新崎薫

 目の前で一人の男が倒れた。女性から鞄をひったくった輩だった。それは誰の目からしても、間違いようのない『悪』だった。だから、力を行使した。世を乱す輩はこうなるべきなんだ。こういう奴がいるから僕みたいな弱い人間は追いやられる。

 ヒーローが治安維持する世界は素晴らしい。正義を胸に行動することが正義とされる。どんな正義かなんて関係ない、ただそうあるべきものとして行動すれば少なからず賛同者が現れる。そう、あの時は冷めた目で見られるだけだった。絵の具を食わされ、テストの時には文房具を隠され、階段から落とされてもただこれ以上酷い目に遭わないように笑みを浮かべていた。そんな僕のような人間は増やさない。

 踵を返し、その場から去ろうとした。突然倒れた男を心配する者、引ったくりだと知っているが故に男の身柄を捕らえようとする者、そこは混乱に溢れていた。

 その中に一人だけ僕のことを顎を摘みながら黙って見ているスーツの男性がいた。僕と同じぐらいの長身だが、肩幅が倍近くあった。虚弱体質の僕のことを馬鹿にしていた柔道部顧問と同じ雰囲気があった。気安さと馴れ馴れしさを履き違えていそうなところはそっくりだった。

 男は近づいてきた。非常に大きい一歩は自信に溢れているようで、大胆不敵に距離を詰める。逃げることに意識が向いた時には、僕の足はひどく強張っていた。どうにも言うことを聞かない。根でも張ってしまったかの足の裏がアスファルトから離れようとしなかった。

 目の前に男が立つ。身長は大して変わらないというのにやけに大きく見えた。単純に肩幅で総面積が違うのだろうけれど、猫背な僕と違って胸を張れる自信の差がそれに現れているように思えた。男は肩幅が強調されたスーツから伸びた腕を僕に伸ばす。刻み込まれた叩かれる恐怖から反射的に目を強くつぶる。少ししてやってきた感覚は痛みはではなかった。暖かみある重みだった。

「君が犯人を捕まえたのだね。よくやってくれた」

 バンバンと肩を叩かれる。それは今まで体験した痛みと違い、嫌な気分にも、何も感じなくなっていくものとも違った。だが、真綿で締めつけられているような息苦しさを知ることになった。

「けれどアレはやり過ぎだと思うがね」と男性は倒れた引ったくり犯に目を遣った。

「君ならば穏便に済ますこともできたと思うがね」

 この男は全てを知っている。逃げるべきか、引ったくり犯と同じように倒すべきか。判断に迫られる。だが、この男にはどちらも通じないビジョンが見えてしまった。どういうわけだか悪には通じた力が、この男には通じるとは思えなかった。

「おいおい、そんな怖い顔しないでくれ。別に捕まえようとかは思っていないよ。同じヒーローとして少し話がしたかっただけだ」

 男は肩をすくめて、両手の平を僕に向けて敵意がないことを示す。それを見て、締め付ける真綿が緩んだ気がした。

「……やり方を変えるつもりはないですよ」

 それでも相手の目を見ないで言う。見ていたら反対意見を言う恐怖に耐えきれなかった。口に出したあとも何か気に障ってしまったのではないかと顔を見れずにいる。

「うむ、構わない。ヒーローはそれぞれの信念を持って行動しているからな。だがどうしても相容れない価値観は今戦うこともあるから気をつけたまえ」

「あなたは相入れるというのですか?」

 男性は声を揺らす。

「相入れはしないが、許容はできる。あり方は正反対だが、君は弱いものの味方みたいだからね」

 男は豪快に笑うと「それでは私はある女性の誤解を解かねばならないので失礼する」とヒーローでありながら世知辛いことを言い残して去っていった。

 男が見えなくなるのを確認すると真綿がようやくなくなった。深呼吸し、今度こそその場から離れようとする。その際、横を通り過ぎた男たちが親子を見失ったという会話が聞こえてきた。どこかきな臭い匂いがした。

 以前までなら聞かないフリをしたに違いない。けれど力を得た僕にそれはできなかった。気が大きくなった自覚はある。けれど本質は変わらない。観察に徹し、彼らが悪に手を染めた時、影から正義を下す。表には決して出ない。報復を恐れ、正々堂々と戦う勇気のない臆病者だ。だが、それでいい。やることさえやれば味方は増えていくのだから。

「……僕は弱い者の味方じゃない。悪の敵だ」

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