で音が消えて、理解の追い付かないうちに鈍い音、連鎖するように上がるクラスメイトの悲鳴、足音、机や椅子が倒れる音。

 私は、しばらく動けなかった。彼と眼が合った、今はもう一面青空になった虚空を見つめたまま、私は放心状態だった。先生に無理矢理引っ張られて、保健室に連れられて……その後のことはよく覚えていないけれど、しばらくはその眼にずっと見られている気がして、夜も満足に眠れなかった。

 でも、いつしか、少しずつ記憶になって、薄れて、ぼやけて、曖昧になって、どこか物語のようになっていくのに併せて、その映像が、あの瞬間が、不思議と、大切なものになっていった。その過程は、今でも上手く説明できないのだけれど、何故だか、暖かいと感じるようになった。愛しさすら、懐くようになった。あの眼は、実はとても優しいものだったのだと、気づいた。優しくて、儚くて、諦めに満ちていて、暖かい。言葉にし切れないけれど、とにかく、そういう感情を抱くようなものだった。

 彼は、同じ学年だった。いじめられっ子だった。らしい。私は全然知らなかった。喋ったこともなかった。名前さえ知らないその彼の、遺影で見た無垢な笑顔はどこまでも優しいものだった。お葬式で、彼のお母さんは、『どこまでも優しい子だった』と、言っていた。私はただ同じ学校の、同じ学年の生徒だからというだけで参列した、その程度の関係性だったけれど、なんだか、まるで、昔馴染みだったかのように、深く、深く、哀悼を捧げた。涙は、出なかった。隣で大泣きしている、これっぽっちも接点がなかったような女の子たちに興醒めしてしまったからかも知れない。いじめていたらしい男子たちも何食わぬ顔でご冥福を祈っていた。世の中の不条理を、呪った。

 学校はいじめを、その死を隠した。そこから取り立てて大きな展開があったわけじゃない。私の知らないところで遺族は戦ったりしていたのかもしれないけれど、私たち生徒には何の情報も入ってこなかった。遺書も何も、残されてはいなかったらしいわ。現実って、多分そんなものなんでしょうね。

 彼は、どうしようもなくお人好しだったという。それは、多分、いい意味合いも悪い意味合いも併せて、でしょう。あと少しだけ、ほんの少しだけ、逃げるでも耐えるでもしていれば、それまでと違った世界で、苦痛なく生きることができたかもしれないのに……なんて、そんなことを私が言うのは、勝手が過ぎるかしら。

 その若すぎる死は、少なからず私たちに衝撃をもたらした。陰鬱でじめっとした学校の空気は少しだけ変わって、なんだか風が吹いたみたいに、静かになった。或いはそれは、束の間の非日常だったのかもしれない。地震が起きて少しだけわくわくしてしまうような、世間様の言葉を借りるなら不謹慎な、そんな緊張感に、憑りつかれていただけなのかもしれない。

 夏休みを挟んで本格的な受験期間に入っていった私たちの学年は、意識的にも無意識的にも、それを忘れていった。忘れていく、なんて、淡々と言うようだけれど、でも実際、そうだった。生徒から、教師から、人々から、その死は薄れていった。それでも私は、その死を想い続けた。そして、実は何よりも近くにあるのだと思い知らされたそんな『死』の事を、日々考えるようになった。中学ではもう、死そのものについて触れることは半ばタブーのようになっていたから、ひとり孤独に勉強をして、いろんな知識や考え方を吸収した。理解できないことも多かったけれど、そうしていくうちに、死を見つめていくうちに、今生きていることが、なんだかとても尊くて、美しくて、素晴らしいことだと思うようになって――世界は輝き始めたの。力強い生への意志が満ちて、私はなんだってできる気がした。何処へでも、駆けてゆける気がした。

 そうして私は高校生になった。高校生になれば、死についての有意義な議論がたくさんできると思っていた。私はもっと成長できるのだと思っていた。でも――、やっぱり誰も、そんなことは、考えないのよね。自分が死の近くに在るだなんてこと、思いもしない。考えもしない。青春などという、それは確かに美しい『生』に全てを捧げ、その裏側に、或いはもうすぐ隣にある、『死』のことを想わない。……もちろんそれだって、残念だけど当然のことなのだと思う。そんなことは解ってる。

 でも、それでも、やっぱり、寂しかった。私は間違っているのかって、世界は死に触れちゃいけないのかって、思った。悔しかった。惨めですらあった。でもね――――」

 唯先輩はそう区切って、少し微笑んで、もう一度俺の目をしっかりと見て、続けた。

「あなたがいた。死について想う、仲間がいた。ずっと止まっていた日々が、動き出した。いつかのように色褪せ始めていた世界が、また眩しく輝き出した。

 あなたの読書感想文を知った時の私の気持ち、分かる? あなたの文章ことばを目にした時の私の高揚が、分かるかしら? ……ふふ、分からなくても、いいわ。

 ――だからね、私にはあなたが必要なのよ」


 私にはあなたが必要――――

 心が揺れた。仮入部の土曜日、中学校で先輩の言葉を聞いた時と、おんなじ揺らぎ方をした。深く、胸の奥に刺さるものがあった。

 唯先輩を突き動かす想いの、その芯にあるものが、こんなにも重みあるものだとは、思ってもいなかった。『思い出話』の中で出てきた少年――彼はきっと、あの土曜日、唯先輩が花を手向けたその人なのだろう。

 感動すら、覚えてしまう。一言で言い表すならばやはりそれは、真摯。

 どこまでも力強く、真っ直ぐに、死を、生を、見つめる心。不条理を、想う心。

「この部活で私は、成長していきたい。二年生の十一月だなんて、随分と時間がかかってしまったけれど、これでようやく、やっと、地道に続けてきた努力だって報われる。スタートラインに、立てた気がするの」

 窓の外で、雲がゆっくりと流れていく。壁かけ時計が、静かに、時を刻む。

「あなたがいたから、私は自殺部を作ろうと思った。素直な言葉が、正しい言葉が、きちんと認められるって、判ったから。

 私はまだまだ非力だわ、無力だわ。だから、一緒に成長していけるような、語り合ってゆけるような、そんな仲間が――味方が、ほしかった。この部活で、私はこれからも、もっともっとたくさんのことを想う、たくさんのことを学ぶ。あなたたちと一緒に、ね」

 目を瞑って、一息ついた唯先輩は、そのまままた、言葉を続ける。

「私には自殺の全てを、死というもの全てを語り切れるほどの知識も経験もない。……いや、そんな知識も経験も、或いは権利も、世界中の誰にもあるはずがないと思うけれど、それでも、私は私なりに、十七年生きたひとりの人間としての精一杯を、今想う全力を、それが例え十年後の自分からして間違った、未熟な、青臭い思想であろうとも、言葉にしたい、形にしたい、その意思表明をしたい。死を語るという無責任に対して、真摯さで以て責任を持ちたい」

 穏やかで、けれど力強い、心情の吐露。言葉に宿るのは、力。唯先輩の持つ、その想いに触れた者を感応させてしまう、紛れもない力。ここまで聞いて、それでも先輩のことをもの珍しく思うような人は、きっといないはずだ。

「時々思う。思い返す。十四で亡くなった彼は、それから経験できたであろう色々を、経験できなかった。永遠に、喪失した。でも私は、できた。この十七歳に至る今まで、短いながら、様々な経験をした、様々なことを想った。その度確かに私は成長していった。生きているということを実感してきた。でも、彼にはそれがもうできない。だから――『彼の分も生きる』なんてナルシスティックな言葉を吐くつもりはない。それでも、今此処に確かに在る生を、輝かせたいと、思う。『私は此処にいる』んだって、叫びたいと、思う。

 彼は、苛まれていた誰かの代わりに死んだのかもしれない。私だって、実はそれに救われたひとりだったのかもしれない。たまたまその過酷が、その死が、私じゃなかった。誰しもに平等に降ってくるかもしれない不幸を、不条理を、死を、たまたま避け続けてこれただけなのかもしれない。じゃあ、生き残ることのできた私に、今この瞬間も、もの想うことができる私に、何ができるのか。何を残せるのか」

 その言葉は到底自分からは出せないような、覚悟を含んだ真摯な言葉。何となく生きてきた自分のことを振り返って情けなくなるような、生きることに真摯な言葉。

「そして、飛び降りる前の彼に、私なら何て言うのかを、言えるのかを、決定的な言葉をかけることができるのかを、探したい。今此処に生きている私が、いろんなものを目にして、経験して、彼の生きることの出来なかった時間をもっともっと生きて、そうしていつか、苦しむ何処かの誰かの、その生を未来へ繋ぐ、そんな言葉を手に入れたい。……なんて、ちょっと陶酔が過ぎるかしら」

「……いえ、そんなことは、ないと思います。絶対」

 俺の言葉に唯先輩はふ、と微笑み、少しだけ髪が揺れた。

「私は結局、それまで名前さえ知らなかった彼の眼に、突き動かされているのだと思う。あの全てを見透かしたような、虚しくて儚げな眼に。彼をそこまで追いやった狭くて小さな世界を、少しでも塗り変えたい。今も死の目の前で苦悩しているかもしれない命のことを考えていたい。死を選ぼうとする者にも、その環境を作り出す全ての者にも、それを見て見ぬ振りをする者にも、言葉をぶつけてやりたい。それはとても、独善的で、身勝手で、感情的なもの。それでも、そう思う。だって――あの瞳に、戦ってくれって、言われた気がしたから」

「戦う――」

「死について考えてほしい、なんて、やっぱりエゴよ。だって、こんな時代、そんなこと考えなくったって生きることができて、わざわざ深刻に思い詰める必要なんてないのだから。でも、そのちっぽけな生の前に圧倒的な不条理が立ちはだかった時、何の反撃もできなかったら、それこそ救われないじゃない。自分にはそんな事起こりえないと盲信できる能天気さは、打ち捨てるべきだわ。

 泣きつかれてもきっと、何もできない。救える自信もないし尽くす義理もない。私はメサイア・コンプレックスなんかじゃない。自分勝手に死について喚いているだけ。夏菜子ちゃんのことだって、救っただなんて思っちゃいない。自分を救えるのは自分自身だけ。彼女が生きていこうと思ってくれたのならば、それはきっと、彼女自身の力よ。

 ただ、でも、それでも、私は死を想っていたい。誰もが何処かで一度は想う『死にたい』という感情を、郷愁で終わらせてはいけないと強く思うから。結局私はどこまでも、死を外側からしか見ることの出来ない人間だけれど、でも、だからって、死について言葉にする権利がないなんてこれっぽっちも思わない。第三者だからこそ言えることが、外側にいるからこそ出来ることが、きっとあるはずなの。

 出る杭は打たれるわ。主張の不完全さばかり揚げ足を取って、その真摯さを汲もうとはしない。逆もまた然り。真摯さのない理詰めが幅を利かせることだってある。偽善だとか綺麗事だとか、そういう言葉を無責任に吐きつけるだけの人間は世の中にいくらでもいる。そういうシニカルな自分が正しいとまで思っている人さえいる。偽善のどこがいけないのよ。全身全霊の偽善は、愛する者への何気ない優しさと同じくらい尊いものじゃない」

 世界に対する反抗――いつか唯先輩が言っていた言葉の意味が、解ったような気がした。

 それは例えば、普通に生きていたら思わず流されてしまうような、怠惰な思考への反抗。意識を持って、自分の意見を以て、世界を生く。美しく、正しい在り方。

「世の中、馬鹿でいた方が幸せなのかもしれない。何も考えず、目の前の流れに乗ってしまえば、余計な労力を使わなくていいし、精神をすり減らすこともないのかもしれない。

 でも、それは果たして『生きている』と言えるのかしら。自分の足で立っていると言えるのかしら。私は、ありきたりには、当たり前には、くだらない常識には、流されたくない。『死んだらいけない!』なんて、正論のように聞こえる言葉を押し付けるだけの思考が停止した人間にはなりたくない。そもそも、それが正論かどうかだって、私には自信がない。考え抜いて、想い抜いて、悩み抜いて、私は、ありきたりに終着することにだけは何よりも反抗したい。

 知らないということはある意味では幸福だわ。でも、それでは動物と同じなの。私たちはもの想うことが出来る。不条理に勝てずとも、決して負けない武器があるの」

「勝てずとも、負けない――」

 俺は思い出した。大好きな坂口安吾の言葉、彼が愛と皮肉を込めて太宰に送った『不良少年とキリスト』の終盤の、俺が一番大好きなその箇所の、大好きな言葉。


 是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦ふよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦ふ、といふことです。


「戦う、ということ――」

「『私は此処にいる』と叫ぶためには、まず確固たる〝私〟がなくちゃならない。それが、この世界と、この生と、不条理と不合理と理不尽と、戦っていくために何より必要なもの」

 私は此処にいる。その言葉を、この人から、何度聞いただろう。

「飛び降り自殺をしようとして、大怪我の末生還した人が、落ちていく最中、『やっぱり生きていたい』と強く想った、という話はいくつもある。私は思う――微生物に光に向かって移動する〝走性〟があるのなら、人間には『生』の方向へ向かっていく、――謂わば、生の正走性がある、って。苦悩せずいられるのなら、絶望なんてなかったら、きっと人は生き続けることができる。生物は最終的には死ぬ、そう考えれば確かに『死ぬために生きている』けれど、そんなのは言葉遊び。生きるために生まれてきた。生まれてきてしまったのだから、せっかくだから生きてやったらいいの。みんながそんな風に思える世界になったら、いいわよね。理想論だって、夢物語だって、やっぱり誰もが、幸せであってほしいと思うわ」

 ――自殺を否定しない、唯先輩はいつかそう言っていたけれど、やっぱりその奥には、『自殺してしまうなんて勿体無い』と、そういう想いがちゃんとある。それは漠然としたものでは決してなく、強い意志の上にある言葉だ。

「人は死ぬまで、不条理とも不幸とも一緒に生きていかなきゃならない。それを取り除くことなんて絶対にできない。大事なのは病から癒えることじゃなく、病みつつ生きること。悲しみも苦しみも連れて『然り!』って笑えること。聖者になんてなれなくても、生きている方がきっといいの」

「――真摯、ですね。本当に」

 唯先輩という人を一言で形容するのならばやはり、俺にはこの言葉しか思いつかない。真摯。唯先輩は微笑みながら「ありがとう」と返し、しかしすぐ真剣な表情を見せる。

「でも、真摯さだけでは、残念ながら責任の裏付けにはならないのよね。知識がなければ、経験がなければ、私の言葉は、行動は、全て子供のお遊び。だから甘んじることなく、私はあなたたちと、この部活で成長していきたいの」

「……もうちょっと早く話してくれたら、俺ももっと真面目に、先輩の為に勉強したんですけどね」

「いえ、それはきっとあなた自身の為になることよ。死を想うというのは、そういうことなの」

 唯先輩は再び、にこりと微笑む。いつも以上に、穏やかに。

「やっぱり永遠はなくて、死んだら救いなんて感じることも出来なくて、死ねば端的に何もなくて、でもふと思えば今この瞬間だって実は何にもなくて、真実の幸福に辿り着けだとか、超人になれだとか、簡単に云うけれど、此処にあるのは結局ただ、ちっぽけな命、それだけ。それだけなの。生きる意味など誰も与えてくれないし、掴み取るべき正解なんてものも勿論ない」

 誰かに語りかけるように、決意表明をするかのように、一言一言、力強く、唯先輩は続ける。

「――でも、それでも、

 花に嵐の喩えがあって、さよならだけが人生で、そうして私は今、この瞬間に、確かに此処に生きている。そう、私は生きている。だから、生きる。死を想う。私が此処にいるというその証明を、私は、生きてゆくことで、残したい。

 誰かを救えるなんて、そんな自信も驕りもなくて、ただ、死を想うことで私の生が、そして願わくば誰かの生が、より善いものになったら、って、そう思う」

 西陽が、いつものように唯先輩を黄金色に照らして、けれど今日の先輩は、いつもより輝いて見えて――。唯先輩は立ち上がる。芝居がかった口調で楽しげに、言う。

「自殺は美しくないか! 否! 儚くも散ることは美しい。でも、それでも! 儚くも生きることは、もっと美しい‼」

 栗色の髪が光に融ける。纏った黄金がその輪郭をぼやけさせて、思わず俺は、息を飲む。

「そして、死を想うことは、こんなにも、面白い! ――なんてね」

 大げさに両手を広げた唯先輩は、そのままの体勢で、おどけてみせる。

「……先輩、部員が五人集まったら、自殺部がちゃんと自殺部になったら、何を、するんですか?」

 ナンセンスな質問であることは承知している。それでも、訊かずにはいられなかった。

「ふふ。さあ、何をするんでしょうね」

 けれども唯先輩は、いつかと同じように、曖昧に笑ってはぐらかす。

 ――何となく、その答えは、想像できるような気がした。……でも、多分、唯先輩は、そんな想像すら、容易に飛び越えていくのだろう。俺の到底考えつきもしないような方法で、先輩は世界と戦うんだ。

 唯先輩は、――天ヶ瀬唯は、今日も、死を想う。

 何気ない日常の隣にある儚さを、不条理を、想う。

 微笑む唯先輩の頭上に掲げられた言葉、『死を想え』。

 ありふれた日々の中、死を想うその先の、何気なく力強い『生きる』という営みは、どこまでも輝いているんだって、きっとそう言っているんだって、そんな風に俺は思った。

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