第三章 白秋の『爛』葉 PART6
6.
「……ただいまです」
「あ、リー君おかえりっ」葵は台所でにっこりと微笑んでいる。「ご飯まだでしょ? 今作ってるから、もうちょっと待っててね」
フライパンの中には細い麺が絡まっている。どうやらスパゲティらしい。
「美味しそうですね」
「ただのカルボナーラよ。何回も作ってるじゃない」
「葵さんが作ってくれるなら何でも美味しいですよ」
そういった瞬間、空気が固まったのを感じた。彼女は顔を膨らませてこちらを睨んでいる。今度は何がいけなかったのだろう?
「……何でも美味しいっていったら駄目よ」
彼女はフライパンを返しながらいった。
「特にこの料理が美味しいっていってくれないと作り甲斐がないじゃない」
……なるほど、そういうことか。
彼は顔をしかめた。ただ愛想よくいえばいいというわけではないらしい。きちんとその都度、表現を変えなければならないのだ。
……本当に女性と付き合うというのは難しい。
「そうはいっても美味しいものは美味しいから、他の表現の仕様がないですよ」
「……んー、それもそうね」
葵は苦笑いして皿をテーブルに載せた。
「ただいってみたかっただけ。ごめんね。どうぞ、召し上がって下さい」
一度注意されても、強気で言い返せば引っ繰り返ることもある。葵を通して学んだことだ。気の強い女性だと思っていたが、意外にも押しに弱い所もある。
「葵さんは食べないんですか?」
「うん。私はいつもこの時間には食べないから、全然お腹が減ってないの。だから気にせず食べて」
……彼女はきっといい奥さんになるな。
リーは胸に痛みを覚えながら箸を取った。葵は相手のためだけに料理を作ることができるのだ。騙して付き合っているということを考えるとさすがに気の毒に思ってしまう。
「……本当に美味しいです。明太子も、もちろん美味しいですけど、やっぱりこの青葱が効いてますよね」
葵が得意としているのは明太子カルボナーラだった。カルボナーラには焼いたベーコンが鉄板だが、葵が作るものには代わりに明太子と葱をたっぷりとのせたものだった。
「そうでしょ」
葵は得意げに胸を張って答えた。
「そういえば、葱って不思議よね。なんで青葱っていうんだろう。どちらかっていったら緑葱になるよね?」
「確かにそうですね。昔から青と緑は微妙な区分ですもんね」
リーが適当に相槌を打っていると、葵は一つ溜息をついた。
「リー君、そういう所は鈍感だよねぇ。この間、緑色のカクテルを頼んだのに青色になってたもんねぇ」
葵は色の判定に少しうるさい所があった。現在リーの部屋には、彼女が配色にこだわって選んだ小物が置かれるようになっていた。天体望遠鏡しかなかった寂れた空間が華やかに変身を遂げている。
何でも女性は男性より色彩感覚が鋭いらしい。彼には理解できない所の一つだ。
「……それはですね、僕は緑より青の方が好きだから、わざとそうしたんです」
「ん、何で青の方が好きなの?」
「敏感な葵さんには話すまでもないと思いますけど……」特に名前を強調していう。
「あはは。どうやら、自分から話題を振っておいて負けちゃったみたいね」
彼女は一杯食わされたといった表情をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「……明日からでしたよね? 宮崎に行くのは」
明日は九月九日。前回と同様に節句の日に向かうことを促している。これでリーの役目は一つ達成したことになる。
「……うん。一泊だけ泊まって、次の日には帰ってくるよ。何かおみやげで欲しいものがある?」
「葵さんが無事に帰ってきたらそれがおみやげになります」
「またまた」
葵は満更でもなさそうな顔で手を振っている。
「リー君も大分わかるようになってきたわね。明日は仕事あるの?」
「いえ、ないですよ」
「じゃあ大学の講義だけなんだ」
「そうです、午前中だけですが」
「……もし飛行機の切符が二枚あるとしたら、どうする?」
……ここはどう切り返すのがベストなのか。
体中に動揺が走る。まさか自分と一緒に行こうといっているのだろうか、しかしここで頷いては計画に支障が出る。
「……僕が行ったらまずいのでしょう?」
「そんなことないよ。もちろん私一人で行かないといけないことはわかっているんだけど……やっぱり不安なの」
葵は神妙な顔をしてリーの顔を覗き込んだ。
「私がもし宮崎で生まれていたと思うと、今までの生活は何だったんだろうとふと思っちゃうことがあってさ……」
「大丈夫、葵さんはそんなに弱くありません」リーは箸を止めて葵の肩を掴んだ。「どんな結果になったって葵さんは変わりません。僕がずっと側にいます。だから、何も心配しないで」
「うん……ありがと」
葵の表情は変わらない。
こういった不安を抱かせたまま宮崎に行かせることはマイナスの要因になるのではないか。最悪このままでは冬まで彼女との関係を続けることができなくなる可能性がある。
……やはり不安の芽は摘んでおいた方がいい。
「もし本当に不安なら僕も一緒に行きますよ」
彼はなるべく明るい声を出していった。
「午前中だけですし、一日くらいなら休みますよ」
マスターは二人で一緒に行くなといっていた。しかし、二人で行きながらでもフォンの尾行相手を調べることは可能だと彼は思案した。
問題は日本のスパイが何人いるかということだ。
フォンを付けねらっているもの以外に、自分達に対してついている監視は多くても二人だろう。その二人を連れながら、敵のスパイを探る。
難しいがやれないことはない。
一時の沈黙の後、葵は微笑んだ。
「……くくくっ。ごめんごめん、嘘よ」
そういって葵は頭を下げながらチケットを見せてきた。二枚のチケットはただの往復チケットだった。
「一人で行こうとは思ってたんだけどさ。リー君の顔を見てたら意地悪したくなっちゃってさ」
「……そうだと思ってました」
リーはわざと肩をすくめた。心の中では動揺の波がおさまっていく。
「最初僕がついて行こうとしたら、断わられましたからね。おかげで明日の講義に出る気がなくなりましたよ」
「本当にごめんね」
葵は苦笑いして再び謝ってきた。
「連絡はきちんとするから、ちゃんと返してね。返さなかったら、そのまま戻ってくるかもよ」
葵は綿密なスケジュール表を用意していた。予め友達と合流する予定も立てており、その内容まできっちりと書いている。
きっとリーに対して誠意を表しているのだろう。それはつまり自分に対しても同じように誠意を持ってくれということを意味している。
「うんうん、ちゃんと連絡します。大丈夫です、安心していってきて下さい」
「浮気とかしちゃ駄目よ」
「まさか。どこにそんな相手がいるんですか」
「…………バーのお客さん」
葵の目が鋭く光った。
「この間、同級生が来たんでしょ?」
葵もその場にいたくせに、という言葉は引っ込めた。下手に刺激すると取り返しのつかないことになる。
「あの人のことですか……。葵さんが帰った後、すぐに帰りましたよ」
「ふうん。すぐ帰ったのに連絡先は交換したんだ?」
彼女の手には彼の携帯が握られていた。すでに美里の名前をチェックしているらしい。
……本当にこういった嗅覚はどうやったら身につくのだろう。
彼は心の中で溜息をついていた。
「そうですけど、これは仕方なく。別に大学でもほとんどしゃべる機会はないですよ」
「仕方なく?」
彼女は唇を尖らせている。
「すでにメールが来てますけど?」
連絡先を交換した後に美里からメールが来たのだろう。下手なことが書かれていなければいいが。
「それは初めてのメールです」
彼はきっぱりといった。
「きっと文学部の連絡事項ですよ。僕からは連絡を送っていません」
「一応、そうみたいね」
送信履歴をみて葵は頷いた。
「浮気なんてするはずがありません」
彼は静かに抗議した。
「そんなに心配ならやっぱり行きましょうか?」
そういうと、葵はけらけらと笑い腹を押さえた。
「ふふっ。本当にリー君って素直なんだね。大丈夫、信用してます」
そういって彼女はリーの懐に入りこんできた。最初の頃よりもべっとりと体を預けるようになっている。前はよそよそしいように、身を引きながら体を合わせていたものだが。
「ちゃんとリー君が欲しがっているお土産も手に入れてくるからさ。ね?」
そういって葵は首を傾けながら、自分の携帯を取り出して振った。そこにはリーと同様の形をした白の勾玉のストラップがついている。
「本当にあれば、ですけどね」
リーは頬を緩めながら頷いた。
「葵さんに茜さんが持っていたのは確かですが所詮伝説です。本当に勾玉が四つあるとは限りません」
「……はぁ。本当に歴史バカなんだから」
葵は舌を出してリーを威嚇した。
「私が一番だっていったくせに。本当は私が旅行に行くのが嬉しいんじゃないの?」
「まさか。そんなはずはありません。本当はとっても寂しいんですよ」動揺を見せずに声色を変えて告げる。
「……ほんとに?」
「……ほんとに」
彼女の瞳を見ながら口づけをする。すんなりと彼女の唇を射止めてから徐々に下半身へと手を伸ばしていく。最初の頃は羞恥心の塊だったが、最近では自分が望むようにまで心を許してくれている。
いつもの手順で葵の弱い部分を付け狙い、葵が喜ぶところを愛撫した。すると彼女から再び不満の声が上がった。
「……もう。なんかリー君っていっつも同じ仕方よね? あんまりしたくない?」
「そんなわけないでしょ」
リーは首を振った。
「葵さんとしかしたことないんだから、手順が変わらないのは当たり前です」
「……そう? それもそっか」
葵は体を合わせる行為でも一つの手順では満足しない。
……本当に、女性と付き合うのは難しい。
彼は心の中で再び大きく溜息をついた。
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