四
昼休み。五限の授業の教科書が手元にないことに気づいた俺が記憶を探ると、部室に置きっぱなしにしてあるという結論に至った。弁当を開く前に取りに行ってしまおうと自殺部室に向かい、教室へ戻る帰路、そういえば文芸部の部長が部会の詳細を紙面にしておくと言っていたなと思い出し、文芸部室に寄る。
三原がいた。ひとりで昼食を取っている。
「お……、よう」
「あ、こん、にちは……」
本を借りて以来、しばらく部室には立ち寄っていなかった。まさか昼休みまでここにいるとは思っていなかったから、不意の遭遇に驚く。
「えっと……部会の詳細、きてる?」
「あ……そこ、に」
部室端の机の上にコピーが数枚置かれていた。手に取って読むふりをしながら、三原にかける言葉を探す。
「……昼飯も、いつもここで?」
「……うん」
「……そっか」
俯くその小さな顔。表情は、分からない。
「――――なぁ」
最近悩んでることとか、ないか?
……なんて、そんなこと、訊ける訳なかった。勝手に相手の心理を疑って穿った質問をするなんて、失礼だと、思うから。
「……いや、なんでもない」
結局、そのまま何も言えず、言葉を濁して俺は文芸部室を後にした。
*
放課後。人のいなくなった廊下。週単位で回ってくる学内清掃の担当業務を終え、自分の学年の廊下を自殺部室に向かうため歩いていると、ある教室の中に人影を見つけた。
窓際。うずくまっている。その肩が震えている。――泣いている?
「三……原……?」
肩まで伸びるお下げの髪。少し大きな紺色のセーター。
それは、三原だった。
窓の外はどんよりとした曇り空。分厚い雲間から鈍く漏れる光が、教室を陰鬱に照らす。机の上や教室の床には、乱雑にばら撒かれた教科書やノート。彼女は俯きながらそれを鞄に入れる。
呆然と立ち尽くしたまま、その光景を見続けた。
放課後の校舎、部活や下校で生徒の出払った校内、静かな世界で、ただ、三原が小さく泣きじゃくる声と、ノートを掻き集める音と、自分が生唾を飲み込む音だけが聞こえた。
足元から、泥のように崩れ落ちてしまいそうだった。膝が震えた。鼓動が速くなった。
瞬きもできず、俺はただ、三原のことを、彼女のその挙動を――――
ぼんやりと、手を差し伸べるかどうかなんて逡巡をしている間に三原は、ばら撒かれた物を片し終えたようだった。そうして、教室から出ようとこちらに身体を向けた彼女と目が合ってしまった。
「――――!」
唇を噛み、辛辣な表情に変わる三原。俯いたまま駆け出し、開いたままだった教室の扉から逃げるように去っていく。
「あっ、おい――……」
――こういう時、何かしてあげられるのだろうか。何をしてあげたらいいのだろうか。知り合って間もない俺なんかが、彼女の力になりたいだなんてその心に踏み入ることは、身勝手で、傲慢なことなんじゃないのだろうか。図々しくて、不相応で、失礼な事なんじゃないだろうか。それで余計に彼女を不安にさせたりしてしまったらどうする? より精神的負担になってしまったらどうする?
それでも……。どうにかしてあげたいと、思う。思った。何故? それはひとつ、彼女に対する漠然とした好意がある。その好意がどういう形をしているのかは、自分でもよく判らないけれど、でも、助けてあげたいという気持ちになる。だって、それって、人間として当たり前のことなんじゃないのか? 近くにいる人が悩んでいる、苦しんでいる。どうにかしてあげたいって、思うのが普通だろ。
あれは、きっと、間違いなく、いじめだ。
彼女は、苛まれている。誰かの悪意に。――もしかしたら、彼女がずっと苦しんでいたように見えたのは、それが原因なのではないか。いや、それ以外に有り得るだろうか。
……高校生にもなって、そんなことが起きるのか。
まさか、もう、自分の周りでそんなことなんてないだろうと思っていたけれど、集団というものは、分からない。大人の社会にだっていじめは存在するという。つまりそのメカニズムというのは、個人が大人だから子供だからということではない、小さな社会そのものが生み出すものだということなんだろう。
「三原……」
暗く影の射す廊下。強く吹いた風に、窓枠が微かに震えた。
*
三原は今日も独り、文芸部室にいる。彼女の陰にあるらしきものを知ってしまった今、その佇まいが酷く悲しげで、哀しみに満ちたものだと思ってしまう。それは俺の、思い込みだろうか。
「なぁ、三原、お前、その……」
俺がどうにかしてやれる、だなんて驕るつもりはさらさらない。だけど、何故だか、放っておきたくはなかった。同じ趣味を持つ者、好きな事の話ができる相手。せっかく見つけたそんな人が、苦しんでいる。
――或いは、唯先輩と出逢ったことで、感化されたのかもしれない。唯先輩や、高島の持つその正義感みたいなものに、俺も中てられたのかもしれない。
……そんなことはどうだっていい。今は、ただ、目の前の彼女に何か力添えをしてあげられたら。ただその一心だ。
「……誰かに」
言葉に詰まる。なんて声をかけるのが一番いいのかが、俺には判らない。
「誰かに、傷つけられてはいない、か」
必死で選んで、絞り出した言葉に、三原の返事はない。
「……もし、俺が勝手に思い込んでいるだけなら、何もないのなら、それが一番いいんだけど……、でも、この前のあれは、どう考えたって――――」
「違うの」
「え――」
三原は一言、消え入りそうな弱い声を懸命に張り上げて言った。
「違う、の。全部私が悪いの。私が、不器用、だから、引っ込み思案だから、根暗だから、社交性がないから。狭隘だから卑屈だから矮小だから…………」
まさに卑屈に、自嘲的に、彼女は捲し立てた。その切実な口調に、どうしようもなく苦しくなる。
「私が悪いの。だから、だから、大丈夫」
顔を上げたその表情は、その表情は――
「大丈夫って、お前……」
「大丈夫、だから……」
「――ッ! 大丈夫なわけあるかよ! だってあれは紛れもなく……いじめそのものだろ!」
いじめ、その言葉を直接、口にしてしまった。避けていた言葉だったけれど、つい出てしまった。
三原は俯いて黙り込む。居た堪れない沈黙が流れる。
「私……、私は……、私……」
今にも泣き出しそうなか弱い声が、繰り返す。
「私に関わると……青木くんまで、不幸に、なっちゃう、から……だから、もう……」
やがて、震えた声でそう言って、三原は静かに文芸部室を飛び出した。
どうして、なんで、お前が、抱え込む必要がある。
あんな子が、誰かを傷つけたりするだろうか、誰かに迷惑をかけるだろうか。
直感で、そのいじめが、彼女に非がないことを告げている。それも思い込みか? ――いや、違う。そんなはずは……ない。彼女のその実情を、俺はこれっぽっちも判らない。外側から想像し、心配しているだけだ。でも、他者と関わるってことは全て、そういうものじゃないのか。共感、想像。人間が持つ、相手のことを考える力。そうすることでしか、関わってゆけない。
でもそれでいいだろう、それが精一杯だろう。それすら出来ずして、何ができるっていうんだよ、なぁ、教えてくれ――唯先輩。
せめて何か、話してさえくれたら――――
俺には、何ができる。
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