止まった。

 斜め四十度ほど傾いたところで、ふたりの身体は何かに支えられるように静止した。

 投げ出された身体。夏菜子の目には眼下のグラウンドが広がる。しかしそこに近づいていくことはない。奇妙な浮遊感、彼女の思考は停止する。

 体感的にはまるで永遠のような一瞬。その刹那、そのままふたりは何かによって勢いよく校舎側へ引き寄せられ、夏菜子の背中はフェンスに叩きつけられる。

「ッ……⁉ ……えっ、え、えっ⁉」

 一瞬の静寂の後、夏菜子は思わず声を上げる。その声は俄かに震え、やがて泣き出す。

「唯ちゃん、後で引っ叩くよ……」

 紗代が冷や汗びっしょりでそう呟き、安堵のため息を吐き出した。


     *


「……は、何言ってんですか……」

「だから、三原夏菜子に『死』を知ってもらうのよ」

 流石にぶっ飛びすぎていた。この先輩、言っていることは心底真面目で芯があるのに、やることが毎回エキセントリックすぎる。危ない、危なすぎる。

「で、こいつを使うんですか」

 屋上へ向かって廊下を走りながら、先ほど部室で手渡されたものを指差し俺は訊く。

「あなたと紗代にかかってるわ、文字通りの命綱よ」

「いや……あの……下手したら殺人罪ですよ、俺たち」

「あなたたちが失敗しなければいいの。それに――――」

「それに?」

 屋上へ繋がる最後の階段を前にして、唯先輩は会話を中断する。

「さぁ、この階段を昇れば屋上よ。私は真っ直ぐ三原さんのところへ向かうわ。あなたは紗代にしっかり説明して、呼吸を合わせておいて」

「んな無茶な――」

 唯先輩によって、屋上へ続く扉は勢いよく開かれる。朱く染まった空が眼前に広がる。

 高島が「やっと来た」というような顔をこちらに向けている。だが唯先輩は――高島を素通りしずんずんと歩いていく、フェンスに手をかけ、よじ登る。なんともワイルドな……。

「⁉ 唯ちゃん! 何して――ッ!」

 高島は叫ぶ。そりゃあそうだ、三原を説得でもするものかと思っていたことだろう、この状況で突然フェンスを登り出す唯先輩の行動に思わず声を上げたくなるのも頷ける。

 そもそも、こういう場合ってあまり自殺志願者を刺激しない方がいいのでは? 「来ないで!」なんて叫んで勢いで飛び降りてしまったとしたら……――なんて、そんなことを思っている暇もないくらい素早く、あっという間に唯先輩は三原の左隣に立った。恐らく三原も彼女の突然の行動に脳が追い付かず、身動きを取ることすらできなかったのだろう。

 俺は高島の肩を引き、耳打ちをする。

「よく聞いてくれ、唯先輩は今から三原を抱きしめて飛び降りる」

「……は⁉」

 高島は俺の声量に合わせるように小さな声で驚嘆の声を上げる。

「で、俺たちはそれをこれで支える」

 三原の死角になるよう自分の背中に隠していたものを高島に見せる。

 縄。

 ――概要は、つまりこうだ。自殺志願者二名を心配する、あるいは説得するふりをしてフェンスに近づき、唯先輩が三原の視界を覆うように正面に立ち意識を自身に集中させている間に、こっそり俺の持つ縄をフェンスの網目から先輩に手渡す。唯先輩はその縄を三原に気づかれないよう背中に回し再びフェンスの網目から高島に手渡し、準備完了。先輩の合図と共にタイミングよく俺たちふたりで縄を引く……。

「――――正気、なのか……?」

 高島は言葉で言い表せないほどの驚愕の表情で言う。普通の人間が考えることじゃない、って、そんな顔。さすがの高島でも人の命がかかるとなるとそう思わずにはいられないだろう。

「……俺だってそう思ってるよ」

 苦笑い。……いや、多分、その表現は正しくない。きっともっと、引き攣っている。足が震えている。ものすごく恐い。でも唯先輩はもう動いてしまった。先輩のこと、さっきなら止められただろうか。例え先輩を止めたとして、三原はどうなっていただろうか。瞬間の判断だった。俺は唯先輩を信じた。信じてしまった。そして唯先輩はきっと、本当に飛ぶだろう。先輩は俺たちを信じているはずだからだ。だから、やるしかない――――

「さすがにそれは、なんて、もう遅ぇよな……」


 唯先輩が三原の視界を覆うように移動する。三原の意識を逸らせないように、言葉を続けている。先輩の右手が縄を渡せと合図をする。ゆっくりとフェンスの傍まで近づいた俺はその縄を手渡す。唯先輩は器用にその縄を背中に回し、フェンスの網目を抜けて高島に手渡される。

 俺と高島は三原に気づかれないよう縄の長さを調整し、しっかりと腕に巻きつける。


「――さぁて、準備はいいかしらね」

 唯先輩は三原に話しかけていた声の大きさを一段階上げてそう言う。おそらく俺たちに対して言っているのだろう。俺と高島はアイコンタクトを取る。冷汗が吹き出す。俺は、俺たちは、何てことをしようとしているのだろう。

「準……備?」

 三原が震える声で訊く。

「そう、心の準備」

 そう返す唯先輩の声も、緊張が混じっているように感じられる。

「さぁ、それじゃあ、いきましょう、さん、にい、いち……」


 ――――――――引け!


 有らん限りの力を込め、俺と高島は縄を引く。一度地面方向に身体を傾けた目の前のふたりは勢いよくフェンス側に叩き戻される。


 ――成功した。腰が抜けそうだった。

「唯ちゃん、後で引っ叩くよ……」

 隣の高島が震える声でそう漏らした。何故だか半笑いだ。と思ったら俺も自分の口角が上がっていることに気づく。人間、こういう状況に陥ったら案外笑ってしまうのだろうか。

 三原が泣き出した。ふたりの身体は縄でしっかりとフェンスに抑えつけられている。唯先輩もフェンスをしっかりと掴みながら、三原を抱きしめ、頭を撫でている。その表情は優しく、三原の悲しみに寄り添うような、深い慈しみを湛えていた。


 しばらくして、三原、唯先輩の順でフェンスを越え屋上に戻ってきた。コンクリの地面に着地した瞬間、三原は脱力しへたり込んだ。

 唯先輩はその前に立つ。そうして優しく、力強く、語りかける――


「三原さん。まずは、このような方法を取ってしまったことを謝らせてほしい。もしかしたらあなたの身体に傷を負わせてしまうかもしれなかった。最悪、その命を落とすことになってしまうかもしれなかった。本当にごめんなさい」

 唯先輩は深く頭を下げた。三原は目を丸くして、ゆっくりと顔を上げた。

 頭を上げた唯先輩は、三原としっかり目を合わせながら、続けた。

「でも、十代のうちに死のうだなんて、そんな早計な行動を、私は認めない。私の目の前で死のうだなんて、私は許さない。思い知ってほしかった。確かに命があるってことを。生きているってことを。手荒な方法しか思いつかなかったけれど、死を、生を、あなたに突きつけたかった」

 唯先輩を見上げる三原。すぅ、と息を吸い込んで、先輩は続ける。

「――けれどそれは、どこまでも私の身勝手で独り善がりな感情、行動。あなたが心の底から本当に死にたかったのであれば、私はあなたの意志を、尊厳を、踏みにじってしまったことになる。恨まれても殺されても文句は言えないわ。でも――――」

 唯先輩はしゃがみ込み、三原と目線の高さを合わせ、その眼鏡越しの瞳をしっかりと捉えた。

「向かい合って覗いたあなたの眼は、確かに言っていた。生きたいって、そう叫んでいた。ねぇ、これって、間違ってる? 私って、無責任かしら」

「あ、あっ……ああぁっ……」

 三原はその言葉を聞いて、嗚咽を漏らし、また静かに涙を流し始める。

「あのままひとり飛び降りて、怪我で済むならいいけれど、もしも重度の後遺症が残ったり、最悪死んでしまったとしたら、あなたはその人生を永遠に失ってしまうことになる。拡がってゆく世界の可能性を、殺してしまうことになる。いつか笑い話になる郷愁すら、懐けなくなる。自殺っていうのは、可能性を殺すことなの」

 夕暮れが屋上を染める。唯先輩は続ける。俺も高島も、その言葉に耳を傾ける。

「例えば、そう、今さっきまでのあなたは確かに死んだと、そう考えてみるのはどうかしら。そうして、生まれ変わった。今此処にいるあなたは、新しいあなた。新しいあなたなら、きっとこれから何だってできる。だってもうあなたは、さっきまでのあなたじゃないのだから。

 ――ねぇ、改めて訊くわ。それでもあなたは、本当に死んでしまいたい?」

 風が吹き抜ける。三原の言葉を、唯先輩は静かに待つ。

「……たくない……」

 そうして、三原は、今までで一番切実であろう想いを、有らん限りの声量で、叫んだ。

「死にたくないよ! 生きていたいよ! 苦しみたくないよ! でも、どうしたらいいのか分かんない! 私は何にも立ち向かえない! そんな強さなんてない! 誰にも助けを乞えなくて、ずっと独りぼっちで! だから、だからっ、死ぬしかなかった!」

 堰を切るように溢れ出す、言葉。嗚咽混じりに放たれた言葉は、きっと心の奥底で、ずっと抑えていたものなんだろうと思った。

「不器用で、何の、何の取り得もない、私は、普通に生きようとしても、駄目、なんだって、ずっと、ずっと、思っていて、もう、私なんて、いなくったって、変わらない、って……、

 ……高校に入ったら、変われると思ってた。でも、そんなに簡単なことじゃ、なかった。あの人たちは、同じ学校で、私は惨めなままで、でもきっと、そうなってしまうのも、私自身のせいで……、世界は全然、変わったりしなくて……」

 ――何があったのかは、知らない。どんな過去があって、どんな苦しみを抱えて、あのフェンスを越えてしまったのか。俺にも、高島にも、唯先輩にも、分からない。

 それでも、それでも唯先輩は、そんな『他人』に対して、声をかける。どこまでも、真摯に、虚飾ない想いを、伝える。

「私はあなたの苦しみを、理解できない。想像することはできても、共感することはできない。苛まれていることに対して塞ぎ込むその理由も、私には解らない。でも、あなたは、どんな境遇でも、毎日学校に登校し続けた。素直に逃げるという選択を取ってよかったと切に思うけれど、少なくともあなたは、瀬戸際で、なんとか戦おうとしていたということではないのかしら」

「…………」

「何もできなくなんか、なかったじゃない。三原さん、生きていたいと思えるのなら、恥まみれだって、誰かに縋っていい。逃げていいし、助けを求めていいの。そんな権利がないだなんて、言うものじゃないわ」

「あなたに……何が、分かるんですか」

「解らないわ。何も解らない。私はせいぜい、和海くんに相談されたことをきっかけにあなたの現状を調べてみた程度のこと。どんな生き方をしてきて、どんな家族構成で、どんな思想を持っているのか、何も知らない。かつて何があったのかも、どんな風に苦しんでいたのかも、何を思ったのかも、これッぽっちも解らない!」

 唯先輩は、堂々と言い切った。

 偽りないであろうその力強い言葉に、三原は驚いた表情を見せる。

「それでも、あなたの『生きたい』に手を差し伸べたいと思うことは、いけないことかしら」

「…………」

「あなたは、此処にいるわ。そして私は、あなたが此処で叫んだことを、あなたが此処にいることを、誰よりも受け止める。。何もない、だなんて、そんなことを言うのはやめなさい。確かに何もないわ。実は何もない。全てが空っぽよ。でも、それは誰だってそうなの。気づかないだけで、あなただけじゃなく、誰にだって何もないの。でも、生きていれば何だってある。これは矛盾じゃないわ。本当に何もなくなってしまうのは、死んでしまった時よ」

 四人だけの屋上に、風がまた、吹き抜けた。先輩の髪が、大きく靡く。

「『私は此処にいる』……苦しみやつらさを訴えることでも、承認欲求でも、自己顕示でもなんだって、現代を生きる私たちの究極はその一言だって、私は思う。そして、不器用な誰かは、その『私は此処にいる』を、死という方法で表現しようとしてしまう。そんな勿体の無いことが、あっていいかしら。やり方はきっと、他にもある。いくらでも、その生は拓けていく。ねぇ、どれだけの可能性が拓けているのか、あなたは考えたことあるかしら?」

 唯先輩は三原の手を取った。その左手を、生きたいと叫んだ左手を。

「あなただけの『私は此処にいる』を見つけましょう。私が必ず力を貸す。それでもどうしても駄目な時には、その時は私はもう何も言わない。でも、少なくとも、私が、あなたを必要とするわ」

「え……?」

「あなたは此処にいる。確かに此処に、生きているのよ」


 どこか理解し切れないかのように脱力し続ける三原。そんな彼女に、俺は、俺は――――

「――なぁ、なぁ、三原」

 こんな時に言葉をかけるのは、どこまでも無粋かもしれない。浅ましさにも似た自己嫌悪を抱く。でも、それでも、言いたいことがあった。例えそれが自己陶酔、自己満足であろうとも、ちゃんと言葉にして、伝えたいことがあった。

「人間に合格できないとかさ、そんなこと、言うなよ。生き続けている限り、失格かどうかなんて、誰にも分かんないんだからさ……」

 初めて喋った時のことを、思い返す。この場所で、俺は、同じ趣味を持つ人が見つけられて嬉しかった。三原ともっと、話がしたいと思った。

 ――――だから、生きていてほしいと思う。

「砂糖菓子、まだ読み終わってない。感想も、言い合えてない。だから……、その、俺が返すまで……、もう死のうとか思わないでくれ」

「……それって読み終わったら死んでもいいですよってこと?」

 探り探り言葉にした俺の偽りない気持ちに、なんと唯先輩は横槍を入れた。

 ……ここでそういうこと言う?

「……じゃ、じゃあ、一生返さない!」


 三原が、くすりと、笑った。笑ってくれた。


 どんな人であっても、死んでほしくなんかないなと、思う。決して唯先輩を無責任な人だなんて思わない――それは何度も垣間見える真摯さが打ち消している――けれど、もしも唯先輩が自らを無責任だと卑下するのならば、それとは対極にあるであろう『無責任さ』で、俺はやっぱりそう思う。それが身近にいる人ならば、自分の知っている人ならば尚の事、例え死んだ方がマシだなんて状況を這いつくばっていたとしても、生きていてほしいと思ってしまうはずだ。

 他人の命について、どうあってほしいかなんて想うことは、エゴだろうか。驕りだろうか。俺には分からない。そんなことを考えたこともなかった。

 今、目の前で、三原を助けた、そう、結果として助けた、この先輩は、そんなことをどこまでも純粋に想い続けて、自分なりの答えを、言葉を探していて――――

 敵わないな、なんて、馬鹿らしいほど率直な言葉が、浮かんだ。


「三原さん。もしよかったら、自殺部に入らない?」

 ふいに訪れた和やかさの中で、唯先輩は三原に提案する。

「自殺……部……?」

 その聞き慣れない単語に、有り得ない語と語の組み合わせに、三原はいつかの俺と同じように復唱した。

「死を想ったこと、死の一歩手前までその身を乗り出したこと、その経験は、私が求めても手に入れることのできない、あなただけのもの。あなたがいれば、この部はもっともっと、素晴らしい部活になる」

「私が、いれ、ば……?」

 三原が言葉の真意を掴みきるその前に、屋上の扉がけたたましく開かれる。数人の教師と生徒が大慌てで飛び込んでくる。

「詳しい話は、落ち着いてからしましょう」

 唯先輩は小さな声でそう言って、ポケットからメモ用紙とペンを取り出す。素早く連絡先を記入して、それを三原に手渡した。

 夕暮れの屋上。俺たち四人はそれぞれ教師たちに連れられて、校舎に戻った。

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