「さて、正式に入部もして、和海くんもそろそろ自殺についてより深く学びたい! と思ってきた頃なんじゃないかしら」

「いえ、そんなこともない、ですけど……」

 本日も自殺部は平常運行。――ただ、これまでと違うのは、この空間に人が一人増えたということ。

「じゃあなんで入部したんだ?」

 ……高島紗代。新聞部所属の一年生。昨日の演説事件により唯先輩がコンタクトを取り、なんやかんやで彼女も仮入部、というか高島曰く『この部活を見極める』ための視察期間ということになった、らしい。

 正直、ついていけません。

「いや、まぁ、それは……いろいろ思うところあって……」

「そんなあなたに朗報、今日は遂に、この偉大なる古典について学ぼうと考えているのよ!」

 興奮気味の唯先輩は意気揚々とそう言って、一冊の分厚い本をドンと机の上に置く。「そんなあなた」ってなんだよ。「自殺についてより深く学びたい!」とは別に思ってないよ……。

「うわっ、分厚っ!」

「さあ! これが、これこそが! 自殺研究の第一人者エミール・デュルケーム大先生の偉大なる著作、『自殺論』よ!」

 優に五百ページは越えているであろうと予想できる分厚さ。漢字三文字で大きく書かれた表題は見たものを思わず二度見させるようなインパクトを持っている。

「さあ、和海くんも出しなさい!」

「……はい?」

「自殺論よ。なに、まさか買ってないの?」

「か、買ってないですよ……」

「はぁ~~~~~~? あなたそれでも自殺部員?」

 まるで存在を否定しにかかってくるかのような表情で、唯先輩は俺を威圧する。

「いや、だって用意しろなんて言われてないし……」

「完自と自殺論は基礎知識って何度も言ったでしょう! あなたそれでも自殺部員? 部員としての誇りはないわけ?」

 出た、『完自』。未だにその略称は謎。

「……そんなこと言われても……って、ええ⁉」

 正面に座っている高島は鞄から何食わぬ顔で完全自殺マニュアルと自殺論を取り出す。

「天ヶ瀬先輩、これらさすがに重いし、この部室に置いといてもいいだろうか」

「ええ、いいわ」

「ちょ、ちょっと待て! なんでまだ部員でもない高島がどっちも持ってるんだよ!」

「なんでって、そりゃあ郷に入っては郷に従えと言うしな。それにこの自殺論は社会学的観点からも大変価値のある書籍だとされている。何か学べることがあるのではないかと思ったわけだ」

「そう、その通りよ高島さん。この自殺論は社会学の基礎を確立したと言っても過言ではないとされている名著なの!」

 唯先輩は目を輝かせ、ホワイトボードを手繰り寄せながら〝講義〟を始める。

「さて、そんな本書の内容は、大雑把に言うとこうね。当時自殺者の多さがしきりに話題になっていた。そんな社会の変動期、デュルケムは自殺を個人的な現象ではなく社会的な現象であるのではないかと研究を行うことにした。まず漠然と使われていた自殺という語に定義を与え、既存の曖昧で無根拠な解釈をひとつひとつ論破していく。精神障害、アルコール中毒、人種、遺伝、季節気象、また『模倣』などはどれも自殺の要因としては不適切であると、議論の土台を万全にしてから、多くの調査資料を基に〝社会学的〟に自殺の類型を導き出した」

 右手の指を三本立てて、唯先輩は続ける。

「デュルケームが定義づけた大きな自殺の類型はみっつ」

 ホワイトボードに書き記される用語。自己本位的自殺、集団的自殺、アノミー的自殺。

「まず最初に、自己本位的自殺。これは産業革命以降蔓延し始めた『個人主義』の影響下にある自殺なの。簡単に言えば社会的なまとまりが弱まって、個人化が進めば進むほど自殺率も高くなるという分析。カトリックとプロテスタントの対比を以て説明がなされるわ。自由検討の精神が強調される個人主義のプロテスタントは、社会の凝集性がカトリック社会よりも低いために、自殺率が高いのだとデュルケームは推測したの。

 次、集団本位的自殺。これはさっきとは真逆なのだけど、集団の凝集性が高すぎても、自殺に繋がってしまうということ。集団的価値規範によって自殺が引き起こされる――腹切なんか分かりやすい例えかもしれないわね。軍人の自殺率についての数的調査の結果が反映されているわ。

 そして最後、アノミー的自殺。これは経済発展によって社会規範が緩み、より自由になった人々が、欲望を果てしなく追い求めることに所以する自殺。社会規範の変化、の中には離婚の容認なども含まれるわ。アノミーはデュルケームの造語で、『無法状態』を意味するギリシャ語から作られた言葉ね。好景気の時の方が自殺率が多いのは、欲望の水準が高まるほど、求めても求めても究極的な満足が得られることなく、苦しい状態に陥ってしまうからである、と述べられているわ」

「な、なるほど……理解できたようなできていないような……」

「デュルケームによれば、集団本位的自殺は前近代社会に多く、個人本位的自殺は近代社会に多い。そしてアノミー的自殺はその過渡期の混乱の中で生じやすいというわ。そして彼は、そんな個人主義な社会において自殺を抑制するためには個人の凝集性を確保すること、実践的には職業集団を強化することだと主張したの。婚姻を容易く解消しないこと、女性の社会進出を奨めることなども大切だとしているわ。彼の行った分析方法は今日の社会科学の基礎となっていて……詳しくは全部読むこと。特に和海くんは絶対」

 唯先輩は鋭い眼つきで一言。…………反論はできなさそうです。

「デュルケームの自殺論は、この現代でも通用する多くを持っていると私は思うわ。特にアノミー的自殺なんか、まさにこの現代のことを予見していたかのようね。何でもかんでも自由に選択できることは、際限のない欲求を生み出し、その終わりのない欲望に苦痛すら感じてしまう」

 そうして唯先輩は、『自殺論』を踏まえた持論を展開していく。宗教社会の衰退、知識への欲求、際限のない欲望、宗教に自殺抑制効果があるのは宗教自体が社会であるから…………。

「ま、正直言って、『自殺論』も読まずに自殺について語ってる人間は全員ニワカね」

「自殺にニワカもクソもあるんですかね……」

「あら、ちょっと自殺について検索すればたくさん出てくるわよ、個人の主観や感情的な決めつけでしかない、『もっともらしい』論がね。勿論『私はこう思う』という意見は常にあっていいものだと思うけれど、主張の背景にあるエビデンスが乏しいと、どうしてもいまいち言葉に重みが生まれないわ」

「ああ、確かに。それは重要なことだ」

「だから高島さんもたくさん本を読むといいわ」

「助言感謝する」

「この言葉は自戒も込めて、よ。私も今ある知識に驕ることなく、精進していきたいと思うわ」

 ああ、確かにそれは大事なことだと思う。俺も小説だけじゃなく「和海くんも小説だけじゃなくいろんな書物を読むといいわね。そうすれば読書もより楽しくなるし、文章にもより深みが出ることだと思うわ」……はい。仰る通りです。

「自殺を考えるということは結局社会を考えることだと、自殺論を始めとして読んできた様々な書物を通して思ったわ。個人の死だけを切り取って語ることは、語る当人やその周りの関係性に閉じてしまうだけで、本質的なものを掴むことはできないと思うの。しかし、だからと言って社会学的観点からだけで考察したところで、死の目の前で悩む人を救えるわけじゃない。精神科医やカウンセラーなんか『自殺論』を読んでいて然るべきだとは思うけれど、死にたがりに向けて『自殺は社会に問題があるんです』なんて言ったところでその人の心の問題は解決されるわけではない。心理学的な観点だってもちろん必要で、……自殺を考えるということはとても難しいことだわ」

「成程」

 高島が真剣な表情で相槌を打つ。女性陣二人はなかなかに波長が合っているらしい。

「死を考えるにあたっては、本当に様々な要素が付随する。若者の自殺ひとつ取っても、いじめ問題や現代の教育システム、家庭環境に若者の心理的傾向、自ら死を選ぶ、ということに関連しては安楽死、尊厳死、死生学……調べ尽くすには時間もお金も足りないくらい。それに……どうしてでしょうね、自殺の傍にはいつも宗教と自己啓発がくっついているのよ」

 ああ、確かにと俺は思った。宗教はともかくとして、自己啓発。胡散臭さと紙一重なそれの決まりきったような文句を思い浮かべていると、唯先輩は一言、簡潔に言い放った。

「私は、ありきたりな言葉で綴られるくだらない自己啓発に興味なんてないわ」

 ……力強いお言葉だこと。

「さーて、今日の部活はお終い。これにて解散」

 本日解散の挨拶。俺は図書館に本を返しに行くため、二人より先に部室を後にした。


     *


「――さて」

 和海のいなくなった部室で、ふたりの少女は改めて、向かい合う。

「昨日今日と関わらせてもらって、ひとつ思うことがあるのだけれど、訊いてもいいかしら」

「ああ、何でも訊いてくれ」

「……あなたのその正義感は、一体どのように形成されたのか、――すなわち言い換えれば、あなたの思想に大きな影響を与えた象徴的な思い出話なんかを、聞かせてほしいと思うの」

「……なるほど」

 紗代は少々面食らったような表情をして、しばし自分の過去を整理する沈黙を置いてから、「分かった」と返事をした。唯は両肘を机に預け、前傾姿勢で耳を傾ける。

 紗代は静かに語り出す。

「――小学生の頃、私の父は会社の不手際の責任を取らされ一方的に解雇された。父、パート勤めの母、私、そして弟と妹の五人家族。一家の生計を担う父が、突然の失職。母の収入だけでは到底五人家族は支えきれない。幼いながら私は世間の圧倒的な不条理さを呪った。ところが父は、仕方のないことだからと、それを受け入れてしまった。幸いなことに、その解雇騒動の際尽力してくれた父の同僚が、新しい就職先を紹介してくれたおかげで、我が家は立ち直ることが出来たのだが、あの時、幼心ながらに感じた世界の理不尽さ、それは間違いなくそれからの私にとって重要な意味を与えるものだった」

 西陽が自殺部室に射す。静寂が漂う。

「ある時、『自殺』という概念を知った。子どもの頃は漠然としか把握できなかったそれがどういうものなのか、理解できるようになった。そしてその時、私が真っ先に思ったのは、『あの時父は自分の中の何かを殺したのではないか』ということだった。それから、例えば周囲に流されるまま、自分の意見を主張しないクラスメイトなんかを見ると、どうしようもない憤りで胸がはち切れそうになってばかりだった。父が重なった。母が重なった。これではいけないのだと思った。世界には自殺だらけだった。そして、私には何が出来るのかを考えるようになった。私は私なりの武器を作ろうと思った。――そうして、今の自分がいる」

「……なるほど。ありがとう」

 唯は一息吸い込んでから、紗代に言った。

「こんな感じでよかっただろうか。かなり簡潔にまとめてしまったが」

「ええ。自分の意志を殺すこともまた自殺である。なるほど賛同できる意見だわ。そのような自殺の捉え方もまた、確かに自殺であるわね。あなたにとっての正義が『偽らないこと』である、という主張も、より質感を持って感じられる」

 唯は自分の言葉に合わせてひとつ頷く。そして、その力強い瞳で、紗代の両目をしっかりと見据えて、言った。

「さて、ここで、ひとつ提案があるのだけれど――――」

「提……案、」

 唯は説明する。その内容に、紗代は目を見開く。無意識に、口角を上げる。

「それは……なるほど、面白いな」

 生唾を飲み込んで、紗代が言う。その声は高揚で上ずっている。

「言葉を、綴ってきて頂戴。あなたの全身全霊を、魂からの真摯な叫びを、私は聴きたい。そして同時に、知らしめてやりましょう。この学校に、或いは、世界に。どう? 悪くない提案だと思うのだけれど」

「停滞に打撃を与える。それは――或いは革命? ……そうだ、革命が必要なのだ。それは私自身にも、この世界にも……」

「間違っているのは世界の方だという感覚、常に忘れてはいけないものだって、私は思うわ」

 唯はニヤリと笑う。悪巧みの意志を含んだ、不敵な笑み。

「ああ。そうだ。その通りだ。正しくないことを、間違っているのにまかり通っていることを、くだらない常識を、世の中はそういうものなのだと言って諦めることが、妥協することが、大人になるということなのならば、私はそれに抗おう。嗚呼、叩きつけてやろう、そうだ、真実を、私なりの正義を――」

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