水曜午後四時頃、都内マンションの中庭で女児二人が倒れているのが発見された。女児はマンションの住人の通報により病院に緊急搬送され、現在治療中である。マンション九階の踊り場には遺書のような紙と揃えられた靴が二人分残されており、警視庁は二人が飛び降り自殺を図ったものとして調査を進めている。

 警察などの話では、搬送されたのはこのマンションに住む小学校六年の女子児童二人(共に十二歳)。二人は同じ学校のクラスメイトであり、普段から仲の良い姿が近隣住民からも目撃されていた。教育委員会は「いじめなど、特別の対応が必要な問題を抱えていた児童ではない」と説明している――――――――


     *


 木曜日。今日の部室の雰囲気は昨日までとは違い、どこか緊張感のある、ぴりりとした空気が張り詰めていた。腕を組み、俯いて静かに何かを思案している唯先輩。沈黙を貫くその態度が、昨日のニュースを受けてのものだということは容易に想像することができた。

 俺は静かに定位置にあるパイプ椅子に座り、黙り込んでいる唯先輩を横目でちらりと伺う。

「……ニュース、見ましたか」

 居心地の悪い沈黙に耐えきれなくなった俺は恐る恐る、そんな言葉をかける。

「ええ。報道時点で判明していたこともそれなりに調べたわ」

 その返答は、いつもの快活な語り口調ではない。低く、真剣味のあるトーン。

「……飛び降り自殺については、個人的な思い入れもあるからまだ話すつもりではなかったのだけれど」

 少しの躊躇いを交えて、先輩は話し始める。

「やっぱり、何かを言葉にしたくなってしまう。抑えられない何かが、心の奥底から、どうしようもなく溢れてくるの」

 辛辣な表情で、唯先輩は顔を上げた。

「それは哀しみかと言われたら、きっとそうとは言い切れない。憐れみ、憤り、それらとも違う。知らない誰かの死を知った時のあの何とも言えない感覚。一言では言い表せない、漠然としていて、曖昧な、……虚無感、に近いのかしら。そんな一種の喪失感に私は、言葉にすることでなにか、折り合いのようなものをつけたいのかもしれない。何かがどうなるわけでもない、ただ、自分自身のために、言葉にしておきたい――」

 自らの心情にさえ、適当な言葉を当てはめることができないその感覚。それが死を想う時に抱く気持ちと似ているという言葉には、漠然とではあるけれど共感できる部分があった。

「……飛び降りも、ある意味ではパフォーマンス的な要素を含む死に方だと言える。けれどそれは焼身のような政治的、宗教的、信条的なものではなく、なんというかもっとこう……『私は此処にいた』ということを、世界に自分がいたということを、突きつけるかのような、そんな行為だと、思うのよ」

「私は、此処にいた……」

「ええ。勿論、全ての死がそうであるとは思わないし、飛び降り以外の死に方であっても、『私はこんなに苦しんでいた、悩んでいた』ということを誰かに、その命を以て突きつけるということはあるはずだわ。例えば遺書だとか、揃えて残す靴だとか――まあ、揃えた靴っていうのはドラマなんかの表現が逆輸入的に使われるようになっただけだと言われているけれど、とにかくそれらは結局、自分がこの世にいたということを遺すために取られた行為であると、私は考えたい。それは統計的な事実ではないし、何故そのような行動を取ったのですかなんて死者に訊けるはずもないけれど……。

『私は此処にいる』――全ての人間が、大なり小なり持ち合わせているであろう本質的な想い。承認欲求でも、自己顕示欲でも、愛を乞う切実な叫びであっても、両親でも友人でも意中の相手でも、遍く他者との関わり合いの中にあるであろう想い。悲しみから、絶望から、死を望む者が、より強力に、意識的にでも無意識的にでも発するであろうサイン。『気づいてくれ』『助けてくれ』などという言葉よりももっともっと深くて、尊くて、根源的なもの」

 そして一息ついて、ぽつりと、先輩は言う――

「でも、私は此処にいる、って、生きていたって証明できるの」

 思い詰めるように、虚空を見つめる唯先輩。どんな言葉も、添え物にすらならなそうで、今言葉を発することは、無粋で、野暮だと、そんな気がした。

「飛び降り自殺は、行為としてとても手軽に行うことができる死に方で、ポピュラーな自殺方法のひとつだわ。十分に高い場所を探して、そこから飛ぶだけ。一瞬でこの世界からおさらばできる。地面に到達して必ずしも即死できるわけではなく、場合によっては苦しみの中で死んでいく場合もあると言うけれど、それでも、その手堅さから選ぶ人は多い。またかなりの突発性を内包しているとも言われている」

 突発性、一言そう区切った唯先輩は何か思い出したかのように言葉を続ける。

「そもそも自殺行為には突発性があるのだと、言っていたのはカミュだったかしら。中国の学校で、少年が授業中突然窓の外に飛び降りたという有名な事件がある。勉強に対する苦痛から、など理由は様々語られているけれど、本当のことは定かになっていない。ここで注目したいのはその突発性。前々からいつか飛んでやろうと計画していたとはなかなか考えられにくい状況、やはり人を死や逃避に駆り立ててしまうその引き金は、積み重なった条件を前提に、何かのきっかけで突発的、発作的に引かれてしまうものなのでしょう。それだけに、冷静になれば後悔してしまうような行動で、その後悔もできずに命を落としてしまうこともある」

「……その突発性と、その身ひとつで死に向かえる飛び降りや飛び込みは、相性がいいんですかね。相性、だなんて、そんな言い方、よくないかもしれないですけど……」

「ある面ではその関連性を主張することはできるはずだわ。いいことを言うわね」

「あ、えっと、ありがとうございます?」

「……加えて、〝空を落ちていく〟飛び降りには、どこか神聖なイメージが付いて回る。それもまた、多くの人が飛び降りに惹かれてしまう心理のひとつなのかもしれないわ。確かにある種の美しさがあると思うの。羽のない人間が空を飛べるから、なんて言うと詩的にもなるけれどね。飛び降りによって前世を呼び覚ますと、転生を望んだ少女が儀式的に採用する方法であったり、――様々な創作の影響もあるにしろ、一部に飛び降り自殺をそのように捉えている人間がいると言うのも確かなことよ」

「神聖さ、ですか」

「例えばそう、松任谷由実の『ひこうき雲』に、肯定の価値観が大いにあることは否めないでしょう。あの曲は、死を乗り越える語り手側の力強さの唄でもあるのでしょうけど、自殺はいけない、などということを歌っているわけではない。むしろ死にゆくその映像を美しく想像している。これは首吊りや電車の飛び込みならばなかなか有り得ないと思うの」

「なるほど、確かに。青空に向かって飛ぶ、って何だか絵になるというのはありますね」

「天空への憧憬は何も飛び降りに限らないし、創作物など、そもそも死自体が神聖さと結び付けられることは多々あって、親和性は高いのかもしれないわね。往々にして、死んで永遠になるって考えもあったりするし」

「意識して考えてみるといろいろな要素が絡んでいるものなんですね、自殺って……」

「そうよ。その通りなのよ。大切なことは全部自殺が教えてくれるわ」

「も、ものすごい言い切りですね」

「カミュが言ったわ。真に重大な哲学上の問題は自殺なのだ、ってね」

 そうして、しばしの沈黙。ややあって顔を上げた唯先輩は、ぽつりと呟く。

「ただ――……どんな言葉を並べても、ただただ虚しいわ」

「……そう、ですね」

「小学生、小学生よ。これからいくらでも世界が拡がっていくその前に、そんな選択肢、早計すぎるのよ」

 零したその言葉は弱々しく、どうしようもない無力さを纏っていた。

 唇を噛むその仕草が、見ず知らずの誰かの死を切実に想うその姿勢が、言葉にし切れない気持ちを湧き上がらせる。それは恰好良いとも違う、偉大とも違う……――

 そう、真摯、例えばそれは、真摯。真摯さ。真っ直ぐに、清らかに、何かを想うこと、余程の意志と、想いと、覚悟がなければ、どんなことに対しても決して浮かばない言葉。

 そんな先輩に、少しだけ、尊敬に似た気持ちを、初めて抱いた。

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