水曜日の昼休み。五限の移動教室のために少し早めに教室を出て、廊下を目的地へ向かっていると、前方より女子生徒集団の襲来。俺は壁際に寄る。人数は四人、上靴の色からして二年生。楽しそうに笑い合う姿はイマドキのジョシコーセー。

 と、近づいてきたその集団の中には唯先輩がいた。

 唯先輩、あんな立ち振る舞いでもちゃんと友達とかいるんだなぁ――なんて感心していると、唯先輩はこちらの存在に気づいたようだ。

「あら、和海くんこんにちは。今日も部室集合だから忘れずに」

 事もあろうにわざわざ立ち止まって、俺に声をかける先輩。周りの先輩女子たちはみな会話を止め、目を丸くした。

「きょ、拒否権は」

「ないわ。それじゃあ」

 そうして立ち去ってゆく唯先輩に、すぐさま他の女子たちが駆け寄る。

「なになにー、彼氏⁉」「唯もそーゆーのあるんだ!」「違うわよ、部活の後輩」

 詰め寄られている先輩。なんだか不思議な光景だと思った。

「結構地味めだねー」

 ……おい、誰だ地味って言ったの。


     *


 死にたい、でも死ねない。変わり映えのない日常の中で抱いては霞む想い。生きている意味なんてあるのか。何もかもがくだらない。そんな色褪せた日々を無気力に、ぼんやりと過ごしていた主人公はある日、校内のどこかで活動しているという『自殺部』の噂を耳にする。

『――なんでも、その部活は一緒に自殺してくれる仲間を探しているんだって』

 物騒な話だと思いつつも、少しだけその部活に心惹かれていた主人公。ある日の帰り道、廃ビルの屋上に立つ少女を見つけた主人公は、なんとなくそのビルの階段を昇り、彼女と出会う。

「死に場所探し」

 屋上の縁に立ち、真っ赤に染まる街並みを見つめたまま、少女はそう言った。詳しく聞くと彼女は同じ高校の同じ学年の生徒だった。

 ――そして何より、自殺部の部長であった。

 主人公はなりゆきで自殺部に入部する。学校の敷地の端にある倉庫を許可なく活動場所にしている自殺部には既に何人かの部員がいた。リストカット常習者の少女、クスリが足りなくなった時だけ、大量貯蔵された〝部室〟に追加をもらいにやってくる少女、首絞めで落ちることに快感を覚えている少女など、個性的で退廃的なメンバーが揃っている。そんな空気に中てられた主人公も次第に厭世的に、何もかもがどうでもよくなっていく。目先の小さな快楽に溺れ、ずぶずぶと自殺部という空間に酔っていく。

 十代だけの閉鎖的なコミュニティ、その中で皆は少しずつ暗示にかかっていく。集団催眠のような状態になったまま、遂に自殺部の意志はひとつになる。

『みんなで一緒に、死のう』


「……最終回、遂に『最高の死に場所』を見つけた自殺部員たちは横並びで手を繋いで、屋上から青空に向かって笑いながら飛ぶ! アオリ文は『自殺部の来世にご期待ください!』――人生終了がそのまま物語の幕引き、謂うなれば人生強制打ち切りEND。自殺部ってタイトルに相応しい終幕じゃあないですか!」


『死を想え』

 その威厳ある部訓は今日も、壁の額縁で厳粛に部の活動を見守っている。

 月曜の突然の勧誘劇から早くも二日。今日も放課後唯先輩はやってきて、ボクをさらっていきました。昼休みのあの穏やかな先輩は一体何処へ?

 ちなみに例の部訓を書いたのは唯先輩だ。書道有段らしいその腕前はなかなかのもので、詳しく聞くと実は先輩、ちゃっかり書道部との兼部だという。そんな先輩が書いたこの部訓、扉を開けると真っ先に目に飛び込んでくるものだから迫力も二割増しだ。


「――なんて……自殺部って、なんかこんなイメージありません?」

 何気ない雑談。自殺部という単語から何となく連想した物語なんか話してみたら、唯先輩は眉間に皺を寄せ大きな溜め息をついた。

「……どうにも、想像力ってのは確かにそういうものなのでしょうね。死にたがり同士が生温く傷を舐め合うだけの部活? そんなのは連載二話目で更新が止まって完結しないウェブ小説にでもやらせておけばいいわ」

 なんとも皮肉めいた言い方で語気強く返す先輩。敵意剥き出し……。

 目を瞑り、腕組みをして、しばらく何か考え込んでから、やがて先輩はそのままの姿勢で口を開く。

「私は死をエンターテイメントにすること自体に対して異論はないわ。むしろもっとあってもいいと思っているくらい。でも、自殺をファッション感覚で物語のテーマにすることに関しては、どうにも納得いかない部分があるの。それでいて結末が自殺と何の関係もなかったらもっと許せない。何故だか無性に腹が立つのよね。あのサブカルぶってる感じが気に食わないわ。和海くん、次そんな陳腐なストーリー口にしたら蹴り入れるからね」

「……何か、明確に恨む対象でもお有りで?」

 その疑問に返事はなく、代わりに先輩は右の眉を小さく吊り上げた。

「私が敢えて自殺部という名前を選んだのも、そういう安直さに対する一種の反抗心があるからよ。そもそも……何よ集団自殺って。そうやって死んでいった人には申し訳ないけど、センスがないわ。プライドがないわ。意志が見えない。覚悟が見えない。最低でも心中にしてほしいものね」

 先ほどの憤りを引き継いで、唯先輩は毒を吐く。ちょっと毒気が強すぎる気もするけど……。

「誰かと一緒なら死ねる、なんて、結局死ぬのが怖いんじゃない。迷いがあるんじゃない。覚悟がないのなら死のうとなんてするものじゃないわ。二日酔い的に死へと向かって、死んでしまったらその後悔だってできないのよ?」

「そう、ですね、それは確かに……」

「集団の空気は、個人の判断を、意志を、揺らがせてしまう。お互いの傷を理解し前向きに支え合っていくのならばいいけれど、何を間違うかみんなで死にましょうだなんて、倒錯にも程があるわ。孤独にもなれず仮初めの繋がりに溺れて、それじゃあ解決になんか向かわないわよ。そうやって二千年代初頭、ネットを介して集まった人々の集団自殺が大きな話題になったことが何度かあったわね」

 曰く、自殺サイトなんていう物騒なものが流行った時期があったのだという。『完全自殺マニュアル』の影響なのか、ネットの普及に合わせて、自殺の方法が書かれたサイトなども次々に誕生していったらしい。恐るべし、完自。

「ただひとつ、集団自殺でも面白みがあるのはカルト集団の場合よね。あれは集団心理の狂気を大いに孕んでいて研究しがいがあるわ。世紀末思想とも絡んでいる事件が多いのはやっぱり時代性なのかしらね。『ガイアナ人民寺院の悲劇』、今度上映会しましょう。

 ちなみに集団自殺をすると言われている動物レミング、あの伝説はガセよ。アメリカの某有名会社がフィクションのドキュメンタリーを制作したのがきっかけで広まった噂話なの。でもレミング神話にまつわる歴史的考察には面白いものがあるから、いつか話をしたいと思うわ」

 本当に矢継ぎ早に、口から言葉が溢れてくるのだなぁなんて感心しつつ、ふと浮かぶ純粋な疑問がひとつ。

「……先輩は、自殺はいけないことだって、思いますか?」

 そもそも、だ。自殺部という部活名である以上、唯先輩は自殺に対する考え方のようなものがしっかりあるのだろう。唯先輩は言葉を選ぶように真剣な表情でしばし押し黙る。

「……そうね、私は頭ごなしに自殺はよくない、とは言いたくないわ」

 ややあって返される返事。その言葉はどこまでも率直で、世間体を気にするような曖昧さや飾り気は一切ない。

「自殺による諸々の損害というものは多くある。残された人たちの精神や、経済にも、一定の傷を負わせる。ひとりの自殺者につき最低でも平均六人、周りにいた人々は深刻な影響を受けるというし、アパートの部屋で自殺が行われれば、その部屋の資産価値は下がる。ホテルの部屋なんか風評被害から売り上げにも響くでしょう。電車に飛び込んで遅延が起きれば、発生する諸々の経済損失だって時として計り知れないものになるかもしれない。……それでも、死んでしまえば当人にとっては関係のないこと。生き苦しい現世から後腐れを感じることすらなくさよならできる。それはそれで、当人の側に立ったら頭ごなしに否定できるものでもないじゃない?」

「そう言われてしまえば、確かにそうかもと思えなくもないですけど……」

「『死んだら他人に迷惑がかかる』なんて言うけれど、生きていたって迷惑をかける時はかけるわ。悪びれもなく綺麗な言葉を並べようとする、そんな世間様に対する反抗意識があるから、こんな風に言えてしまうのかもしれないけれど、自殺が命を粗末にすることだとは、私は必ずしも思えない。自ら死を選んだその意志の事も、尊重されるべきであると思う。病や事故で死ぬのは仕方なくて、自ら選択する死はそうじゃないのかと、疑問を抱くことは多々あるわ」

 少しずつ言葉に熱が乗っていく唯先輩。暴論に聞こえるようで、不思議と納得させられてしまうような気がするのは、どうしてだろう。

「『今は辛くてもいつかきっと楽しいと思える日が来る』『生きていれば必ずその苦しみは終わる』『死んだら悲しむ人がいるだろう』……――勿論、世間一般に綺麗事と言われがちな言葉にも真実はあると思う。その言葉通りに生き方や価値観を変えることができた人がいて、そんな人たちの心の底から湧き出る飾らない言葉だってあるとは思う。

 でも、そんなありふれた言葉で自殺志願者を屋上から、駅のホームから、引き留められるのならば、『命大事に』の一言で済むならば、きっとこの世界に自殺なんてないわよ」

 指先をくるくると弄びながら、至って真剣に、けれどどこか楽しそうに、唯先輩は続ける。

「妄信するのは危うけれど、生を美しいものだとすること、それに対して異論はない。ただ、その価値観を以て、死は美しい生の反対にあるとして醜いものだと決めつけるのは、少々傲慢が過ぎると思うわ」

「傲慢、ですか」

「どれだけ苦しくとも、普通の生活ができなくとも、それでも生きていなきゃならないほど人の生は美しいと思うのは傲慢じゃないのかしら。人間だってただの動物なのよ。長生きすることが必ずしも幸福には思えないように、この医療の発達した平和な社会で、人の尊厳なるものが、どこか宙吊りになっているように思える瞬間が多々あるわ」

 過剰な延命は果たして幸福に繋がるのか。人の尊厳を尊重していることになるのか。死について大きな関心を持ってこなかった自分でも、それなりに耳にしたことのあるものだったけれど、唯先輩の『傲慢』という言葉には、何か突きつけられるものがあった。

「日本にはそもそも、自死を許容する価値観があった。それこそ切腹や特攻など、自殺を一種の美学とするようなところもある。『責任とって死ね』って言葉、結構何気なく耳にするけれど、それって結構日本人の血に流れる価値観だと思うの。もちろん今挙げたそれらは尊厳死のニュアンスとは少し離れたものだけど、自発的に行われる自死には、やはり感銘を受けるような何かがあるという側面も、否定はできない。『厳頭之感』を書き遺して華厳の滝に飛び込んだ藤村操なんか『哲学的死だ』と多くの人々から肯定的な評価をされたし、模倣自殺だって相次いだわ。愛する妻や夫を追って死ぬことが美しいとされることもある。死が美しさを抱かせるというのは日本に限ったことでは決してないはずだけれども、非常に特異なものがあるのは確かだと思うわね」

「民族性、ってやつなんですかね?」

「民族性……そうね、日本の自殺にはやはり『恥』と切っても切り離せない関係性があると思うわ。それは民族性と呼べるのかもしれない。『責任を取って死ね』という言葉、そこには『大失態を犯したのに生き続けているなんて〝恥ずかしい〟』という想いが含まれているような気がするし、ハラキリもカミカゼも、その恥と結びついている部分がきっとある。自己犠牲という価値観も――それこそ宮沢賢治の文学に垣間見えたりするように、時に美化されることもある」

「恥の多い生涯を送って来ました……かぁ」

 なんとなく思い出した大好きな小説の、有名なその書き出し。恥。人間失格の主人公大庭葉蔵は、自らの生涯を恥の多いものだったと回顧するのだ。

「日本人は自殺について、いろんな意味で好奇の目を向けていると思う。好奇。やはり海外の人から見ると『自殺方法のマニュアルがある』という日本は異質に映るらしいのだけれど、当の日本人からしたら、そういう本があってもおかしくはない、という受け入れの土壌がある気がするのよね。自殺大国だなんて言われたりもするけれど、世界から見ても独特の性質を持っているのかもしれないわ」

「年間自殺者三万人、なんてたまに耳にしたりしますもんね。それがどの程度のものかは分かりませんけど」

「自殺者数を国単位で比較すれば、日本は上位二十カ国圏内に入る程度で、同じアジアで比べたらお隣韓国の方が圧倒的に深刻だわ。ただ、やはりこの国にはこの国だけの問題が、必ずあるのだと思うの」

「この国だけの問題、ですか」

「ええ。日本の自殺を追う上で、歴史的な部分も避けては通れないはずだわ……。

〝穢れ〟という概念はあれど、日本神話の『黄泉の国』は、死に対して善か悪かという判断を下しはしない。そして中世、『いろは歌』や『諸行無常』という言葉に見られる仏教的な無常観の中で、現代にも伝わる日本文学は描かれた。古くから桜を愛するなど、移ろいゆくものの儚さに美を見出す日本人には、仏教やキリスト教的価値観とはまた違った、独特の生との向き合い方があるのだと思うの」

 外が暗くなってきたため、唯先輩は立ち上がり部室の電気をつけた。そのまま長机の周りをなんとなく歩き回りながら、腕を組んで何やら考え込む先輩。

「状況的にどう考えても死ぬ方がマシ、という人が死にたがっているとして、それでも人は止めるかしら。いえ、ほとんどの人間はその場に直面したら止める筈だわ。自殺幇助になりたくないなんて理由もあるのだろうけど、何かこうもっと、直感的に、それって駄目だ、って思うはずなの。じゃあ何が駄目なのか。それは教育の故の意志なのだろうか。自殺が罪、だと誰が決めたのだろう。どうして人は自殺してはいけないと言うのだろう。もちろん、いろんな理由はある。残された人が悲しむだとか、実害を被る人がいるだとか。でもそういうのを抜きにして、苦しみや虚無や不安から逃れるための方法に死があっていけないのかしらね。ショウペンハウエル『自殺について』曰く、旧約聖書にも新約聖書にも、自殺を犯罪だとする記述はなく、それでもキリスト教徒は自殺を罪だとして悪としたのだというわ。プリニウスの『生命はどんな犠牲を払ってでも延ばしたいと思えるほど愛著されるものではない』や『人間には苦難に充ちた人生の最上の賜物として自殺の能力がある』などの引用が印象的よね」

 唯先輩は本棚の前で立ち止まって一冊の文庫本を手に取り、こちらへ向ける。――『自殺について 他四篇』。ショウペンハウエル著。特徴的な表紙レイアウトはお馴染み岩波文庫。

「とは言え、ショウペンハウエルは自殺擁護者では決してないわ。自殺は愚かしいものだと謳い、実存主義の先駆だと多くの哲学者に影響を与えているのよ」

 きらりと輝く瞳。が、その瞳は、俺の呆けた顔を見たことで冷めたようで、唇をちょっと尖らせて席に着いた先輩。

「なんだか随分と話が広がってしまったけれど、最初に言った通り、私は自殺そのものを否定しないという立場に立つわ」

 次々と展開していく話題に夢中になってしまっていた俺は、唯先輩のその言葉でそもそも自分の質問から始まったのだということをはっと思い出した。

「……じゃあ、先輩は、屋上で飛び降りる直前の人間にたまたま出くわしたとしたら、なんて声をかけますか?」

 俺はそのままの流れで、またふと思いついた質問を先輩に投げる。

「簡単に言うわね……。そうね、その自殺志願者がどんな境遇を生きた上で死のうとしているのか判らない以上は、なんと言ったらいいか判断しかねるわ」

「じゃあ、例えば、いじめを苦に自殺する中学生とか」

「…………」

 その何気ない状況設定に、唯先輩の表情はふと、何かを思い詰めるように真剣なものへと変わった。小さな沈黙を挟んで、どことなく空気が変わって――――


「…………本当に逃げ場所は、其処にしかないの?」


 その言葉はまるで、本当に誰かに投げかけるかのように、切実で、想いの籠ったものだった。予想していなかったその重みに、俺は思わず閉口する。

「私は、いくらでも、どこまでも、逃げていいと思う。逃げるっていうことのその全てが、後ろめたいことじゃないと思う。もし今目の前にある環境に、状況に、どうしても耐えられなくなった時には、私は逃げていいと思うの。その逃げは、前向きな逃避。そうして逃げたその場所で、抗って、反撃するための、或いはまさに、生きてゆくための力を蓄える。逃げる、とは身を守るための選択」

 逃げていい。その言葉は、どこか新鮮に響いた。これまでの人生で、こんな風に言う人に出会ったことはなかった。

「例えば、続く連戦でヒットポイントがほとんど残っていない時エンカウントする強敵、ステータスの足りない状態で挑まなければならないボス戦、誰だって逃げるでしょう。街に戻って、宿屋に泊るでしょう。武器屋に入って、強い武器を買うでしょう。街の周りで、安全に経験値を貯めるでしょう。その時選択する〝逃げ〟コマンドは、例え字面がそうであっても、それは逃げじゃないはずよ」

 脳内に浮かぶのは、幼い頃から親しんだRPGの画面。

「人生もきっと、それと同じ。苦しい時に選ぶ逃げのコマンド、そこにはさらに選択肢が無数にあって、その中のひとつに、命を終わらせるって選択肢がある。ある、だけ。必ずしもそれを選ぶ必要なんてない。引き籠ったって、家出したって、仕事辞めたって、何だっていい。大切なのは、反撃するための力を蓄えること。生き抜く力を蓄えること。それは別に、いじめっ子を殴り返すとか、そういうことじゃない。その苦しみを僅かでも跳ね除ける、そういう力」

 言い切って、それからしばらく黙った後、小さく言葉を繋げる。

「……でも、死んでしまったらその反撃はできないの」

 反撃――。半ば惹き込まれるような形で、俺はただ聞く。

 唯先輩のその考えを、もっと知りたいと、思った。

「逃げる方法って、きっとたくさんある。でも、その選択肢の多さに気づくことのできない年頃には、死なんていう選択肢が絶対のように見えてしまう。その逃避の可能性を拓くのは、もちろん結局はその人自身の〝気づき〟に拠ってしまうけれど、周りの人々や社会がその手助けをすることは絶対に可能なはず……なんて、もちろん単純な話ではないと思うけれど、十代に言葉を投げかけるとしたら、そういう感じじゃないかしら」

 唯先輩は椅子から立ち上がり、鉄製のくすんだ棚から『完全自殺マニュアル』を手に取った。

「死を選択肢のひとつにしておくことで心を楽にする、これは完全自殺マニュアルの主張だけれど、それってつまり逃げ道を明確にしておくってことよね。やっぱり、逃げ道があるということは大切なのよ。けれど、逃げることは後ろめたいことだという価値観が、或いはまさに『恥』の血が、残念ながらそれを阻害してしまっている。再起が難しいという社会の仕組みもまた、それに拍車をかけてもいるのかもしれない。多くの人が心の何処かで世界の終わりを望んだという世紀末、この本がそんな価値観の檻に風穴を開けたのは確かなことなんじゃないかしら」

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