二
三限の時間、生物の授業。一年三組の教室には嫌味たらしい教師の声がねちっこく響く。その教師は気に入らない生徒を理不尽に責めることで有名であり、彼のことを好いている生徒などほとんどいなかった。セクハラやパワハラまがいの行為をすることもしばしばで、その悪評は教師陣にも伝わっていた。
授業も終わりに差し掛かった頃、とある生徒が教師の質問に正しく答えることができなかった。するとその教師――
「勉強したしてないんじゃあないんだよ、こんな問題。普通に考えたら分かることだろう。……ははぁ、つまり君は、普通以下ってことか。残念だなぁ。こんな問題も解けないようじゃ、大学受験なんて無理無理。中学校に戻ってイチから勉強し直すといいよ、分かったか?」
「……」
分かったか、と言われて返事などするはずがない、できるはずがない。押し黙ったままの少年に対し、蛭川は高圧的に言葉を重ねる。
「なぁ、分かったかって訊いてんだ。どうなんだよ、え? 最近の若者は自己主張ができなくて困るなぁ。その癖達観したフリして偉そうにしやがって……」
「……」
少年は答えない。それでもなお、いやらしく笑って蛭川は続ける。
「お前、友達とかいないだろ。そんなんじゃ誰も相手してくれないぞ? 恋人もできない。他人とのコミュニケーションが上手くできないようじゃ、駄目駄目。やっぱり中学生に戻った方がいい、いや、小学校……幼稚園だ、そうだ、それがいい、そうしろよ、な、分かったか?」
「…………」
「分かったかって訊いてんだよ! 返事をしろ!」
「――ッ!」
明らかな人格攻撃であった。加えてこの日の蛭川は、授業開始時からどの生徒も身構えるほどに、苛立っていた。そんな彼はいつも以上にきつい口調で捲し立てる。何か気に入らないことがあったに違いないと皆が思う。教室中に重苦しい空気が広がってゆく。しかし誰もその筋の通らない罵倒に異を唱える者はいない。巻き添えにならないように、ただそれだけを思い、下を向き口を閉ざす。蛭川の憂さ晴らしの対象にさせられてしまった不運な少年もまた下を向き、反論などできず口を噤む。教師と生徒、圧倒的な立場の差に、為す術はない。今にも泣き出しそうな彼に、蛭川はさらに言葉を突き刺す。
誰も逆らえない、逆らわない。そんな暗黙の了解の空間で――――
――――彼女だけは、違った。
「……もう我慢の限界だ!」
少女が、叫んだ。
張り裂けんばかりの怒声が、蛭川の声すら掻き消して、教室の外まで響き渡る。
少女は眉間に皺を寄せ、歯をぎりぎりと食いしばり、その両手を勢いよく机に叩きつけ立ち上がる。その全身は怒りで震えていた。大きく息を吸い込み、突然の出来事に目を丸くしている蛭川に向けて、立ち尽くす男子生徒に向けて、そしてこのクラスの全員に、――或いはこの世界中の全ての人間に対して、憤りを放つ。
「明らかに可笑しいだろ! 間違っているのはこの腐れ教師の方だ! こんなゴミクズみたいな奴が指導者の地位にいる、平然と、何食わぬ顔で生きている! さっきから明らかな人格攻撃だ! 根拠のない、謂れのない誹謗中傷じゃないか! しかし何故? 何故君は反論しない? 何故自らの意見を殺す? 君だけじゃない、このクラス全員だ! 全員が傍観者だ! 全員がその心に抱いた『正論』を殺した! 正しい意志を殺した! 何故だ! 何故誰もが口を噤む! 嗚呼、何が教育だ! 当たり障りのない『常識』だけを押し付けて、個性を潰す! 普通になれないやつを弾き出し、同じ色に染める! 学校という名の閉鎖空間で、人間は自らを殺すことを学ぶ! 周りの顔色を伺い、『社会』でうまく生きていくために、自殺の方法を学ぶんだ! 怒りを殺し、本音を殺し、真実を殺し、嫌悪を殺し、作り笑いや嘘や妥協や馴れ合いを繰り返す! 人は日々自殺をしながら生きている! 無数の自分を自分自身の手で殺してはまた、何食わぬ顔で生きてゆく! 可笑しいと思わないのか! どうして誰も疑問を抱かない! 自分を殺し続けた先に何がある! 何もないだろう! 何度自分を殺しても、救われたりなんかしないんだぞ⁉ 殺せば殺すほど、そんな自分に嫌悪を抱く! 君たちはどうなんだ! どうして平然とそれをやってのける? この教師が可笑しいのは最早語るに能わない純然たる事実だ! 根本の問題はそこではない! 理解できるか! なぜ人は自らを殺すのかということだ! 小さな『自殺』を繰り返すのかということだ! 答えろ! 貴様らにとって正しさとは何だ! 正義とは何だ! 社会に、世界に、なんとなく流され生きる、それでいいのか! そんなのは飼い慣らされた動物と変わりない! 家畜と変わりないじゃないか!」
皆、聞き入っていた。蛭川さえも、その立場を利用して彼女を止めることをしなかった。いや、正しくは、できなかった。廊下中に響いた声に様子を見に来た他の教師たちも、彼女の言葉を遮ることはなく、その〝演説〟を止めたのは感情を持たぬ終業のチャイムであった。聴衆となった全ての者がそのチャイムの音にハッと我に返り、廊下の教師たちはそれぞれの教室に戻っていく。蛭川は顔を真っ赤にして俯いたまま教室を出ていった。
『大人』のいなくなった教室には沈黙が流れ続けた。囁き声すら聞こえない。誰も言葉を発そうとしなかった。彼女が作り出したその空気に完全に飲まれていた。廊下では騒ぎを聞きつけてやってきた野次馬たちが続々と群がり出す。
見せしめとして立たされたひとりの少年と、それに立ち向かったひとりの少女、そのふたりだけが教室の中で椅子から腰を上げていた。廊下の様子に気づいた少女は、そのまま廊下に静かに歩いてゆき、ひしめく生徒たちに睨みを効かせどこかへ消えた。少年は緊張の糸が途切れたかのように脱力し、椅子の上にへたり込む。少しずつ席から立ち上がる者が現れる。待ってましたと言わんばかりに廊下の野次馬が真相を聞くため教室に流れ込んだ。
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