「もう我慢の限界だ!」

 数学の授業中、演習問題を解く静かな教室に、そんな叫び声と、遅れて何かを叩きつけるような音が響き渡った。

 声の出所はどうやら他のクラス。声の距離感からして三組か四組辺りだろうか。その声は女子のものだった。俺を含めた三十五人のクラスメイトは一斉にビクつき、俄かにざわついた。

 数学の担当教師は「静かに演習を続けるように」と言って教室を出た。その顔は少しニヤついていたのでずるいなと思った。生徒はもちろん真面目に演習を再開するわけもなく、退屈な授業を引き裂いた声の正体を知りたいと、小さな非日常に心躍らせた。中にはひっそり廊下に出て状況を確認する者もいた。

 担当教師が戻らないまま終業のチャイムが鳴り、ざわつきはさらに大きくなる。大急ぎで教室から飛び出したのはゴシップ好きなクラスメイトたち。早速噂が流れ込んでくる。なんとも早いものだ。人間ってのはきっと、そういうのが大好きなのだ。

「三組の高島ってやつが演説したらしいぜ」

 謎に悦びを湛えた表情で、クラスメイトが訊いてもいない俺にまで情報をくれる。

「……演説?」

「おう、なんでも、自殺がどうこうってさ」

 ――――なるほど。これは先輩に報告案件かもしれないな。



 放課後の部室、俺は早速唯先輩に今日起きた出来事を話す。

「先輩、今日の三限の時間にですね、三つ隣のクラスから『もう限界だ』って叫び声がしたんですよ。で、噂によると、どうやらその声の主はそのまま『自殺』についてなにやら『演説』を始めたらしくてですね……」

 これには先輩、目を輝かすに違いない。でかしたぞ俺、唯先輩もきっと喜ぶ――……って、なんか俺、すっかり唯先輩のこと気に入ってしまったみたいだなぁ。

 しかし唯先輩、さして驚きを見せず、俺は当惑する。すると、その戸惑いをつつくように、部室をノックする乾いた音がした。

「――来たみたいね」

 先輩はニヤつき、どうぞと声をかける。

「ここが自殺部か……。なんだ、集団自殺でも考えているカルト集団なのか」

 入ってきたのは、長いポニーテールと鋭い眼つきが特徴的な、ひとりの少女。度胸の据わった喋り方で、堂々とした立ち振る舞い。

「あ、いえ、違います。少なくともボクは死ぬ気などないです」

 ありがちなネタを振ってきた彼女に対し俺は返す。多分唯先輩も自殺しない。

 ……というか、誰。

「む……そうなのか。ではこの部活は何なのだ?」

「まぁまぁ、まずはお互い自己紹介といきましょうよ、高島紗代さん」

 唯先輩は微笑んで、いつも以上に優しい声色でそう言う。おお、そうだなと目を丸くした彼女は改まり、部室の扉を閉めたその場所で、自己紹介を始める。

「私は一年三組十八番、新聞部所属の高島紗代。そうだな……座右の銘は『ジャーナリズムは正義の下に』。肌身離さぬ我が相棒は、このルート化したスマートフォン。世界中のニュース・情報をいち早く掴み、問題・事件は確実に捉える。録音・撮影・録画機能はもちろんワンアクションの無音起動。常に真実を希求し、欺瞞を暴き、不正を逃さないよう生きていきたいと思っている――自己紹介とは、こんな感じだろうか」

 彼女――高島紗代と名乗った少女は、凜とした態度でそう言い切った。

「うわぁ、濃い……」

 感想、思わず漏れてしまいました。すいません、許してください。

「あなたにとって正義とは?」

 唯先輩はそんな痛々しい自己紹介を真剣に聞き、真面目な表情で質問を返す。

「偽らない、ことだ」

 高島はきっぱりと、言ってのける。威風堂々。こいつ本当に同学年?

「高校生になり、私は新聞部に入部した。ジャーナリズムとは世界の欺瞞を暴くためにある。私はこの手に正義を欲していた。力が欲しかったのだ。物心ついた頃から漠然と抱いていた世界に対する疑念や不満に、遂に糾弾を突きつけてやることができるのかと心躍った! ……しかしなんだ! 新聞部の活動といえばやれあの先生が妊娠しておめでたいだの陸上部県大会快調だの! そうじゃないだろ! 暴けよ欺瞞を! いじめ問題とか教育問題に対して立ち向かえよ! 大人と同じ議論水準に立てなくとも、当事者である学生として、今持ち得る精一杯で声を上げろよ!」

 ……すごいヤツだった。予想以上だ。思わず口元が緩んだ。それでも唯先輩は真剣にその話を聞いている。「そのニヤつき気持ち悪いわ」なんて言ってはくれないみたい。

「まぁそれでも、学べることは多いから今でも辞めずにはいるのだがな。何かと『本物』に近づくための勉強だと思えばそれはそれで決して無為ではない」

 高島は少し残念そうに、「仕方ない、それが妥協点なのだ」と言葉を締めた。


「私たちの部活なら、それができるわ」

 濃すぎるアクを把握するには十分すぎる自己紹介は終わり、やってきた静寂。それを破ったのは、悪巧みの意志を含んだ唯先輩の言葉。

「え?」

「あなたの想いを、純度百パーセントでぶちまけることができるのよ」

「……ほう、それは、どういうことなのだ」

 ふたりの間に、張り詰めた空気が流れる。互いの鋭い視線はぶつかり合い、その口角はどちらも不思議と上がっている。

 ふっ、と唯先輩がその緊張の糸を切る。目を閉じて小さく息を漏らす。

「自己紹介がまだだったわね。私は二年の天ヶ瀬唯。この自殺部の部長をしているわ。彼は一年生の青木和海。現自殺部員は私と彼の二人だけ。どんな活動をしているかと言われれば、今は基本的には自殺についての知識を深めているといった程度ね」

「ほう、天ヶ瀬先輩、か……。なかなか芯のありそうな眼をしている」

 先輩に対しても臆すことなくタメ口を使っていく高島。すごい。

「こいつが青木……。青木和海……読書感想文の青木か」

「あ、はい、そうです」

 知られてた。ちょっと嬉しい。でも『読書感想文の青木』ってなんかダサい。

「なんだ、こんな軟弱そうなやつだったのか。もっとこう、威厳のありそうな風貌をしていると思っていたのだが」

「ひどい! 初対面相手になんてやつだ!」

「ああ、機嫌を悪くさせてしまったのならすまない。悪気はない」

 悪気なく軟弱とか言っちゃう方が問題だと思うんですけど……。

「さて、私は彼女と一対一でお話がしたいわ。和海くんは少し校内を散歩でもしているといいわね」

 唯先輩がそんな風にこの場を取り仕切る。出ていけってことですか、へいへい。

 財布とケータイと文庫本をポケットに突っ込んで、部室を後にする。辺りはすっかり夕暮れで、強烈な橙が学校中を染め上げていた。


 文化部の部室の連なる廊下を何となく歩いていると、目につく一室。

 文芸部。一応所属してはいるけれどほとんど活動実態のない文化部。部員が何人いるかすら把握できていない我が部活。暇つぶしに部室にでも寄ってみるかと、経年で動きの鈍くなった木製の扉を開く。

 ――あ。

 部室の中央には、教室で使われているものと同じ六つの勉強机。そしてその一席には、読書をしている女の子。眼鏡にお下げ、少し大きめの紺色のセーターから覗く小さな手には、フェルト生地のブックカバーに包まれた文庫本。いかにも文学少女なんてフレーズが似合いそうな、もの静かな佇まいをした女の子。地味? そうとも言うかもしれないけれど……。

 邪魔しちゃ悪いし、知らない誰かと狭い部室で二人きりってのも変な空気になりそうだ。そんな空間では集中して読書なんてできなさそうだし、俺が当事者なら絶対場所を替える。

「……お邪魔しました」

 そう小さく言って文芸部室を後にする。さて、これからどこに行こうか。

 廊下に出て何気なく窓の外を見ると屋上が目につく。

「そうだ、屋上行こう」

 よく聞く観光キャッチコピーみたいな独り言を呟いて、中廊下を抜け、反対側の校舎に向かう。階段を昇って、重い鉄の扉を開く。


     *


「自殺部、か――――」

 屋上に吹く十月の風に、彼はそう言葉を乗せる。優しいようで、どこか儚い、そんな夕焼けに染まる街並みをぼんやりと眺め、その街で生きる無数の人たちのことを想う。繰り返される日々の中で続く、生きるという営み。その裏で、或いはもうすぐ隣で、確かに在るのは、死という不条理――――

 ……どうですか、このモノローグ。どうも、文芸部兼自殺部所属、一年六組青木和海です。唯先輩という自殺部の部長に部室を追い出されたのでただいま屋上に来ております。

 我が高校は屋上が解放されておりまして、四方をぐるっとフェンスが囲んでおるわけですが、私はここから見える景色が大変好きでございまして、特に夕暮れ時の風景というのはそれはそれは格別なのでございます。丘の上にあるこの高校からは、眼下に街並みを据えることができます。北には大きな山々、南にはどこまでも広がる海。緩やかに標高の上がっていくこの土地で、私は十六年間過ごしてきました。

 ……唯先輩と高島は今頃どんな話をしているのだろうか。一目見ても分かるあの変人っぷり、なかなか唯先輩と噛み合うような気もするけれど、反面、どちらも主張が強すぎる上に反発してしまうのではないかという予想もできたりする。今にも一触即発な、危険な領域に突入しているとしたら……。


 金木犀の香りが鼻をくすぐる。なんだか寂しい気持ちで胸がいっぱいになる。四季の情緒ってものは、まこと素晴らしい。そうしてそこに風情を見出してきたのはやはり文学であって、まだ読んだことないそれらに出逢うことに、俺は楽しみを見出している。生き甲斐、ってやつなのだろうか。きっとこれから、いろんな経験と知識の吸収によって、物語の、世界の見方は変容していくことだろうし、それに併せて、これまで読んできた作品たちの見え方も変わってくるのだろう。本当に楽しみだ。

「……寒っ」

 ぼちぼち話とやらも終わっただろうか。いかんせん日暮れには肌寒さを感じる季節になってきた。部室に戻って荷物をまとめて、今日はもう帰ろうと思った。

 気がつけばあっという間に、すっかり季節は秋に変わっていた。

 蒼い夜が少しずつ忍び寄る。街灯りがきらきらと揺らぎ出す。もう少しこの場所にいたい気持ちに後ろ髪を引かれつつ、俺は屋上を後にする。


     *


「その内に秘めたる熱情! 気に入った!」

「あなたと私の『自殺』は、お互いにその意味合いは少し違っているけれど、でも根底にある想いというのはどちらも世の中に対して何かを投げかけたいという意志だわ。私も、あなたのその心意気に大変好感が持てるわね」


 ……あれぇ~? なんかスッゴク意気投合しちゃっているんですが、この人たち。

「おお、青木」

「もう呼び捨てなのか。いいけど」

「あら、和海くん、戻ったのね。今日は帰ってもいいわ。それとも、この後高島さんとお茶にでも行こうと考えているのだけれど、あなたも来る? なかなか面白いわよ、彼女」

「いえ、遠慮しときます……楽しんできてください」

 俺は部室を後にする。あんな風に目を輝かせて話をする唯先輩、なかなか見ることができないんじゃないだろうか。高島紗代、恐ろしい女……。

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