四
金曜日。なんだかんだ結局毎日、部活という名の自殺講習が続いた。毎日部活をするって、こんなに大変なことだっただろうか。中学の時は一応運動部に入っていたけれど、それとはまた違った疲労感がある。疲労感。普段しない思考に頭を使ったからだろうか。
「今日は――」
唯先輩は、一昨日の事件を引きずっているだろうか。どことなく無理していつも通りを演じているような気もするけど、それは思い違いかもしれない。
誰かの死をしっかり想うことができること、それって素晴らしいことだと思うけれど、でも、自分に直接関係ないことなのに、思い詰めすぎるのもよくないよなとも思う。そんなんじゃ、いつか精神をやられてしまうかもしれない。
「そうね、有名なウェルテル効果についてでも話しましょうかね。たまには文学少年くんの好きそうな話題にしてあげるわ」
「え」
唯先輩は一冊の文庫本を本棚から取り上げ、俺に尋ねる。
「『若きウェルテルの悩み』は読んだことある?」
「あ、ゲーテのですか? ないですけど……――なるほど、自殺、か」
まだ読んだことはなかったけれど、有名な作品だけあって、『ウェルテル』の主人公は最後に自殺するという展開だけは知っていた。
「そう。『ウェルテル』の主人公は叶わぬ恋に自殺を選ぶ。過程には彼を自殺に導いてゆく幾つかの象徴的なエピソードがあって、一人称の書簡形式で進んでいた物語には唐突に三人称視点の語り部が登場し、主人公ウェルテルが死んだことと、その理由についての説明がなされる。
眩しい輝きを放つ無垢な少女ロッテ、しかし彼女には許婚がいて、その許嫁は誰から見ても彼女に相応しい男であって、けれどそれでも抑えられない情動が彼の自意識を蝕んでゆく。一度の過ちを経て、思い詰めたウェルテルは遺書を残し、狂乱の中ピストルでこめかみを撃ち抜きその生涯を終える……。
『ウェルテル』が当時の若者を虜にした理由のひとつには、所謂シュトゥルム・ウント・ドラング――すなわち、それまでの理性的観念の抑圧から解放された、人間の感情、情念的な作品の、例えば『ウェルテル』ならばそれこそ、許婚がいる相手に恋をするというような、反道徳的とも言える行動が、革命的だとして当時の人々の胸を激しく揺さぶったからだと言われているわ。
そして、そんなウェルテルという悲劇の主人公に共感した若者たちが、彼と同じ方法で自殺を図ったことから、後追い自殺のことをウェルテル効果と呼ぶようになったってわけ。中にはウェルテルの衣装を模した格好で自殺した人もいるそうよ」
ホワイトボードに書き込まれる『ウェルテル効果』という言葉。どこかで聞いたような気もするけど、その由来まで聞いたのは初めてだ。シュトゥルム・ウント・ドラング……確か疾風怒濤とか言っただろうか。美術の授業なんかで習った覚えがあるけれど、まさか自殺というテーマにも絡んでくるものだとは思ってもいなかった。
「ま、そんな社会情勢と切り離したところで読んでも、この作品は現代でも多くの人に共感され得る普遍性を持つ名作ね。特に叶わぬ恋に焦がれた経験がある者なら、それこそ死にたくなるほど心掻き乱されることもあるでしょうね」
「……ゆ、唯先輩自身は、その共感というものをお持ちなのでしょうか」
「……残念ながら無いわね。如何せん色恋というものにいまいち関心を示せないわ」
「左様ですか……」
まぁ、唯先輩は自殺が恋人って感じがするもんな(失礼)。
にしても――青木和海には恋心がわからぬ。『ウェルテル』はこれから読むとして、俺の心にはどんな風に響くのだろうか。
「日本でも、後追い自殺に関係する有名な事件がいくつかあるわね。やはり大きく取り上げるべきは芸能人や有名人の死の後に続く自殺かしら。有名なロックバンドのメンバーの死や、人気アイドルの自殺の後には、次々と後を追って自殺した者がいたというわ。後追いという行為が、『死んでしまうほど哀しい』なのか『その人の元へ自分も行きたい』なのか、はたまたそれ以外なのかは様々でしょうけど、生き甲斐を失くしてしまったら途端に死を選びたくなってしまうような人が何人もいたということは、それだけ熱中されていた存在だったということなのね」
「なるほど。その人にとって本当に特別で大切な存在であったら、失った時には心が空っぽになってしまう、或いはもう突き抜けて、全て失ってしまったかのような錯覚に陥ってしまうことが、あったりするのかもしれませんね」
「また、海外では自殺は流行であるという検証結果も出ているの。メディアなどで自殺をセンセーショナルに扱った時などには自殺は増えるとされているわ。国内でも中学生のいじめを苦にした自殺に続いて、中学生が相次いで自殺したという期間もあったりして……自殺は案外、流行であったりもするというわけよ」
「流行……娯楽なんかと同じように、死でさえも周りに影響されてしまうものなんですかね」
「やっぱりそれにはメディアの影響力が大きくあるのでしょうね。メディアの自殺の扱い方というのはかなり改善されたらしく、私たちの世代ならその『センセーショナルさ』というのがどんな程度のものなのか、実感を掴みにくいかもしれないけれど、動画共有サイトなんかにアップされている十数年前のニュース映像なんか見ると、確かにセンセーショナルだなと感じられるものがいくつかあるわ。週刊誌なんかでは飛び降りた直後の遺体の写真をそのまま載せていたりしていたようだし、ニュースでも大きな見出し、目を引くフレーズをバンバン多用して、なんというか事をよりスリリングにしているような印象もあるわね。それが時代観なのかどうかまでは判断できないけど」
例えばほら、と唯先輩は自らのスマートフォンで動画を見せてくれた。有名アイドルの飛び降り自殺。その死を速報するバラエティ寄りのニュース番組。生々しさがあった。何か人間の醜さや、浅ましさを見せつけられているようで居た堪れない気持ちになった。
「厭世の感から『人生は不可解』と書き遺し滝壺に飛び込んだ青年藤村操は、当時の人々に衝撃を与え、同じ滝壺で百人単位の模倣自殺者を出したというわ。立身出世を美徳とする当時の価値観に気高く立ち向かったとされ、夏目漱石なんかに言及され話題になったの。これも有名な話ね」
「……すごいですね、それ」
「自殺を美化するな、センセーショナルに報道するなとは言うけれど、自分の惨めな人生が、或いは誇り高き人生が、死んで後に物語になったとしたら、それによって感銘を受ける誰かがいたとしたら、それはそれで悪いことではないって思わない? ウェルテルも、藤村操も、当時の価値観に反旗を翻し、人々が抱いていた社会からの抑圧に風穴を開けた。それに対し敬服し憧れる誰かがいるということは、不思議なことではないわよね」
「まぁ……死んだ後人々の心に何か遺せるというのは、カッコいいことだと思いますけど……世間に何かを表明するその方法が死である必要は、ないですよね」
「そう、その通りよ。確かに死を通した主張にはインパクトがあるけれど、『私が此処にいる』というその証明を、死でしか遺せないというのは悲しいことだわ。インターネットで中学生が、『自殺配信』をして伝説になるのだとマンションから飛び降りたとしても、その些細な伝説なんて、いずれ薄れていくの。人々に覚え続けていてもらうことなんて、よっぽどのことがなきゃ有り得ない。生きている間の功績があったからこそ、偉人たちは後世にも伝え継がれていく。死そのものが伝説になるなんて、今の世の中じゃほとんど現実味のない考えだわ。自らの経験を元に『ウェルテル』を書いたゲーテも、自殺はそれにより人間の偉大さを立証し得る者にのみその資格があると、ウェルテルの道を選びはしなかった。太宰治も、芥川龍之介も、三島由紀夫も、生前から知名度があったからこそ、死が話題になった。藤村操もある種夏目漱石や黒岩涙香などの知識人たちが話題に挙げたからこその知名度でしょうし」
唯先輩はそう言いながら、ホワイトボードに自殺した著名人の名を書き連ねていく。残念ながら分かるのは文学と歴史関係くらいだけれど、次々と挙がってゆくその名前に、なんとなくもの悲しい気持ちになったりした。
「そうそう、それに、あなたの大好きな太宰の心中の後にだって、後追い自殺は起きたのよ」
「え、そうなんですか」
「有名人の死というのはやはり衝撃を与えるものなのね。太宰だってきっと、心の何処かに常に敬愛する芥川の自殺があったのでしょう。人が自殺に至る理由は個々人それぞれ、これが決定打だと言い切れるものはなくて、いろんな要因が重なって発生するもの。その中に、見聞きした死というのは色濃くあると言われたりもするわ」
ホワイトボードに心中、と書き加えられた。
「心中。そうね、これもまた自殺のカテゴリに含まれるわけだし、ついでだから心中についても少しお話をしましょうか。心中にも流行があったのよ。それは少し前の時代、まだ自由な恋愛結婚なんてできなかった頃の話。来世で結ばれることを願い共に死んでいく男女はドラマティックなものとして多くの模倣を生んだ。中でも有名になったのは曽根崎心中。近松門左衛門の浄瑠璃に当時の若者は感化され、江戸幕府は原因となったとされる当作の上演や脚本の出版を禁止するに至ったと記録されているわね」
「幕府まで出てくるって……相当な規模だったんですかね」
「やっぱり国としてはこういう事象に関して、発禁して対応するという方法を取るくらいしかできないのかしら。『ウェルテル』も当時発禁になったというし、完自もやっぱり、その流れを汲むのかしらね」
「ん? カンジ?」
「完全自殺マニュアル。なに、まだ読んでないの?」
「え、あ、すいませんまだ……」
唯先輩はぼくを睨みつけています。こわいです。ふぅと一息吐き出して、目線を逸らしていただけました。
「にしても……、ドラマというか悲哀の美しさはあるけど、別に死ななくても駆け落ちしたらいいんじゃない? とは素朴に思ったりするわよね。だって逃げた先でお互い愛し合えるじゃない。死んだらそれもできないのよ。……ま、そもそも心中って、死後の世界や来世で結ばれるようにって行われる儀式だものね、それでいいのかしら」
死後の世界のことは私には解らないけど、と言いながら、ホワイトボードに心中ものの作品をいくらか書き込む唯先輩。
「しかし、本当によく知ってますね……」
「まだまだ足りないわ。精進あるのみね。――ところでそう、人間に大切なのは『知っていることしか知りません』という謙虚かつ正直な姿勢で精進していくことのような気がするのだけれど、どうかしら」
「うぉう、唐突ですね……まぁ、確かにその通りだと思います。ともすると知識の量が測られる場においては自分を大きく見せたりする感情が働きがちなものですしね」
「その通り。衒学的になってはいけない、というのは常に心に留めておくべきだわ。
さて、今日は金曜日ね。仮入部、どうだった? 入ってくれる気になった? その気ならもう今すぐにでも入部してくれていいわ。晴れて自殺部ナンバーツーよ」
「……いや、勝手に話を進めないでください。そんな期待されても困りますって……」
「まあ、あなたに拒否権なんてないようなものだから」
「だからその決定権を何で唯先輩が持っているんですか!」
「んー、敢えて言うならそうね……先輩だし? 部長だし?」
「理屈が通らない!」
「ま、とにかく土曜日曜でよく考えてみて頂戴。そして月曜日必ず部室に来ること」
「だからなんで入部する前提なんですか……」
反論など無視。今日の部活はここまで、と先輩は両手を軽く叩いて、なんとも強引な部活終了。正門まで一緒に向かったのちそれぞれの帰路についた。
*
「自殺部なぁ」
帰り道で独り言ちる。陽が沈むのもすっかり早くなった。淡く色の移ろってゆく空を見上げながら、緩やかな坂道を下っていく。高校から自宅へ向かう途中の坂道。丘の上にある高校から海沿いの街へと続く、大通り。買い物帰りの主婦や下校する学生たちが行き交う並木は和やかで、広がっているのは何気なく、でもどこか愛しい風景。
――唯先輩は、何故そこまで俺に拘るのだろう。どうして、自殺部なんて部活を作ったのだろう。いろんな疑問が、心の中で渦巻いている。数日前までこれっぽっちも意識することなんてなかった自殺という言葉。死という概念。それらに今まで出会った誰よりも真摯に向かい合う先輩。
「あ」
「え?」
信号待ち。隣に並んだ、同じ高校の知らない女子生徒が俺に声をかけてきた。
「キミ、この前唯に話しかけられてたコでしょ」
「え、あ……昼休みの」
「うん! そうそう」
その人は、先日の昼休みすれ違った、唯先輩の友人の中にいたひとりだった。
「えっと……どうもです」
「名前、なんて言うの?」
「え、あ、青木和海です」
「青木くんねー。ふふん、唯とはどういう関係なの?」
にやにやと、笑いながらそう尋ねてくる。どういう関係、か。難しいな。
「……そう、ですね、なんか部活に勧誘されたって感じで」
「へー、部活! 書道部ってこと?」
「あ、いや……」
まさか『自殺部』なんて部活名を出せるはずもない。何とか言葉を選んで誤魔化そう。
「なんというか、その、ディスカッション系の……」
「ふーん。ま、いっか。いやね、唯があんな風に自分から男の子と話してるなんてすっごいレアでね、私の友達とかもみーんな気になってたんだよ、キミのこと!」
「は、ははぁ、そうなんですか」
「唯ってさぁ、ちょっとお高い感じというか、近寄り難い空気出してるじゃない? 関わってみると気さくでしっかりしたコって分かるんだけどさ」
楽しそうに唯先輩のことをしゃべってくれる。唯先輩って好かれているんだなぁ。
「唯先輩って……どんな感じですか?」
「どんな感じって?」
「その、普段の振る舞いとか、性格とか」
「うーん、そうだなぁ。真面目だし勉強もできて、可愛くてオシャレで、社交的だしクラスのどんな子とも分け隔てなく会話できて、芯があって正義感に溢れてて……すごい子だよ。憧れちゃうなぁ。ま、たまに暴走しちゃうっていうか、ほら、なんか信念あるじゃん、唯って」
「……そうですね」
「自分なりの曲がらない意志がいつもちゃんとあって、その妥協点みたいなものがどの程度かってのは私には分かんないけど、どうしても認められないものがあったりする時は結構雰囲気変わるよねぇ」
……なるほど。とてもよく分かる気がします。
「一年生の時の国語の授業でね、授業の最初に先生が話す新聞記事の内容を聞いて、思ったことを小さな感想用紙に書いて提出する、みたいなのがあってね。先生曰く文章力や思考力を伸ばすためのちょっとしたトレーニングくらいに考えていたらしいんだけど、ある時その新聞の記事が自殺ついてだったの。そしたら唯、用意された小さな感想用紙なんて手も付けずに最初から自分の使ってるルーズリーフに感想……というかもはやあれはひとつの論? を書き始めて、回収の時間になっても書くのを止めずに、果ては授業中ずっと書き続けて、先生がさすがに注意したんだけど『これは授業なんかよりよっぽど大切なことです』って言い放って、そのまま結局ルーズリーフ十枚提出。あれは伝説の授業だったな~」
懐かしむように思い出話を語ってくれる唯先輩の友達。その言葉の節々には決して痛々しい人間を蔑むようなニュアンスはなく、大好きな友人の面白エピソードを話す時の愛に満ちていた。
なるほど、唯先輩にはちゃんと人望があるから、突飛な行動を取っても引かれたりしないんだな。意外だった。でも、納得もできた。
「唯先輩、愛されてるんですね」
「そうだね! 結構みんな唯のこと好きだと思うなぁ。ああいうカリスマっぽい部分を気に食わないって思ったり、嫉妬したりする子もいるみたいだけどねぇ。見た目もいいし。でもでもそれって唯に非は全くないわけだし、本人もそれ気にして人によって態度変えたりしないし、やっぱり唯が一枚上手だねー」
……ベタ褒めじゃないっすか。なんか、うらやましいな。
「なるほど、ありがとうございます」
「ナニナニ~、唯のコト、気になるカンジ?」
「あ、いえ、なんというか、まぁ、はい」
そりゃ気になりますよ。自殺部なんてもの立ち上げて俺を勧誘してきたわけですから。
でも、この人の話を聞いて、なんだか少し、唯先輩のことを知ることができたような気がする。
「ふふ~ん。いいね、青春だね! 応援してるよー、じゃあね!」
「応援って、別に……そういうのでは……」
信号が替わり、俺の言葉を最後まで聞くことなく唯先輩の友人は去っていった。
何気なく空を仰ぐと、最近完成したらしい高層マンションが目に飛び込んだ。
夕暮れの紅が、マンションを後ろから照らす。その後光によってできた建物の陰。その対比を見つめながら、早すぎる死を迎えた知らない何処かの小学生のことを想った。
でも次の瞬間には、今日の夕飯はなんだろう、なんて、そんな何気ないことを思う自分がいて、そのあまりの乖離っぷりになんだ笑いそうになってしまう。
「死、か」
そのたった一文字は、果てしなく遠いもののように思えてならない。近しい人の死を体感したことのない自分にとって、ニュースや物語の中で触れる死はやっぱり何かを隔てたその先にあるもので、掴もうとした瞬間に広大な宇宙空間に放り出されるかのような、気の遠くなるような感覚に陥る。
――でも、あの人は、唯先輩は、違う。死を、生を、掴み得るものとして、確かに掴もうとして、それに向かってゆく、立ち向かってゆく。たった一歳年上なだけなのに、あの揺るぎなさは、一体どこから湧き上がってくるのだろう。死なんて、自殺なんて、普通に生活していれば大して想うことなんてなくて、極論を言えばそんなこと考えなくたって、日々を過ごしていくことはできる。楽しいことも悲しいこともそれなりに起こって、少しずつ成長していく。でもそんな風に無関係でもいられる『自殺』や『死』なんてものを、誰よりも大真面目に――真摯に考えている唯先輩。彼女がそうなるに至ったその始まりって、一体何なのだろう。
俺は、それが知りたいなと、思った。先輩が俺なんかを勧誘した本当の理由、そんなものよりも、俺が知りたいのはきっと、唯先輩の思想のその芯にある、想いの核なんだ。
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