第2話 ダークエルフのリリア



 リリアは草を踏み、木の根をまたぎ、ヌルドの森を歩いていく。鬱蒼と生い茂る樹木が空を覆い、早朝とは思えないほど薄暗い。リリアは立ち止まる。地面を見ると、森豚の蹄跡(ひずめあと)が森の奥の方へ続いている。


 リリアは腰まである白銀の髪をひとつ結びし、腰から短刀を引き抜く。オーガの脛骨から削り出した骨刀はよく切れる。身をかがめ、リリアは森豚の足跡を辿っていく。慎重に歩んでいくリリアの褐色の額に汗が浮かぶ。リリアはそれを拭い「今日は暑くなりそう」とひとりごつ。


 ヌルドの森北東に流れるヌルド大河、その周辺にダークエルフの村がある。彼等は多種族との交流を少なくし、森の恵みを糧に生活している。リリアはその村に住む少女だ。白銀の髪と褐色の肌は見るものの心を奪うほど美しい。


 前方に森豚の姿を認め、リリアは茂みに隠れる。森豚はしきりに地面の臭いを嗅いでいる。


(今度は逃がさない)


 リリアはナイフの柄を強く握る。


 今朝、眠りから覚めたリリアは早速狩りに出掛けた。リリアは両親と三人で暮らしている。朝の狩りはローテーションで決まっており、今日はリリアが当番の日だった。森に入って早速森豚を見つけ、リリアは弓を構えた。弓は苦手だったが、そんな事をいっていたらいつまでたっても上達しない、練習もかねて放った弓矢は森豚の鼻先をかすめ奥の樹木に突き刺さった。(しまった!)と思ったときにはもう遅く、森豚はすばやく駆け出し森の奥へ消えていく。リリアは茂みの荒れ方や地面の足跡を頼りに獲物を追跡した。そしてようやくたどり着いたのだった。


(それにしても、ずいぶん外れの方まで来ちゃったなあ)


 リリアは獲物に意識を向けながらも、森の奥を見た。今リリアがいるのはヌルドの森、その最北東部だった。ダークエルフたちがこの辺りまで出てくるのは稀だ。何か大事な用があったり、あるいは今のリリアのように獲物を追って来ることはあるが、それ以外でここまでくる者たちはいない。その理由は


(死の荒野)


 森の奥を眺めながらリリアは思う。もうすぐそこは死の荒野だ。あと50メートルも歩けば、唐突に森が終わる。目の前に現れるのは草木の彼果てた岩と砂の世界、通称【死の荒野】である。地平線の彼方まで死の荒野は広がっている。豊かな森が唐突に何もない荒野に変わっている事が不思議で、その昔リリアは村の老婆に尋ねたことがある。老婆は500年以上生きたダークエルフで、闇魔法や呪術に長けた魔術師メイジであった。


 リリアの質問に老婆は優しく答えた。


「昔はね、あの荒野全てがヌルドの森だったんだよ。今のヌルドの森も大きいけど、昔はもっと大きかった。でもね、邪悪なドラゴンと凶悪な人族が戦って、森はああなってしまったんだよ」


 その話にリリアは驚いた。あの荒野全てが森だった事にも驚いたし、伝説以上のドラゴンの恐ろしさにも驚いたし、そして何よりそんなドラゴンと人族が戦っていた事実に驚いた。リリアがこれまで会ったことのある多種族はエルフ族とドワーフ族だけだ。人族に会ったことはないが、話なら聞いたことがある。人族は肉体が弱く寿命が短いが、魔法や剣の扱いが上手く文明が発達している。単体で見るとそうでもないが、種族として見れば間違いなく上位種族に位置する。つまり人族は強いのだ。


(でも)とリリアは思った。確かに強い種族だが、ピラミッドの頂点に位置するドラゴン族と戦えるほど強力な力があるのだろうか?


 リリアのその疑問に老婆は暗い目をしながら小さく笑った。


「そうだね。確かに人族は強いけど、さすがにドラゴンには敵わないよ。でもね、ドラゴンと戦っていた人族、アレは人族じゃなかった。いや、確かに人族だったよ。しかしあれを人族と呼んでいいのかねぇ。アレは自然の摂理に反した、禍々しい何かだったんだよ。本当に恐ろしい、思い出しただけでも背筋の凍るような、あれは、本当に、恐ろしい」


 老婆はそこまで言うとリリアを抱き締めた。老婆が小さく震えている事に気づいたリリアは、強い力で老婆を抱き返した。


 茂みからリリアが飛び出そうとした瞬間、強い風が吹いた。地面を嗅いでいた森豚が、ビクリと顔を上げた。風がリリアの臭いを運んだのだ。ダークエルフの姿を認めると、森豚は一瞬硬直した。その隙を見逃すまいとリリアは駆け出した。遅れて森豚も駆け出すが(この距離なら追い付ける!)とリリアは確信し、短刀を振り上げる。リリアが跳躍して森豚に襲いかかろうとしたその時、何かにつまずいて勢いよく転んだ。


 リリアはすばやく立ち上がると、鋭い視線を前方に向ける。森豚はすでに消えていた。木漏れ日がリリアの頬を照らす。鳥の鳴き声がリリアを笑うように響いてくる。ため息を吐きながら上半身の土と草を払い落とすと、リリアは足元を見た。どうせ木の根にでもつまずいたんだろうと思っていたリリアの眼に、投げ出された両脚が飛び込んできた。


 男がひとり、仰向けに倒れていた。リリアは男の脚につまずいたのだった。


 リリアは男の脇にしゃがみ込み、口元に手を当ててみる。呼吸している。どうやら死んではいないらしい。ボロボロの衣服を身にまとい、所々が黒く汚れている。リリアにはそれが血に見えたが、男はケガをしているようには見えない。死んだように意識を失っているだけだ。


 肌の色は薄く、耳も尖っていない。おそらく人間だろう。


「なんでこんな所に人族が?」


 ヌルドの森に人族はあまり近づかない。人族には大きな国がいくつか存在するが、この森はどの国の領地にも属さない。それにダークエルフの住む北東部は比較的安全な地帯だが、それ以外の場所には危険度の高いモンスターがうようよ住み着いている。たまにこの森に一番近いユリシール王国の冒険者や騎士団などがやってくるが、彼等は森の入口近くのモンスターを狩るくらいでこんな最深部までは入ってこない。ましてすぐそこは死の荒野だ。こんな場所に用がある人間がいるとは思えない。


 いくら考えたところで答えは出そうになかった。とりあえずリリアは男を担ぎ上がる。ダークエルフは通常のエルフ族に比べて力が強い。毎日森の中を走り回り、狩りをして獲物を運んでいるリリアにとって男を担ぐことなんてぞうさもなかった。


(村に運ぼう)とリリアは思った。ダークエルフはその名称や容姿からしばしば邪悪な存在だと誤解されることがある。確かにリリアの村はあまり多種族との交流を持っていないが、それは村だけで生活していけるからだ。オーク族のように多種族を襲撃し、その血肉を貪るような野蛮な行いはしない。けして排他的な種族ではないし、まして倒れている人族を見捨てるような冷酷な種族でもない。


 男はぐったりとリリアの肩にのし掛かっている。リリアは村に向かって歩き始めた。



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