三原と屋上で初めて喋ったあの日以来、俺は文芸部の部室を意識することが多くなった。自殺部の部室へ向かう途中に文芸部室の前を必ず通るため、気が向いた時にはその扉を開けてみる。そうすると大抵三原がひとり読書をしていて、二、三言葉を交わしてから自殺部室に向かうのがここ最近の通例となっていた。


「それ、何読んでたの」

 読書をしている三原が、もうすぐ終わりそうなページまで読み進んでいたことに気づいた俺は、静かな文芸部室で彼女がその本を閉じるのをなんとなく待って、声をかける。

「え、あ……」

 何やら神妙な表情で本を閉じた三原は、すぐさま声をかけられるとは思っていなかったのか驚いて顔を上げた。その瞳は、濡れていた。……タイミング、間違えましたかね?

「――砂糖菓子の弾丸は、撃ちぬけない」

 眼鏡を軽くずらして制服の袖で瞳を拭った彼女は、いつも通りの消え入りそうなか細い声で、言った。

「あー、えっと、桜庭一樹? 名前は知ってたけど、まだ読んだことないな……どうだった?」

「……泣い、ちゃった」

 ……かわいい。そうかさっきの涙はその涙か。物語を読んで流す涙って綺麗なものだよな。そしてそれを恥ずかしいと隠したりしないことって、すごく素敵なことだと思う。

「素直に泣けるって、素晴らしいことだと思うなぁ。誇っていいよ、絶対」

「え、あ、あり、がとう……」

「よかったらそれ、貸してくれよ。ちょうど俺も最近読んでたの読み終わっちゃってさ。次何読もうかとか、考えてたとこで」

 これは本心。……共通の趣味を持つ女の子と交流したいという下心は、しまっておいて。

「えっ」

「あ……、もしかして人に貸すのとかあんまりしたくないタイプ?」

「ううん、違う、よ。そうじゃなくて……、私ので、よかったら」

 三原は手元にあったその本を、小さな両手で包み込むように持って、可愛らしいブックカバーのついたままで、俺に手渡そうとする。俺はそれを受け取ろうと立ち上がる。

「カバー、ついたままでいいのか?」

「うん……いい、よ」

 女の子から、本を借りる。青春っぽい感じが限りなくする。俺は浮かれる。思わず頬が緩みそうに――――


 手渡す寸前。パイプ椅子の関節部分に左腕側のセーターが引っかかり、セーターとその下のブラウスが引っ張られ、白くて華奢な左手首が露わになった。その左手首には――――


 ――――傷。


「……あ」


 それはおそらく、自分でつけた、そういう傷。

 一目見て分かる、たまたまついてしまったとは言えない、無数に刻まれた細い線。

 三原はその手首を見られたことに気づく。青ざめ、俯き、慌ててその左手を隠す。

 心臓が、どくんと跳ねた。じわりと、首筋に冷や汗が浮かんだ。


 ――私は、人間に合格できそうも、ないな。


 先の高揚が、一瞬のうちに冷え切ったのを、感じた。屋上での三原の言葉がよぎる。いろんな思いが、瞬間で脳裏を駆け巡る。

 リストカット。リスカ。自傷行為。躊躇い傷。

 初めて目にしたその生々しい傷。


「えっと、あ、ありがとな、貸して、くれて……」

「……うん」

 それ以上、何も言えなくなってしまった。言葉はもう一言も発されず、気まずいまま、俺は文芸部室を後にした。


 ……だって、

 ――だって、何ができるというんだ、何が言えると、いうんだ。そんな心の問題、俺が迂闊に踏み込んでいいものじゃないだろう。それに……リストカットなんて別に、不思議なことでもない、はずだ。よく話題にだってなるし、そこまで深刻なものじゃなかったりするかもしれないじゃないか。思い込みで先走ったりしたら、それこそ恥だ。


 ……けれど。


 屋上で出会った時のことを思い返す。仕草が、言葉が、次々と心に引っかかってくる。

 もしかしてと、浮かぶ小さな疑念。もしかして、彼女は――――


     *


「……先輩、リストカットって、どう思います?」

 放課後の部室。この人に訊くかどうかずっと悩んでいたけれど、でもやっぱり頼れるのはこの先輩しかいなくて、高島が不在のタイミングを見計らって、何気ない風を装って、俺は尋ねた。

「自傷行為による自殺について? リストカットで死のうとするならいっそ手首を切り落とした方がいいわよ」

 ……この返し、相変わらず先輩らしいなと、なんだか少しほっとしながらも、本筋から逸れていきそうな流れは軌道修正。

「……いや、そうではなくてですね。なんというか、その、リストカットっていう行為自体についてどう思うか、というか」

「……ふむ、そうね。リストカットは概ね死のうとして行われる行為というよりかは、ストレス発散などのための自傷だと言われているわ。すなわち、一般的な方法、友人とのお喋りやカラオケ、読書やスポーツ、その他いろいろな趣味で日々のストレスを緩和していることと同じように、手首を切ることによって心の抑圧の逃げ道を作っているということ。もちろんそれは理由のひとつでしかなく、全てをそう当てはめることはできないけれどね」

「なるほど……つまりそれは、その前提に当てはめるとするならば例えば、傍から見たら楽しく喋れる友人がいたり、趣味に見えるようなものがあったとしても、実はそれが救いになっていなかったりするってことなんですかね」

「救い、ね……。有り得ることだわ。悲しみや幸せはどこまでも主観的でしかないものね。リストカットをする心境は様々だろうし、その行為自体を目的化してしまう場合もあるのでしょう。自尊心の低さや、完璧主義的な性格故に行ってしまう、というのもよく言われるわ。リストカットは六十年代にアメリカで流行して、そこから世界へとブームが飛び火したと聞く。こういう行為も流行だったりするのね」

 近代アメリカは何だって先駆けね、なんて冗談で区切って、唯先輩は言葉を継ぐ。

「さて、私自身どう思うかについてだけれど、個人的には自傷行為も『私が此処にいる』ってことを、『私は苦しんでいる』ってことを、誰かに気づいてもらいたい、って理由があったりするのだと思うわ。勿論そんな大層な意図もなく、純粋なストレスの捌け口である場合だってあるはずだけれど。

 ――だから、そういう傷は確かに、気づいてほしいのサインなのだと思う。その〝躊躇い〟を、見つけてもらいたいんじゃないかと思う。……経験したこともないし、周りにそんな人もいないから、或いはいても気づかないまま生きてきたから、外側からの分析、いや、想像でしかないのだけれどね」

「はい、それはもちろん、そうですよね。当事者にしか真意は分かりません」

「痛みこそが生の実感だと、リストカットをすることで生きていることを確認する、なんていう自傷理由もあるそうね。まぁ、そうやって何とか現実に折り合いをつけてでも生きていられるのなら、それに越したこともないと思うけれど。そんな人が身近にいるのなら、是非話を聞いてみたいものだわ。

 ――青木くん、知り合いにそういう子、いるの?」

「あ…………」


 唯先輩のその、揺らがない力強い瞳に、俺は――――

「…………実は」


 俺は、先輩に話した。やはりその手の話を真剣に受け取ってくれる相手なだけあって、思わず話したくなってしまった。話したところでどうなるというわけでもないかもしれないけど、独り抱えるどうしようもなさを、誰かに伝えることで紛らわせたかった。

「なるほど。一年、三原夏菜子ちゃんね」

「はい……話したところで先輩に何かしてほしいってわけじゃないですけど、この部活的にも関係なくはないかなとも思いまして」

「そうね、確かに自傷というのも自らの身体に傷を負わせる行為だものね。極端に振り切れたら自殺にも当然繋がるわ。自殺者と自傷者はメンタル的にもリンクする部分があるわけだし。ありがとう、話してくれて」

 唯先輩は何か考え込むように立ち上がり、本棚からいくつかの書籍を手に取り、目を通す。その真剣な横顔に、それとない安心感が湧いた。

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