第二章 高島紗代は憤る

「社会は死を隠す」

 放課後の部室では、今日も死についての議論がなされる。

 ……今日の開口一番はそれですか、先輩。

「っていう通説、あなたはどう思う? 和海くん」

 始まった先輩との自殺部の日々。基本的にはこうして毎日自殺や死についてのあれこれを語り合い、というか一方的に唯先輩の話を聞きながら、時折雑談や、オススメの作品なんかを紹介し合ったりするのが活動内容となっている。(やはり)勝手に設置された本棚には自殺や死に関する本がいくつか並んでいて、それらをテキストとして用いたりしながら、実に真面目に部活は行われるのである。なお普通に唯先輩の趣味の本も置いてあったりするので、俺も自分の名作文学コレクションをちょいちょい追加している次第。

「そうですねぇ、日常で死を感じる機会は昔に比べて減った、とかいう話って聞いたりしますけど……」

「医療の発達、病院の普及によって死や出産が身近なものではなくなった、というのはひとつ事実でしょう。加えて、資本主義経済がその日暮しの快楽や生の欲望だけを無限に供給し続け、生きるためだけに労働をするというような無為なライフサイクルによってなかなか死について思い至らないという意見もあったりするわ。でも私が言いたいことはそういうこととは少し違っていて……」

 何というか、と右手の人差し指をくるくると回して、唯先輩は言葉を選ぶ。

「死というものがタブー視されすぎていないか、ってこと」

「……と、言うのは」

「死そのものを想うことが禁忌だと、不謹慎だとされているということ。少なくとも私たちが生きている今、表立って伝播される死というものは、何かしらデフォルメされたものに他ならないと思うの。有名人の死、災害や戦争による多くの人の死、それらは全て画面の先の、実感の伴わない、どこか漂白された物語的な死」

 言った自分でうんうんと頷きつつ、先輩は続ける。

「すっぽりと抜け落ちてしまう生々しさ。身近にあるはずの死を、何故だか遠いものだと思ってしまうこと。――私だってそう。意識しなければ、普段の生活の中に死を想うことなんてきっとない。それはある意味では正しいことなのかもしれない。人間は大切な人の死すら薄れてゆく、忘れてゆく、乗り越えてゆく。いつまでも記憶の鮮明さが変わらなければ、悲しみを死ぬまで同じ大きさで抱き続けることになってしまうから。同じように様々な感情が、湧き起ったその時の状態のままで留まり続けたら、人の精神にはいつか必ず限界がきて、異常が起きてしまうでしょう。だから忘れていくということは嘆くような事でも、非難されるようなことでもない。勿論忘れまいと意識することは大切だけどね。

 ――でも、誰かが亡くなったことに対してゆっくりと思いを巡らせる余裕というのは、昨今あまりないのかもしれない。次から次へと情報が、ノイズが、猥雑に飛び込んでくる。加えて先程挙げた、その日暮しの資本主義経済。生きるためにお金を稼ぐようなこの日本の仕組み。忙しない日々の中に、立ち止まるということが許されていないような気がするのは私だけかしら」

「なるほど……」

 テレビ、ネット、街頭。次々と膨大な情報が流れ込んできては、昨日の出来事もあっという間に遠い過去になってしまうような感覚。ゆっくりと立ち止まっていようものなら、取り残されてしまうかのような世界のスピード。それらは確かに感じることができて、社会に出るようになれば、もしかしたらもっともっと身に染みて実感するようになるのではないかと、思ったりもする。

「そんな日々の中で、私たちの死に対するリアリティはより希薄になっているという気がしてならないわ。だからと言って、メディアで死体を映せってことではないのだけど……」

「それさえも、ひとつのフィクション的な刺激にしかならなそうですね」

「例えば、人身事故。震災や災害について日々言及する人が、目の前で消えたひとつの命に対しては特に気も留めない。人身事故が起きた時、どれだけの人がその死について想いを馳せるでしょう。事務的に職場に電話をし、機械的に『仕事に遅れます』と告げる。或いは誰かは理不尽にも『またかよ』『迷惑だから他でやれ』と憤り、ある者は遅延証明のことを考えながら束の間の一息をつく。……それもまた人間として不思議な事ではないけれど、一方で遠く離れたテロや震災で亡くなった命に対して、一丁前に意思表明をし哀悼を周りの人に勧め、気に入らない行動を『不謹慎だ』と糾弾する。災害に哀悼、人身事故に舌打ち。これはちょっと極端な物言いかもしれないけど、その逆転したリアリティってなんなのかしら。まさか自分のすぐ近くで、って想いは多くの人にあるでしょうけど、遠く離れた出来事の方にこそ意識があったりするというのは、不思議なものだわ。いや、でもそれは果たしてリアリティと呼べるものなのかしらね」

 唯先輩はひたすらしゃべる。立て板に水とはよく言ったものだ。同じ議論水準で返事を返せない自分が情けなくも思うけれど、こうして言葉にすることは自身の意見整理も兼ねているのだと思う。口にすることで気づくフィードバックや発見は大いにある。そういう意味でも、共に語れる相手が欲しかったってことなのだろうか。

「目の前で知らない誰かが死んだ時、その死を自分と乖離したものとして捉えること、誰かに出来事のひとつとして話すこと。それは別に『人間は冷たい』と言えるような事でも残酷な振る舞いでもなくて、SNSのような各種メディアによってそういう行動が可視化されたところで、人々が昔に比べて冷酷になったのだ、なんて思わない。

 死自体から乖離したところで、その死自体を想うことなく、物語を組み立て始める人間はきっと多い。死を目の当たりにした時の手触りのない感じ、実感のなさを上手く処理するためには、死そのものを一種物語化するのだと思う。災害だって、個人の死だって、おんなじように」

「『死ねば感動になる』みたいな商売への皮肉って、結構あったりしますもんね。全てを偽善だとは思いませんけど」

「ただ、だからと言って、そうやって物語にするだけで終わりにしていては、恐らく自殺問題は解決されない。いいえ、自殺だけじゃない。社会の様々な問題についても、このままでは停滞したままになってしまう」

 何となく開いていたノートにシャープペンで、「死」と小さく書いてみた。意識した途端に、今この瞬間にも、あまりにも多くの問題や困難があるのかもしれないと思わされる。本当は常に、ありふれた、平和に見える日々のすぐ隣にそれらはあって、それでも気づかず生きてゆく人間――自分を含めた人間という存在のことを、ぼんやりと考えたりした。

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」

「えっと……カミュ、でしたっけ」

 唯先輩は無言で頷いて、続ける。

「偉大な先人たちは多く、死についての思索を残してきたわ。死は我々に重要な思索を与えてくれる。けれど現代、平和なこの国で、まるで断絶されたかのように、私たちが死を想う機会は少なくなっている。有名人の死も、震災も、ただのニュース。情報化社会のはずなのに、常に追うのはトレンドや娯楽ばかり。隠された死、それを想わない人々。隠された、というのは正しくないかもしれない。誰かが意図的に死を忘れさせている、なんて陰謀論めいた意見は少々現実味に欠けるからね」

「……でも、死を想わなくていいというのは、それはそれで幸せなことなんじゃないかとも思いますけど」

「そうね。今この瞬間だけのことを想って生きることができるというのは、きっと幸せなことよ。明日死ぬかもしれない不安に怯えることなく、衣食住が最低限保証された平和なこの国で、大量消費の娯楽を均一に享受して、なんとなく一生を終える人だってきっと多いことでしょう」

 その言葉には、棘があった。そう語る先輩の眼には明確な反抗の意志が、見て取れた。

「でも、私はそうありたくはない。その環境に甘んじたくはない。だって、それって果たして生きていると言えるのかしら。それはきっと、無意識に〝生かされている〟だけよ。自分の人生すら気づかぬうちに誰かに誘導されているなんて、吐き気がするわ」

 毒を吐くように、呟く。その眼に宿る鋭さが、意志の強さを物語る。

「型に嵌められていく人間。均一化された娯楽、価値観、人生の流れ、いい大学に入って、いい仕事に就き、家族を幸せにする。……作り上げられた価値観に、人々は縛られている。――それはある意味で〝自殺〟なのかもしれないわ。気づかぬうちに殺す〝自己〟、毎日のように何処かの誰かの心は死んでいる」

 目を瞑って一息ついた先輩は、ぱっと表情を切り替えて、さらに続ける。

「さて、そんな死を想わないこの時代。しかし反対に、死が簡単にコンテンツになるような時代でもあるのよね。自殺配信やリスカ跡のアップロード……自殺、自傷行為が一種の娯楽として享受されている部分がある。フィクションであるならまだしも、そこには実際に自殺したり、自らの身体に傷を負わせている生身の人間がいるというのに、画面の先ではフィクションと大差ない刺激にしかならない、一種の乖離が発生している。

 もちろん、インターネットがそれを可視化させるようになっただけで、人間の無邪気な残酷さというものがここ数年になって初めて発露したというわけではないわ。晒し首や公開処刑なんかは一種見せ物だったという歴史もある。それは犯罪の抑制と共に、どこかストレス発散のようなシステムとしても機能していた可能性は否めないはずなの」

「……なるほどなぁ……」

 時折メモを取りながら、深く考え込む沈黙が流れたりする。これはこれで――意外と楽しいというか、考えさせられる。

 ヒトは死を忘れる生き物だ。死だけではなく、いろんなことを忘れていく生き物だ。それは当たり前のことであって、責められるようなことでもない。けれど、だからといって意識しないこととは違う。時折振り返ること、思い出すこと、それは現在の自分自身の立ち振る舞いや考え方をはっきりさせるために大切なこと。或いは今生きる世界の現状を見つめ直すこと。死を想うことで、生が見える。唯先輩が言うそれは、確かなことで、それ以上に、たくさんのことを、考えさせてくれるものなのかもしれない。

「思い出話をしましょうか」

 唯先輩が声のトーンを変える。雑談をする時のような気楽さで、話し始める。

「高一になりたての頃、私は倫理の授業担当だった社会科の教師に質問をしに行ったの。『どうして人々は死について考えないんでしょう』って。その疑問から始まって、当時考えていたことを矢継ぎ早に質問した覚えがあるわ。そしたらその教師、なんて言ったと思う? 少し返答に困ったように言葉を濁した後、半笑いでこう言ったの、『何か悩みでもあるのか? 友達とでも遊んで気分を紛らわすといい。君はまだそんなこと考えなくていい、今を楽しみなさい』って。職員室で思わず憤ってしまったわ。ふざけるな、死を想うことは病気か何かとでも言いたいのか、あんたが答えられないだけのくせに誤魔化すんじゃない、って。そしたらその教師も怒り出しちゃってね。『若いくせに死がどうのこうの物申すなんて偉そうだ』って。じゃあいつになったらそうしていいのよ。セックスや恋愛とは違うのよ。死を想うのに年齢なんて関係あるのかしら。死ぬ間際に振り返るように死を想って勝手に自己完結する、そんなんじゃ意味ないのよ。そりゃあ経験や思考の深みは年齢と共に少しずつ増していくものではあるんでしょうけど、そうじゃないでしょう? 私たちはもの思うことができる生き物なの。食べて寝て、楽しいだけだなんて、いくら学生だからってそんな存在でいるのは私はご免よ。それじゃあただの動物じゃない。ああ……思い出したらまた腹が立ってきたわ。言えばいいじゃない、分からないなら分からないって。大人ってああやって、自分のプライドの為に立場が危うくなると逃げようとするのよね」

「唯先輩、ほんと強かですよね……」

「本来すぐ隣にあるもののはずなのに、どうして死を想うことは後ろめたいだなんて考えが、あるのかしら。自らの生について考えることは不思議なことじゃない、当たり前のことのはずよ。死を勝手に悲惨なものとして扱う。人は存外あっけなく死ぬ生き物だってことを、理解してないのかしたくないのか……」

「……ぶっちゃけた話、残念なことに多分先輩の方が例外なんですよ」

「例外」

 その何気なく口から出た言葉に、唯先輩は神妙な顔つきになる。もしかして、俺、失礼なこと言っちゃった?

「例外者! そう、例外者たるには、その普通に、常識に、疑問を抱き続けなければならないのよ。不断の努力を貫くの。だから私は、これでいいのよ」

「れ、例外者?」

 唯先輩は無言で、本棚から取り出したキェルケゴール著『死に至る病』を俺に押し付ける。また難解そうな本ですね……。

「先輩、哲学とかお好きなんですか」

「哲学……、そうね、好きかと言われたら、嫌いではないけれど、結局、大切なのは実生活に生きる思索だと、思っているわ。『生活されるような思索だけが価値を持つのだ』――ヘッセのデミアンよ」

 唯先輩、実はあなたも相当に、文学がお好きなのでは?

「自殺、それから死生学や実存主義に関係するようなものも読んできたけれど、地に足がつかない感覚を抱くことが多々あるわ。ショーペンハウエルが、死の目の前で苦悩する中高生を救えると思えるかしら」

「ショーペンハウエル?」

「つまりは、哲学者の言葉が、十代の少年少女を実践レベルで救ってくれるのか、って話」

「うーん、そうですね……」

「おそらく、成人したくらいの人間なら、学を深め、様々な経験をしてきたことによって抽象的、形而上的な文章からその人なりの真理を読み解いて、人生に生かしたりできるのかもしれない。或いは、その偉大な先人たちの言葉を若者にも分かりやすく噛み砕いて説明してくれる仲介者のようなもの、例えばそれは漫画や小説でもいいわ、そんな媒介があったとしたならば、確かに中高生もそれによって大きな気づきを得ることができるのかもしれない。

 ――でも、例えば、死にたがりの少年が、青い空の綺麗さに、好きな歌に心動かされて、もう一日生きてみようかなってふと思えること、それって、哲学がどうこうって話じゃないと思うのよね。私にはそれこそが、どこまでもシンプルで何よりも人間にとって本質的なものだと思うのよね。

 確かに哲学は、何故生きるのかという人間存在そのものについて語っている。それは究極的には必要なもの。決して無関係でも無駄でもない。でも今は、もう少し地に足のついた状況の中で考えていきたい。背伸びして衒学的に気取ったりせず、哲学のその始まりにあるような素朴さで、まずは自分の経験則から、寄り添ってみたい。その中で少しずつ学を深めていくことは、間違いじゃないでしょう。思弁的には、あまりなりたくないわ」

 そもそも実存主義はキリスト世界が前提にあるのだから、いまいち日本人には理解できないところもあるのでは? などといまいち俺には理解できないことを呟きながら、なんとなく部室を歩き回る唯先輩は、窓枠に腰を預けて、そうしてまた長々と、楽しそうに語り続ける。


「――今日もいい議論ができたわ。でもまだまだ勉強不足ね、精進を続けましょう」

 唯先輩との『自殺部』の日々、勧誘のインパクトに比べると存外堅実な部活であることを思わされる毎日である。

 けれども……。

 さて、これから話すのは、そんな部活をよりアクティヴに、エキセントリックに革命していく「三人目」のお話だったりして――――

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