メンデルスな敷地で

太ったおばさん

メンデルスな敷地で

 目の前に逆さまになった牢檻が見える。小さくて頑丈で不潔で臭い牢檻で、俺は数十分前までそこに入っていた。逆さまに見えるのは俺が吊されているからだ。俺は足を縛られて巨大なホオノキの枝からぶら下げられている。頭に血がのぼってうまく思考できない。頭の方が下なんだから血が下がってというべきかもしれない。そんなどうでもいいことを考える余裕はまだあるみたいだ。ただ何かを考えることができてもこの事態を打開する術はないだろう。俺はもう助からない。眼下に空が見える。あの牢檻同様に固く閉ざされた冬の青空だ。空気は乾燥している。風が鋭利に吹き過ぎていく。頭上に地面。もう三十分はこの有様だ。俺の後ろで大振りな刃物を持った頭の禿げた男が何か喋っている。男の周りに二十人くらい人間――子供だ――がいて、その話を聞いている。ぼんやりした意識の中で俺は男が何を喋っているのか把握しようと試みた。俺の首をこれから切り落とすとかそういう内容のことを言っている。それを全員で見ることが大事らしい。有望な子供達だ。俺が牢檻に連れてこられたのは一年ほど前のことでそれより昔のことは覚えていない。俺は毎朝隣の奴の悲鳴で起きた。牢檻の中には毎朝同じ時間に律儀に断末魔のような絶叫をあげてくれる奴がいて、そいつの声にとりあえず、毎朝起こされた。畳が三枚ぎりぎり敷けないくらいの大きさの汚い牢檻には、そいつとは別にもの静かな奴もいた。毎朝俺を起こしてくれる奴は基本的にあまり動き回らず、ただ、たまに仕事みたいに何かを叫んでいた。俺はそれを見ていつも不快に思っていた。じゃあ見なければよかったのだろうが、それはなぜだか不可能だった。俺は最初から、つまりあの牢檻にぶち込まれたときから何かをしようという気力のようなものを持っていなかった。何をする気も起きなかった。歩き回る気も、何かを叫んだり喋ったりする気も。

 牢檻の中で俺たちは担当らしき子供に世話されていた。短髪の可愛らしい女の子だった。牢檻に彼女が入ってくると変な感じがした。ゴミ捨て場から漏れ出た液体が路地裏に水たまりを作っていて、その表面の油膜が見せる虹色はなぜか綺麗だったりするが、そんな感じだと思った。牢檻の正面の網は金属製に見えるが、所々破けている箇所があった。金属製に見える何か別のものなのかもしれない。もちろんそれは到底通り抜けることなどできない小さな裂け目で、まず誰も気にしていないが、いつも朝俺を悲鳴で起こしたあいつはそれを非常に気にしている様子だった。檻の裂け目の一つ一つに希望のようなものを見いだしていたようだ。このように近くにたくさんあって意味のないものに縋ることは俺にはできなかった。牢檻の外では、池の噴水が空に小さな虹を作っているが、その虹のふもとにあるといわれるものが俺は欲しかった。そこには宝物が埋まっているのだと彼女は言っていた。虹のふもとには宝物が埋まっている。俺たちに食べ物を与え、牢檻の中を掃除しながら彼女は言った。宝物なの、お金じゃないの。彼女がそう強調していった意図が俺にはよくわかる。金は誰にとっても金だが、宝物はそうではない。誰かにとっての宝物が誰かにとってはゴミだという当たり前の話のことだ。俺はまだ俺の宝物を持ったことがないように思える。この世界には金が欲しくないという希有な奴もたくさんいるのは確かだが、宝物が欲しくない奴はいないはずだ。それは具体的な何かなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。形なんかどうでもいいが、それが俺の希望のようなものなのかもしれない。虹と共に希望という敷地は絶えずこの世界のいたるところをふらふらと移動している。どうして俺は牢檻の中で動かないでいたのか。俺の後ろにいる禿げた男は、俺の首を切り落とした後の話を始めた。流れ出る血のこととか、内臓の処理のこととかだ。刃物を小さく振り回しながら深刻な口調で説明している。誰かやりたい人はいますか、男はそう言った。二十人前後の子供のうち、一番前にいた一人が元気に手を上げた。体格の良い男の子だ。身長が高く横幅も広い。さぞ喧嘩が強いのだろう。模範的といった笑顔で率先して前に出てきた。戦場では少年兵が一番怖いというのは良く聞く話だ。その笑顔のままで俺を殺す気だろうか。いや、こいつらに何かを期待するのは間違いだろう。殺す状況になれば殺すだけだ。このように免罪符さえ与えられれば何だって殺す。男の子は刃物を受け取った。去年まであの牢檻にいて死んだ奴らは、最後まで殺されることはなかったそうだ。今年から、俺たちだけどうやら話が別ということらしい。自分たちで育てた動物を自分たちで殺して調理して食う、という、命の尊さなどの道徳観を教える授業の一環ということだ。彼女は命の尊さというものを知らないのだろうか。よくわからない。命の尊さって何だ。俺には命という言葉と尊さという言葉の意味がそれぞれ個別に理解出来ない。だがもしもそういう風にして彼女がその真理を知ることが出来るのだとしたら、それは一介の尊い命としては冥利に尽きることだと思える。いや、そうじゃない。彼女にそのようなことを教えることができるのなら、その時俺の命は尊くなる。ここにいなければどのみち何のことはない何の特別性もない肉の塊だったのだ。何の感慨も区別もなくただ誰かの口に入って尻穴からくっさい物体となって発射されて終わり。まあ、結局ここでも食用にかわりは無かったわけだが、それに付加価値がついたみたいだから儲けものだ。そういう風に思えるのだ。今のところ本気で言ってる。

 禿げた男が俺の首に指を当てた。どこを切るのか詳細に男の子に説明している。男の子はろくに聞いていない。ただ、早く使いたそうな顔で手の中の刃物を見つめている。一年ほど前、俺が牢檻に入ってすぐにあの女の子はやってきた。俺たちに昼飯用の穀物を持ってきたり、牢檻の床の排泄物を掃除したりするのは最初から彼女だった。彼女はそういったクソみたいな仕事をしながらよく喋った。あらゆることを喋った。誰が何人でどのような順番で俺たちの面倒を見るのか、という問題では相当揉めたらしい。その取り決めはあの二十人前後の子供達が自主的に定めなければならなかったのだが、当然率先してやりたがる者などいなかったそうだ。そこに担当の大人は極力口をはさまなかったが、それはそういう規定になっているというわけではなくて、その教師の単なる個人的な判断か、あるいは怠慢だった。そして話し合いはまとまらず、結局集まりのまとめ役――委員長という役職で、それも誰もやりたがる者がいなかったために成り行きで決まったものらしい――の彼女が、自分中心でやってもいい、と言った。しかしそれは、「ただし全員がちゃんと少しずつ手伝ってくれるなら」、という条件付きのものだった。そうして彼女は飼育係を引き受けたのだ。そんないきさつは、彼女が俺たちの牢檻の中で職務をこなしながら話してくれたことだの一部だ。ただ、残念ながら俺は、これまで誰かが彼女を手伝っているのを見たことがないし、鶏小屋の中の無愛想な動かない鶏に話しかける人間というのは、どこか頭がおかしいものなのだろうなと思える。

 生き物すべてに言えることではあるが明らかに俺たちは死ぬため生まれてきた。食べられるということが達成すべき最終目標であり本懐というものなのだ。そういうことになっている。そのために産まれて生きたのだから、それすら達成されずただ単に死んでしまうのはやはり不名誉であり無念だということになっている。どのように生きたとして最終的に誰かの空腹を満たすことができなければ、それはこの世界に生まれてきた意味を棒に振ることになってしまう。その意味をぜんぶ棒に振ってざまあみろと叫んでやりたいとは思わない。いや、思うこともあるが単に今は思わないということだ。世の中には鶏が大量に病気に罹り食べられないし拡散を防がなければならないしで皆殺しということもある。それらは同じ死でも、俺たちにとって違う意味を持っている。いや、これも違う。持っているということになっている、ということだ。死ぬために生まれたのは、食べられるために生まれてきたという意味だ。それが叶わなかった場合この生命活動に全く意味がなかったと言っても過言ではない。あの子は俺を食べるだろうか。あの子は……彼女は、毎日下校時間になると小屋にやってきて、ランドセルを校舎の前庭の、中央に噴水のある六角形の池の縁に置いて、俺たちに食べ物を与えた。規定の穀物のほか、たまに給食の残りを持ってきたりもした。パンの欠片とかおからとか肉のかたまりとかそういうものを手の上に乗せて俺たちに啄ませ、これは秘密だよ、などと深刻そうに言った。そして世間話をしながら小屋を掃除してくれる。俺はその話に聞き入っていて、ちゃんと聴いていますよという態度でじっとしているのだが、だからと言って人間が鶏に話をし続けるのはやはりへんてこなことであるのに変わりはない。彼女が話すのは授業のことや休み時間のことや親のことやイタチのことで、俺たちの運命とか唐揚げとか鶏がらスープのことではない。イタチの話は確か夏に語られたものだ。あの日彼女は針金を持ってきて隣の牢檻にいるウサギたちの話をした。三羽いたのが二羽になってしまったそうだ。花壇に内臓が散らばっててさ、イタチはすげえ怖いよ、まぁよかったよこっちに来なくて、そう言いながら穴を針金で修繕している彼女を、毎朝叫んで俺を起こす奴は特に残念がるでもなくぼうっと見ていた。散歩する人は彼女が何をしているのかもよく分かっていない様子だった。いつもうろうろ歩き回っている奴は散歩する人と彼女に命名されていた。もちろん最初俺たちに名前はなかった。だが彼女は名前を付けた。名前を付けることも禁止されていたようで、それは秘密の名前ということだった。彼女は俺をとさかが面白いかたちの人、と呼んだ。それは名前と言っていいのだろうが。何か違うような気もした。人ではないし。人ではなく……俺は何なんだ。強いて言えば後に鶏肉に加工される、加工前の物体、材料だ。彼女の体は石鹸とか白桃か何かそんなもので出来ているように見える。声には風鈴の音の清白さがある。俺は鶏肉で出来ている。おそらく俺に名前があってはいけないと思う。彼女には名前があるはずだったが俺たちは知らない。放課後彼女が俺たちの所にくる時間になると、校舎の端の一室からはいつもピアノの音が聞こえた。ピアノというのは一度叩いたらあとは減衰していくだけの音を出す楽器のことだ。その単音が連なって音楽になるのだが音楽のことは俺には分からない。だが聴いていていやな気分にはならない。その音楽が流れていると胸肉とか腹のあたりが温かい感じになり、ただ生きていることがそれほど悪くもないことのように思えてくるほどだ。清廉な響きが混じる春の風の中で俺は彼女にこの感じのことを訊ねた。これはなんですか。メンデルスゾーンだよ、と彼女は言った。柔らかくいい匂いのする言葉だ。ゾーンと言うからには場所とか区域なのだろうが、それが特定の場所を指しているとは思えない。それはなんとなく、漠然と閉じきった、何かしらのあらゆる場所だ。ここはメンデルスな場所だ。いや、ここではない、彼女の存在するここのことだ。音楽が流れている間、俺が生きているのも悪くないと思うのは、音楽のせいではない。その音楽の流れる時間には彼女が牢檻の中にいるからだ。彼女がメンデルスということだろう。そう呼んでもいいだろう、と俺は思った。メンデルス。

 世界は相変わらず逆転している。男の子が俺の首筋に刃物をあてた。刃物を持っていない左手で俺の顔を掴み固定しようとするがうまく刃物が肉に食い込まない。それでも彼は笑顔のままだ。笑顔で命を奪ってはいけませんと誰かこいつに教えてやれ。禿げた男が俺の体を掴みしっかり押さえ込んだ。その瞬間男の子は大きなくしゃみをした。横隔膜の動作に伴って男の子は刃物をぶんと振ったので禿げた男は悲鳴を上げて跳び退いた。そして怒って男の子から刃物を取りあげた。誰から見てもその男の子は刃物を持ってはいけない人間だった。一生料理もしない方が得策だろう。そういう人間は確かにいるのだ。男の子は慣れないものを持って明らかに気分が昂ぶっていた。ああいうのに慣れないものを持たせてはいけないし、慣れても危険だろう。もちろん慣れなければ何事も上手くやることはできない。メンデルスも最初は白い手をひどく汚して飼育係の仕事をしていた。生きてるものの世話を最初から上手にやる奴なんかいない。だが半年も過ぎれば彼女は手や服を汚さずに手際よく作業をした。いつも、彼女が来ると檸檬石鹸の匂いのする風が吹いたような気がした。あのね、とさかちゃん。半年前くらいか、あのとき彼女はしゃがみながら喋りはじめた。俺はいつの間にかとさかちゃんと省略して呼ばれていた。彼女は給食について語った。私ってすごくものを食べるのが遅いんだ、それにちょっとでお腹いっぱいになるから、いつも給食を全部食べられないのよ。俺はメンデルスの喋る度に相づちを打ったが彼女はだいたいこちらを見ていない。それで、毎日お昼休みが終わっても一人で給食食べてるのよ、できるだけ音を立てずに、でも早く食べなきゃって思うと息が詰まっちゃってさ、結局余計に食べられなくて、下校時間にやっと許してもらえるの、それで残すんだ。彼女は牢檻の中の糞か土かわけのわからないものを木製の熊手か箒かよくわからない一メートルくらいの棒状のもので集め、どうやらわけのわからないものしかなさそうな世界で仕事をこなしながらそう語った。断固抗議すべきだと、俺は、彼女の語ってくれたことに対して思った。彼女は給食費を払っているはずだ、いや彼女ではなく彼女の世話をしている人間がだろうが、どうでもいいことだ。給食をどうしようと彼女の勝手だし昼休憩後の授業をまともに受ける権利がある。私、鶏肉って嫌いなの。俺の思考をよそに彼女は続けて喋り続けていた。というか、お肉が全体的に苦手なんだけど。

 禿げた男は再び何か言いながら俺に近づいて首を強く握り押さえつけた。息がしにくい。子供のものとは比べるべくもない強い力で、俺は直感でこいつが何一つしくじらずに俺の首を切り落とすことを確信した。禿げた男は笑顔ではなかった。厳粛な表情で道義的に正しい殺しを行おうとしている。もう逃げ場はないし手段も一つたりとも残っていない。俺はそれを再確認させられる。前に一度だけ逃げることのできる機会が与えられたことがある。二ヶ月ほど前で、秋だった。メンデルスが帰ったあとに俺は牢檻の扉の鍵が閉まっていないことに気付いた。ピアノをまだ誰かが弾いていた。そしてそれも聞こえなくなってあたりが暗くなったころ、扉は徐々に風で勝手に開いていった。いつもうろうろしている鬱陶しい奴(メンデルスによって、さんぽちゃん、とこの頃には省略して呼ばれていた)は昼間うろうろし過ぎた反動でぐっすり眠っていた。毎朝叫んで俺を起こす奴はきょとんとした顔でその扉を眺めていた。何の匂いもしないぬるい風が吹いていて、特に何もやる気が起きず、俺は眠るつもりだった。せっかくなので起こしてやろうかと思ったが、とても気持ちよさそうに寝ているので踏みとどまって、そしていつの間にか俺も、イタチを警戒しつつも眠っていた。それから目が覚めると噴水の影がもう昼であることを示していて、いつもこの時間は檻の中を無意味にうろうろしているはずのさんぽちゃんがまだ静かに寝ていた。牢檻の鍵はすでに誰かの手によって閉められていて、早起き絶叫野郎はいなくなっていた。そのようにして牢檻の中が二羽だけになったその日も、メンデルスはいつも通り放課後に来ていつも通りの仕事をした。牢檻の鍵を閉め忘れたのは彼女の筈だが、特に怒られた後という感じはしなかった。怒られなかったのだろうか。それともそういうそぶりを見せないだけだろうか。俺たちを食べる授業は、かと言って食べることが目的ではないのではないかと俺は考え始めていた。彼女らがどうするか自分で考えることが目的であるべきなのでは、と、そんな風な考えだ。確かに、牢檻の鍵を閉めずに帰ったということに対して、彼女(を含む二十人の子供たち)の担任と呼ばれる担当の大人には怒る要素も資格も無いように思える。もちろんそれが故意であれば、ということだ。ただ、その次の日から放課後に彼女以外も来るようになった。彼女しか仕事をしていないことにやっと大人が気付いたらしく、世話の順番を強制的に決めたのだ。彼女以外の皆は散々文句を言いながら仕事をした。こんなことを企画したのは誰だろう。率先してやろうとしているのは誰だ。あるいはやらなければならないと取り決めたのは一体誰なのだろう。なんでこんなことになった。噴水の周りで鬼ごっこや何かで遊んでいる子供達に自分は死ぬために生きているという自覚はない。誰だってそのうち死ぬ。俺が食べ物になる日はいつ来るのか、いや既に食べ物か。加工される日と表現した方が良さそうだ。それは早ければ早いほどいいと思った。メンデルスはそれからもたまに檻に来て俺たち鶏の世話をした。いや、たまにではなかった。どう考えても、クラスの全員がローテーションに組まれているとは考えられなかった。牢檻に来る人数は明らかに少なかった。あるいは組まれていても来ない者がいてその代わりに彼女が来ていたのかもしれない。その可能性はかなり有力的だ。あの、扉が開いた秋の日から、彼女が俺たちの世話をするため牢檻に来たのは、当番で四回、それ以外で四十二回だ。もっと最初から数えておけばよかったな、と思った。特に何の意味もないが。

 刃物を取りあげられた子供は不満そうな顔で座っている。俺は疲れて視界が徐々に狭まってきた。禿げた男は子供達にもっと近づいてと促した。二十人前後の子供達は恐る恐る前に進む。気分が悪そうな子もいるが大方が溢れ出る好奇心を隠しきれずにいる。彼女が鍵を閉め忘れたあの日から二ヶ月過ぎた今日、俺は牢檻に全く来たことのない大人に足を縛られた。そして校舎前庭の大きなホオノキの枝に吊され、三十分放置された。その時俺はここで死ぬのだろうということを悟った。どこで生まれたのかもわからないしそこに特別性はないだろうが巨大なホオノキの下で死ぬのは特別かもしれないと思った。さんぽちゃんはまだ牢檻の中で眠っている。メンデルスはどこだろう、と俺は思った。二十人前後の子供が俺を近くから遠くから取り囲んで見ている。女の子の中にはずっと泣いているのが一人いて、なぜかついに嘔吐して遠くに連れて行かれた。どこへ連れて行かれたのかは知っている。保健室というところだ。どうして牢檻に一度たりとも来ていない人間が泣いたり吐いたりするのか理解することは出来ない。そんな権利はなさそうだ。禿げた男も俺の牢檻に今まで一度たりとも来ていない。どうしてなんだ。俺があの日逃げなかったのはあの子のためだ。いや違う、どうせ逃げたってどうやって生きていけばいいのか分からなかったし、イタチは怖いし、彼女のいない場所で生きながらえて何の意味があるかわからなかった。俺は一年間ほとんど牢檻の中でじっと動かなかった。そうすればきっと筋肉が退化してぶよぶよに太ってなんだかその方が肉が柔らかくなって、少しでも食べやすくなる気がしたしな。そのこともいつしか忘れた。動く必要なんて最初から無かったから。あの子は俺を食べるのか。食べないのか。メンデルスの顔を探そうとしたが俺の首を握る手に更に力が入りそれは叶わなかった。生涯という牢檻にそこから逃げ出すべき小さな隙間を作ってくれた方がこの周囲にいらっしゃってあなたはこちらを見ているかもしれないし見ていないかもしれない。俺にはもうそれが分からないが、もはやそれはどうでもいい。あなたは俺を食べるだろうか。わからない。意識が朦朧としてきた。死がそこまで来ているという感覚は穏やかに底のない確実性を抱えて降りてきた。悲鳴が聞こえた。毎朝悲鳴をあげていたのは俺かもしれない。俺は俺自身の悲鳴で目覚めていた。俺は今どこにいるのだろう。もう何もわからない。ここはどういう場所なのだろう。この世かあの世か室内か屋外か小屋か卵か胃袋か牢檻かそれとも俺はほんとうに生まれているのかもわからない。ホオノキの下という場所がどうして俺と関係があるのだ。あの秋の日に逃げ出したのは確実にもう一羽の俺自身だった。だが俺は逃げることができなかった。その翌日にあの子は俺にどうして逃げなかったのと訊いたのだ。だって一人でも俺に生きていて欲しいなどと思う人間がこの世界にいるんですから。それでもういいんです。けれどそれをメンデルスに伝える手段はない。息が苦しい。俺は叫んだ。刃物が首に食い込む。最後の力で羽根をばさりとめいっぱい広げると、おを、と声をあげて、禿げた男が怯んだ。俺の首を絞めている手の力が一瞬弱まって、一瞬だけだった。取り囲む二十人前後の子供達が驚いて、少しだけ後ずさりするのが見えた。一人だけ前進した。ざわざわと耳障りな喧噪の隙間から一つ、風鈴みたいな、あの声が聞こえた気がした。わたしがやる、わたしに、やらせろ、わたしに殺させろ、その声はそう叫んだ。


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メンデルスな敷地で 太ったおばさん @totonko

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