鬼灯の夜
石崎
前編
古い建物には何かがいる。
獲物を狩る前の猛獣のように、息をなだめ、気配を殺し、こちらを窺うように何かが潜んでいる。
いかにもとってつけたような三流の文が、南雲の頭の中に唐突に浮かんだ。
時は夜、空は藍染で上手く色が出なかったように濁っていて、中途半端な月光が分厚い雲から流れ出している。時折風が吹き、そのたびに南雲は何か冷たいものを感じていた。
そんないかにもな状況に、いかにもな建物があった。
大きな鉄の扉は閉じることが出来なくなったのか半開きで、閉まっているのに疲れて開いてしまったように見える。とれかけた看板に、塗料がはげ落ちた壁、枯れかけたような草が所々コンクリートを破って生えている。
一言で表すなら、不気味だろうか。まるで怪談にまみれたいわくつきの病院か何かのよう――だが、ここは病院ではない。
南雲は手元の懐中電灯を、今にも取れそうな有様の看板に当てた。
『鬼灯ランド』
ひどく場違いなポップな字体が、そこにそう踊っていた。
南雲、彼はなぜここにいるのだろうか。
肝試し、ではない。彼にはそんな趣味も、言い出す友人も存在しない。南雲がここにいるのはその逆というのが正しい。
「ボロボロだな」
毎度毎度のようにそうつぶやく。
それは悲しむような、懐かしむような憂いを宿した言葉だった。かつて人々を喜ばせてきた場所のはずが、もうここまでさびれている。その無常さに心が痛む。
南雲は懐中電灯を揺らしながら、何気なく灯りをゆらし固まった。
『ユージ、トオル、ここまで来たぜ! 七月十日』
ご丁寧に日付まで入っている。塗料の落ちた壁に、マジックペンででかでかとそう記されていた。
どうもごく最近の物らしいが、これを戦績として晴れ晴れしい気持ちで書いたであろう彼らとは違い、南雲はほんの少しの怒りと大量の呆れを覚えた。心なしか頭痛もするような気がする。
実はこの場所は、心霊スポットとしてひどく有名な場所であった。
なんでも、オーナーの息子か孫が非業の死を遂げてここに出る、という話らしい。
ちなみに、そのオーナーの息子、南雲の父親は現在ぴんぴんしている。つい先日も、やはり懐かしいものが有るのか、夫婦でこの廃遊園地を訪れていた。
南雲が廃遊園地を巡回するのは、不法侵入者の肝試しの人を追い出すのと、入って出られなくなった人を助けるためである。
廃遊園地であるここは、建物の寿命の関係上、歩いていると穴が発生したり、入ったら出られなくなる部屋といったスポットが少なからず存在する。
先日も南雲は二日間閉じ込められた哀れな不良少年を救出したばかりだ。彼は相当パニックになっていたらしく、こちらを見るなり青ざめて『幽霊だ!』と叫ぶと、飛ぶように逃げていった。理不尽な気持ちになったのは書くまでもない。
と、南雲は足を止めた。灯りが一つ、ミラーハウスの方から見える。不思議なことに光は動いてはいない、肝試しではないのだろうか。
「すいませーん」
ため息をつきながら歩きだす。また、不良少年か肝試し御一行かと思うと気が重い。
「ん?」
いたって普通にその人物は振り返った。その冷静さにむしろ南雲のほうが驚いた。
たき火の傍にテント、テントの開きかけの入り口からは寝袋等のキャンプ用品が見え、そこから僅かに視線をずらした先で長い髪の人物がカップラーメンらしきものを食べている。念のため、ここはキャンプ場ではない。廃遊園地だ。
一瞬、南雲は呆気に取られてしまったが、すぐにそういう場合ではないと思い返す。
「あの、ここは私有地なんですけど」
「だろうね」
のほのほとまるで緊張感のない声が返ってきた。
ラーメンを食べている顔は、猫か狐のようで男とも女とも判断できなかった。声からして男だろう、多分。
「何しているんですか」
「何しているように見える?」
「……キャンプ」
「ピンポン! 大当たり!」
実にうれしそうに男が手をたたいた。
まるで子供のような無邪気な動作だ。疲れる。
「ここはうちの私有地で、キャンプ場じゃないので」
「うん、でもキャンプをしたくてね」
「……よりによってこんな所でする必要性はないだろ」
敬語が溶け落ちた。もう、どこから突っ込めばいいのか分からない。
「君は肝試しの人かい」
「を追い出すほうの人だ。ここの所有者の孫」
「へー、度胸有るね」
男がラーメンを一息にすすった。
「僕は狛江葵。自由業のようなものをしていると思って」
「俺は南雲武志。……狛江さん、キャンプ気分は味わえただろう。帰ってくれ」
「えー」
間延びした不満げな声が返ってきた。
明らかにとるべき反応が違うと思うが、南雲が何かを言う前に彼はすぐにその顔色を変えた。
「南雲君、ここの事詳しいでしょ? 案内してよ」
「……なんでそうなった」
いかにも名案を思い付きましたというキラキラした顔だった。
「丁度いいかなぁって。せっかく来たんだし、南雲君も見回りにお供がついてくると思えばいいでしょ」
「俺は桃太郎か」
「それじゃあ数が合わないよ?」
狛江が心底不思議そうに首を傾げる。
気にすべきところはそこ以外にもあると思うのだが、面倒なので南雲は言及を避けた。代わりに一言だけ、嫌味のつもりで言う。
「お前、変なやつだな」
狛江はまた不思議そうに眼を瞬かせた。
「君よりは普通だと思うけど」
狛江はそこでへらりと笑う。
無邪気にも見える満面の笑顔だったが、何故か南雲は得も言われぬ気味の悪さを感じた。
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