同級生が、死んだ。

 それまで一度として喋ったこともなかった同じ学校の生徒が、飛び降り自殺をした。

 そんな他人と、死の直前に、眼を合わせた。


 少女にとって、この赤の他人の死は、限りなく特別な意味を持つことになった。


 あの日からしばらく、少女は毎晩うなされた。寝ても覚めても、いつだってあの眼に視られているような気がした。何もかもを見透かされているような気がした。自分がどこまでもちっぽけな存在であるのだと思わされた。

 人間が、自ら死という選択をするそのことが、そうさせてしまう環境が、社会が、世界が、それまで何気なく過ごしていた――ただ生かされていた少女の前に唐突に立ち現れた。

 少女は、多くのものに意識を向けるようになった。息苦しい教室だけが世界の全てだと思い込んでいた、その閉塞感から、解き放たれた。

 そしていつからか、記憶が曖昧になり、その映像もぼやけて薄れ、その眼と眼を合わせたことが実は想像に過ぎなかったのではないかと、どこか物語のようになっていくにつれて、少女はその眼をどこか親しく、自分にとって大切なものであると思うようになった。その心境の変化の過程は、少女本人にも上手く説明することはできなかったが、しかし少女の眼は、だんだんと輝きを増すようになっていった。

 あの眼がいつもそばにいる。それは少女にとってどこか安心できることだった。私は生きている。私は確かに生きている! 全身に何かが漲る。地面を踏みしめる一歩一歩に心が動く。

 まるで人が変わったようだった。目に見える世界がそれまでと違って見えた。考え方も、生き方も、全部塗り替えられたかのようだった。


 革命。


 少女は死を、生を、知りたいと思った。追い求めたいと、思った。

  

     *


 唯と和海が屋上の扉を開けると、紗代がフェンス越しの夏菜子に向けて絶えず言葉を投げかけていた。遅れて到着したふたりに気づいた紗代の表情には安堵の色が広がる。普段強気でいる彼女であっても、流石にこの状況に於いては不安定な心持ちであった。

 夏菜子をその眼に捉えた唯は真っ直ぐ、迷いなくフェンスに向かって歩いていく。そして――、

「⁉ 唯ちゃん! 何して――ッ!」

 紗代は唯の迷いのない行動に思わず声を上げる。と、遮るように和海は紗代の肩を引き、何やら耳打ちをする。

「――――正気、なのか……?」

 和海からの言葉を咀嚼し切った紗代は思わずそう漏らす。

「……俺だってそう思ってるよ」

 和海は表情を引き攣らせる。


 天ヶ瀬唯は、止まらない。


 唯はフェンスを越えた。夏菜子の左隣に、器用に降り立った。

「な、なん……ですか……」

 夏菜子はその不可解な行動に混乱する。

「ねぇ、あなた、今から自殺するつもりなの?」

「……っ」

 単刀直入に突き出された言葉に夏菜子はたじろぐ。

「フェンスを越えると街並みの美しさは劇的に変わったりするのかしら。そうでもなければ、やっぱり此処に立っている理由って、ひとつよね」

「…………」

「学校の屋上から飛び降りるという行為は、一種形而上的な意味合いを持っていると私は思う。わざわざ死の確実性の低いこの場所を選び飛び降りる、というのは、それだけで特別な意味合いを付与させると思うわ。自らが最も逃げたいと思う場所から、人間に於いて最も確実な〝逃避〟を行う――。それはある意味では執着――、復讐、でもあるのかしらね」

「…………?」

 夏菜子は唐突に語り出した真隣の少女に困惑する。

「でも、私はあなたの言葉で直接、此処にいる理由を聞きたいの。ねぇ、あなたはどうして今、この場所に立っているの?」

 静寂が流れる。

 夏菜子は俯いたまま、ややあって小さな声を絞り出す。

「……飛び降りる、ため」

「――そう」

 唯は静かに返事をし、微笑んだ。

「……実はね、私も死にたいと思っていたの。そしたらフェンスを越えたあなたを偶然見つけて、あなたの行動力に、感化されちゃった。どうせだから、一緒に死にましょう?」

「え……?」

 強い風が吹く。

 今この瞬間、この学校中の誰より空に近いふたりのその髪は、互いに大きく靡く。

「世の中なんてろくでもないわよね。誰も自分のことなんて解ってくれやしない。誰も助けてくれやしない。死にたくもなるわよ。私だって気づいてほしいわ、『私はこんなに悩んでいたの、苦しんでいたの』って、『私は此処にいる』って」

「…………」

「だから」

 そう言って唯は、フェンスを握る右手を軸に夏菜子と向かい合うように移動する。密着する身体、唯はその両手をフェンスから離せばすぐにでも落ちてしまうほどギリギリの場所に立ち、夏菜子の表情を正面で捉える。

「一緒に、逝きましょう?」

 唯はそういって再び微笑む。その一連の行動は夏菜子に紛れもない恐怖心を呼び起こす。

「えっ、なに、なん……で」

「心中、ってやつね。私たちふたり、抱き合ったまま美しく死にましょう。地面にぶつかった時、私たちはきっとぐちゃぐちゃになって溶け合うわ。文字通り溶け合うの。そんな私たちを見て、この世界に残された人たちはどう思うかしら。十代の女の子同士が抱き合って死ぬなんて、美しいと思わない? そこから退廃的で耽美な物語が想像できると思わない? 私たち、死んで物語になるのよ。例えばそうね、あなたはいじめられっ子で、誰もがあなたと接することを禁忌としているの。でもあなたには、秘密の関係性がひとつだけある。それはあなたと、そして私だけしか知らない、ふたりだけの秘密。私だけはあなたを愛していて、あなたもまた、世界でたったひとり私だけを愛している。どれだけ虐げられても、あなたは私がいればそれでいい。でもある日、あなたはふいに生きることに疲れてしまう。そんな時私はあなたの髪を撫でながら、優しくこう言うの。『じゃあ、私たち、死んでしまいましょうか。私たちふたりで、永遠になっちゃいましょう』ってね。そうして私たちは抱き合って、屋上から飛ぶのよ」

「ひ、ひっ……」

 楽しそうに言い切った唯に、夏菜子は表情を引き攣らせる。

「心中とは、報われぬ恋をしてしまった男女が来世で結ばれることを願ってする自殺。じゃあ私たちは? そうね、来世ではもっと幸せで、苦悩のない、そんな人生であることを願って、飛びましょうか」

 唯は微笑み、夏菜子の顔を覗き込む。

「もう一度訊くわ。あなた、死にたいのね?」

「……そう、です」

「本当に?」

「……ほん、とうに」

 ふっ、と唯は小さく笑う。


「さぁて、準備はいいかしらね」

「準……備?」

「そう、心の準備」

 フェンス越しの和海と紗代はただ黙ってその光景を見つめている。


「さぁ、それじゃあ、いきましょう、さん、にい、いち……」

 唯はフェンスから手を離し、そのまま夏菜子の背中に手を回す。体重を後ろにかけ、屋上から、ふたりの少女は抱き合って、飛び降りた――――――

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