入江桜里
わたしはジャック。ひとつ前の名前は入江桜里。その前の名前は忘れた。いくつも名前が転々としているせいで自分でもよくわからない。けれどわたしの名前など些細なこと。今わたしはこの男と対峙するためにこのジャックという演目に興じていた。いや、今まで生きてきた。
あゝ、嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。この世界になって、なにかが変わる。わたしの予感は間違ってなかった。それでこそ同級生殺しのわたしが罠かと思える警察組織への誘いに乗った甲斐がある。それにこの優男が思いもがけない成長をしてくれた。最初は演じるだけの力を持たされただけで、小蠅にすら殺されそうな男だった。ダークヒーローだと聞かされた時の薫の印象は役割だけ与えられただけの男だった。実際に会ってみて印象は変わった。薫は病んでいた。それも一線を飛び越えるという概念すら持っていなかった。ただ自分にできるかどうか、その一点のみが問題でやれてしまえば罪悪感もなしにやり遂げる。その時点でわたしは心からの賞賛を贈ったね。わたしに似た人がいて、嬉しくもあった。悔しいのは同質のものを持っているだけで、同類ではないってことだ。例えるなら同じ大きさのボールを持っていたとしても、行う競技が違うというのがピッタリくる。まさかそれが核戦争を引き起こして顔色一つ変えなくなるとまでは思わなかったが。
そうそう、役持ちといえばあのマイティマンとかいうおっさん。アレはいけない。アレはもっともわたしから遠く、もっとも嫌悪する人種だ。
それに比べて目の前のこの男は素晴らしい。強いのもいいが、それ以上に自分の世界を確立している。いや、違う。わたしと同類なのだ。確立ではない。孤立しているのだ。社会的にではない。心情的にだ。誰と話しても、笑い合っても終始違和感を覚える。唯一充足するのは人を人と思わないで行動した時だけ。自分が世界の中心と思える時だけ。
そして口にした「その通りだな」はまさしくわたしも同じことを考えていた。理不尽を潰すにはより理不尽をぶつけるしかない。それが摂理っていうものだ。いつかの同級生にやられた暴力も、血で返させた。もっともそれ以降は一方的に理不尽を与える側だったけど。
「そんなのおかしいよ! みんなで助けあって生きていくもんでしょ!」
ズレてなさそうな女の子が声を上げる。わたしはおかしくてついつい余計なお世話をしてしまう。
「わたしたちは世界がどうなろうが興味がないんだよ」
「そんなはずないから! ねえ、薫くん!」
「……どうでもいい。けど、ごめん。痛くはしないから少し寝てて」
薫は手を伸ばし、女の子の頭を鷲掴みにする。あの子も気を失わされるのか、ネームレスの立場でついてきた子を不憫に思う。いつまで気を失うことになるのだろう。薫の気分次第で一週間、一ヶ月いくらでも寝たきりになってしまう。
それにしてもどうやったらあんな真似ができることやら。わたしらみたいなネームドには効かないっぽいけど。
「やめ――」
それから数秒の沈黙。目を強く瞑った女の子は恐る恐る片目を開いた。そう開いたのだ。
「……なにかした?」
訳がわからないといった様子で薫のことを見上げる。薫も初めてのことに目をぱちくりさせていた。
わたしはたまらず声をあげて笑う。
「まさかネームレスがなんともないなんてね! アンタ、最高! お礼に答え教えてあげるよ。アンタを気絶させようとしたのさ!」
あゝ、今日は最高だ。面白い展開ばかり起こる。しかもメインディッシュはまだ残っている。けど、メインディッシュはもう少しお預けだ。薫がどうこの女の子を相手取るのか見ものだ。メインディッシュの彼も静観の構えだから、じっくり見学させてもらおう。
「あの人が言ったこと本当なの?」
「……本当」
「ふっざけんなぁっ!」
女の子が思い切り、薫の腹に拳を突く。大きくめりこんだ拳に薫は嗚咽を吐いて倒れる。仰向けに倒れた薫に、女の子はすぐに馬乗りになって胸ぐらをつかむ。
「なんでみんなが不幸になるような真似するのさ! こんなことしたって何も変わりやしないよ!」
薫は目をカッと開く。それはわたしが短い間で初めて見た瞬間だった。
「数年ぶりに学校に行ったら昔いじめてた奴がすりよってきた時の気持ちがわかるのか! 顔が良いってだけで過去に同級生を何人も不登校や自殺に追い込んだやつを排して何が悪い! 僕が満足するためでも良い。そういうやつらがいなくなって初めて浮かばれる人もいるんだ!」
「こんの――バカちんがぁっ!」
殴った。顔面を。
「それはカオルンの勝手だけど、あたしだってカオルンが変なこと始めたって聞いて心配したんだからね!」
女の子は泣いていた。ボロボロと大粒の涙をこぼして。
「……ならどうすればよかったか教えてよ。ようやく復讐できる力持ったのに。そこの男みたいに強くない僕がどうすればみんなを救えたのか教えてよ……」
薫もまた泣いていた。
「そんなのあたしだってわかんないよ。けど友達じゃん。……相談してよ」
泣き崩れる二人。期待した割には肩透かしな結末だった。いずれは美談にはなりそうな展開ではあるけれど、いささかツマラナイ。ここでどっちかにナイフを突き立てたらどうなるだろう。女の子を刺したら、薫が死に物狂いでわたしを殺しにくるだろうか。薫を刺したら、女の子は恐怖のあまり失禁してしまうだろうか。久しぶりにどちらにしようかなとでも神様に答えを委ねるのも悪くない。
「おい、変な真似すんなよ」
メインディッシュから忠告を受ける。そうだ。放置して熱が冷めてしまう前にいただこう。
「待たせたね。……さて、やろうか」
殺す気でいくからなんて野暮なことは言わない。同類のわたしらにはそんなの暗黙の了解で分かっているから。この騒動にせしめて手に入れた軍用ナイフを逆手に構える。対する深琴は無手。構えはない。ツカツカと歩いて距離を縮めてくる。あまりに大胆不敵。けれどご挨拶ならば返さないのは無礼にあたるだろう。
構えを解き、わたしも歩く。だんだんと距離が狭まる。私の手が深琴に届く距離に入る。瞬間、喉元にナイフをを突き出す。
「ご挨拶だな」
その拳は片手で止められた。
「ご挨拶だよ」
拳を回して、それを振り解く。空いている手で振り解いた腕を掴み、引く。そのままわたしは外回りに身体を回し、深琴の背中にナイフを突き立てようとした。だがそのナイフの軌道の内側に深琴は移動していた。そして、私よりも狭い孤で脇腹に肘打ちを繰り出された。
重い衝撃が内蔵に伝わる。嫌な音も芯から伝わった。肋骨の数本はこれで折れた。そのまま湧き上がる嗚咽に負けて座り込んでしまいそうになる。横っ飛びして、懸命に深琴から距離を取る。
「よく笑っていられるな。痛くないのか?」
不意にそんな言葉を投げ掛けられた。顔を触ると、たしかに歯を剥き出しにして笑っていた。何故か。決まっている楽しいからだ。きっと絶対に壊れないオモチャを手に入れたら、こんな気分なのだろう。
「……ハ、イになっ……てるってことだね」
呼吸がおかしくなっている。言葉を発しようとすると息が大きく漏れる。
「話すな。辛いんだろ?」
「や、さしいんだね」
「自分がやったことだ。心配ぐらいするさ」
「いいね。ほれた。あ、いしてる……ぜ」
わたしはナイフを順手持ちに切り替える。いわゆるセイバー・グリップと呼ばれる持ち方だ。逆手持ちは力が込めやすい反面、可動域が狭い。順手はより可動域が広くなり、斬撃一つ一つが素早くなる。わたしは大きく踏み込む。体に激痛が走る。動くなと理性が叫ぶ。本能がそれを無視して、黒い刃を深琴の胸目掛けて突き立てる。
それは空を切る。深琴は突き立てた腕の外側に半身をずらして避けていた。だがそれでいい。わたしは勢いそのまま深琴に体ごと当たりに行く。そのまま倒れこんで、ナイフを上から突く――その予定だった。だが、深琴は微動だにしない。それでいていつの間にか避けたはずのナイフを持つ腕が握りしめられていた。深琴はそのまま肘に体重を掛けて、わたしの肘を折った。
力が入らなくなった手からナイフをはたき落とされ、わたしは放り投げられた。
地面に叩きつけられ、頭を強く打つ。焦点すら合わなくなり、込み上げるような不快感が新たに生まれた。
「大丈夫か?」
宙にただ放るっていう危険な投げ方しといてよくいう。
悲鳴を上げる体に無理やりいうことを聞かせて立ち上がる。全治何ヶ月かかることやら。
「……へ、んじは?」
一瞬、顔をしかめるもすぐに心得る。
「悪いな。待たせてるやつがいるんだ」
「そか、なら愛人でもいい、ぜ。旦那」
わたしはその場に倒れる。
「……そ、だ。言わなきゃいけないことがあんだ」
旦那は「締まらないな」と言いつつ、近づく。耳打ちして朦朧とする意識の中、まぶたを閉じる。
「後ろの坊っちゃんのことは任せた。あとで借りは返すから」
薫はわたしとは違うが、過去のわたしと一緒だ。だからこそ変わっていくその様は見てて面白かった。だから泣きべそをかく薫は見ててもどかしい。過去のわたしならもっと堂々としろと罵りたくなってしまう。だからわたしはその役目はできない。わたしは戦士で、司令官ではない。そんなわたしがその役目を仰せつかったらただの八つ当たりの命令を繰り返すだけになってしまう。人間、身の丈に合った生き方をすればいい。まあ、それすらも難しい世の中だけど。
旦那の声がする。
居場所を守るには、居場所を作るには、という薫の問いの答えだ。
「覚悟するしかない。全てを手に入れる覚悟だ」
わたしは安心して意識を手放した。
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