野崎千恵

 走った。ええ、変質者と出会うなんて初めての経験でしたからそりゃもう力一杯走りました。女の子一人担いで走るなんて経験ありませんでしたから息は切れ、汗は止めどなく流れてますよ。そのおかげか、それとも普段の行いが品性高潔なためか気づいた時には逃げ切れていました。

 担いた少女は上下に揺らぶられたせいか目が点になっていた。

「大丈夫だった?」

 黙って頷いた。いや、黙って頷くことしかできないと見れる。両手で口を抑え、リスのように危ういもので頬を膨らませていた。

 慌てて少女を下ろし、背中を擦る。「吐いたら楽になるから」と吐くように勧めたけれど、どうにも女の子としての意地が許さなかったらしく、溜まったものを喉元に押し戻した。

 口元を拭き、息を整える少女に腰に携帯していたペットボトルを差し出す。

「これ中身スポーツドリンクだから、気持ち悪い時飲みにくいかもだけど口ゆすぐくらいなら十分だと思うから」

 受け取った少女は飲み口に口を付けずに、一口分含む。数回ゆすぐと、側溝にペッと吐いた。

「ありがと」

 ペットボトルを返してくる。少女の目に光が戻っていた。

 少女が元気になったことに胸を撫で下ろし、キュンキュンする胸を押さえつけ、これからのことを考える。一人でこの子のお母さんを捜してもいいのだけれど、いつまたあの変質者が出るかもわからない。とりあえず警察に向かおう。困ったときの正義の味方、困っていない時は余計なお世話の警察に助けてもらおう。普段迷惑かけられている分、迷惑をかけてやろうではないか。

 よし、そうと決まれば善は急げだ。

「それじゃ、いこっか」

 少女の手を引いた。

「どこに行くの?」

「うんとね、交番」

 黙って引かれていた少女が固まった。

「やだ、行きたくない」

 聞き分けのいい子だと思っていたら突然の反抗期。いったいどうしたことやら。

「大丈夫だって。別に悪いことしたわけじゃないんだしさ」

 努めて明るい声で諭した。けれど、少女は石になったままだった。

「……どうして行きたくないの?」

 少女は黙りこむ。あたしにも幼い頃黙りこむ癖があった。怒られている時や、自分に都合が悪い時、もしくは言っても信じて貰えない時だった。

「あたしは大丈夫だから、話してごらん?」

 逡巡した少女は、あたしの袖を引っ張る。

「……ダメ。お母さん、なにもしてないのに追いかけ回してる」

「お母さんが?」

「うん」

 子供というのは存外大人が思っている以上に大人だ。その子供が導き出した答えは当てにならないと捨てきるわけにはいかなかった。けれど、どうして何もしてないのに追いかけ回しているのかという疑問符が頭に浮かぶ。

「ねえ、いつからお母さんは追いかけ回されてたの?」

 指を折り曲げ、数えていた。五本の指を使い切り折り返し、二本目の指を使い始めたところで動きが止まった。

「ななにちまえから」

 一週間前といえば怪人やらヒーローとやらが世間に突如浸透した頃合いだ。

 あまりにも当たり前のように扱われ、自分になんの不都合もなかったからか特に問題にも思わなかった。けれど、その弊害を初めて目の当たりにした。目が届かないところで困っている人がいても「大変だなぁ」で済ませているあたしでも、目の前で困られて見捨てられるほど人間できていないわけでもない。

 あたしは少女を抱き寄せた。抱き寄せたあとで「ランニングあとで汗臭かったかもな」と頭をかすめたが、気にしないように抱きしめる力を強めた。

「あたしがなんとかするから大丈夫」

 少女は小さく「うん」と涙声で体を預けてくれた。

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