第四章 灰秋の『爛』葉 PART5
5.
天岩戸神社から高千穂峡に向かう途中、小さな神社を横切った。何でも木串触(くしふる)神社というらしい。
助手席に座っている葵に尋ねると、ニニギの神社だと答えた。
ニニギ。アマテラスの孫であり、日本を統一するために彼女から三種の神器を地上にもたらした神だ。初代・神武天皇はニニギのひ孫ということになっている。
木串触神社を通り越し、次に見えたのは高千穂神社だった。熱田神宮、出雲大社に劣らず大きな鳥居がどっしりと佇んでいる。
「やはり神話の町とあって、神社がたくさんありますね」
「そうでしょう。この一体で有名な神社といえば四つあるの。天岩戸神社、木串触神社、高千穂神社、それに荒立神社ね」
「そんなにあるんですね。高千穂神社ではどんな神様を祀っているんです?」
「ここは御殿が二つあって、高千穂皇神様と十社大明神という神が祀られているの」
葵は細い指でピースサインをとった。
「メインは高千穂皇神様ね」
葵は目の前にある看板を指差して続ける。
「高千穂皇神様というのは一人の神だけを指しているわけではないの。日向三代といってニニギ様を合わせて三世帯の神様を祀ってあるんだ」
「……なるほど」
この中に隠蔽された神はいない、とリーは思った。天皇の家系なら隠蔽する必要はないからだ。
「荒立神社では二柱の神が祀られているの。サルタヒコ様とアヤノウズメ様ね」
サルタヒコ。熱田神宮の正殿の近くに末社して建てられていた神様だ。それにアヤノウズメは西本宮の配祀の神の一人だ。
「なぜその二人が同時に祀られているんです?」
「二人が結婚しているからよ」
葵は即答した。
「それにこの二人は国際結婚の神ともされているわ。サルタヒコ様は天狗のように大きな鼻を持っていたから、縄文人。アヤノウズメ様は薄い顔立ちだったから、弥生人ともいわれているの」
縄文人に弥生人。日本の最古の時代だ。もしかすると、この二人こそが日本の先祖なのかもしれないなとリーは思案した。
「荒立神社には白椿が自生していて、とっても綺麗なの。今の時期は開花していないから、見れないけどね」
白椿と聞いて、二つの椿を思い出す。熱田神宮の青椿に、出雲大社の赤椿だ。二つは幻想的に光っていた。
この世に存在しないのではないかというくらいに――。
高千穂神社を通り越し、細い曲がりくねった道に入ると、かなりの落差がある滝が見えた。真名井の滝だ。
駐車場に車を止めると、本日はボート禁止という看板が立っていた。何でも今日は水かさが増しており、ボートには乗れないようだ。
「残念だなぁ」
葵は嘆息を漏らした。
「ボートの下から見る滝の姿が綺麗なのに……」
リーも合わせて残念そうな顔をすると、葵は声を張り上げた。
「大丈夫。ボートに乗れなくても、ちゃんと歩道があるの。よし、歩こっか」
先程車の中から見た滝が目の前にあった。滝の勢いは強く、下に流れている川を容赦なく叩きつけている。
「ここが真名井の滝になるわ」
彼女は滝を眺めながらいった。
「真名という言葉には本当の名という意味があるの」
脳裏に真名という言葉が反芻される。どこかで聞いたことがある単語だ。
「本当の名、ですか……」
「うん。昔の日本人には通り名と真名という二つの名前があったらしいの」
彼女は両手の指を一本ずつ上げて答えた。
「通り名はその名の通り、誰に対しても使える名前ね。真名というのは近い人にしか教えない秘密の名前のこと」
「葵さんにもあるんです? 秘密の名が」
葵は苦笑いし、リーの顔を緩くひっぱってきた。
「あるわけないでしょ、昔の日本人よ。昔の」
「そうなんですか? 神社の方には真名があるのかなと思ったので」
「今の人には誰にもないわよ」
葵は手を緩めてリーの頬を撫で始めた。
「ニックネームが近いんじゃないかな。渾名
あだな
は友達同士でしか呼び合わないでしょ?」
ニックネーム。そういえば、昔誰かに渾名をつけたような気がする。
あれは夢の中だけの話だろうか――。
「葵さん。仮に真名があるとしたら、なんとつけますか?」
「そうねぇ、葵という字は気にいってるの。だから葵という字が入った花の名前がいいかな」
「葵という字も花を表していると思いますが……」
そういうと彼女は静かに首を振った。
「厳密にいえば、葵という花は存在しないのよ。だからきちんとした花の名前がいいかな」
彼女の声は小さかったが、なぜかその言葉にはひどく力が籠もっていた。何故だろう、彼女には本当に真名があるような気がしてしまう。
「リー君は名前を変えることができるなら、どんな名前がいい?」
「いえ、僕にはすでに二つの名があるからいいですよ。これ以上増えたらややこしくなりますし……」
「そういえば日本の名前もあったんだよね」葵は苦笑いした。「聞いてなかったけど、なんていうの?」
「ええと、僕の名前は……」
……思い出せない。
記憶の隅々まで探ってゆく。意識を集中すると、なんとなく三文字だった気がするが、やはり不確かだ。
記憶の糸がどこかで途切れている。
「リー君? どうしたの?」
「いえ、すいません……。しばらく使わなかったので、度忘れしちゃいました」
葵は小さく噴き出した。
「ふふっ。意外とリー君も抜けている所があるのね」
「……すいません。何だったかな。しばらく使っていないと、中々出てこないものですね」
「無理に思い出そうとしても、そういう時は出てこないわよ」
彼女はリーの頭を撫でながらいった。
「頭を軽くした時に出てくるんじゃない? ふとした時に出てくるものよ」
「……はぁ。そうかもしれませんね」
滝の音がリーの神経を逆立てる。自分の名前がわからないなんてあるはずがない。どうして思い出せないのだろうか。
復讐に生きると誓った時、全てを捨てることを決意した。だが自分の記憶を消すことなどできるはずがない。
この記憶は自分の目の届かない所で封をしているような感覚だ。思い出してはいけないような、そんな漠然とした気持ちになってしまう。
葵の前では平静を装ったが、頭の中では自分の本当の名について考えてはそれを打ち消していた。
滝の水花火が彼の意識の全てを飲み込んでいくようだった。
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