岩永深琴
鼻腔を温かみのあるスッキリとした薫りがくすぐる。暗い木目調の店内にはゆったりとしたレコードが流れていた。
俺は重い脂の匂いが敷き詰められた牛丼屋ではなく、助けを求められた四十路近くと思われる女性と喫茶店にやって来ていた。以前、芽衣とともに来店したこともあるところだ。まさかこんな朝早くからはやっていないだろうと思っていたが、予想に反してくれた。なんでもマスターのご老人が早起きだから、無駄に早い開店時間だそうだ。
珈琲とサンドイッチを頼む。牛丼の二倍の値段に辟易する。なんだってこんなことに巻き込まれなければならないのか。ヒーローなんて誰かが決めたこと。無視してしまえばいい。ならば、何故しないのか。
ああ、忌々しい。甘いのだろう、自分はきっと。自由になるためにこんなところまで出てきて、やっていることーーいや、やらされていることはあの頃となんら変わらない。人の為と綺麗事をのたまわれ、それを断れない。
「それで何を助けてほしい?」
イライラする口調を至極平坦に抑えて訊いた。
「実は……」
そこで言い淀んだ
眠気のせいか額に青筋が浮かびそうになる。
「こちらがエスプレッソになります」
ご老人が珈琲を並べる。そうして俺の顔を見て、柔和な笑みを浮べる。
「ヒーローたるものイライラは大敵ですぞ」
聞き流し、珈琲をすする。ご老人は気にした様子もなく続ける。
「助けるだけなら誰でもできます。大事なのは助けを求められることですよ」
「逆じゃないのか?」
妙なアドバイスをもらってしまい思わず返答してしまう。
「いいえ、これがあるべき姿です。求めるから助ける。求められてもいないのに助けるのは、誰であってもお門違いですよ」
「困っている人がいたら助けるべきと小学校で教わったがそれについてはどう思う?」
意地悪な質問にもご老人は柔らかな物腰を崩さない。
「困っても助けを求められない人間もいれば、どんなに困っても助けを求めたくない人間もいます。そんな人達でも助けを求められる人間が唯一ヒーロー足り得るのですよ」
うまく返された、と納得しかけた。だが、ふと気にかかる。
「それ質問に答えてなくないか?」
「さて、なんのことでしょうね」
とぼけたご老人は踵を返してカウンターの向こう側へと戻っていく。体よく遊ばれただけだと結論づけ、改めて片付いていない問題に向かい合おうと心に決める。
「もう大丈夫か?」
「……はい、もう大丈夫です。ご迷惑おかけしました」
答えたその声はか細いものであった。このまま何から助けて欲しいのかを聞き出す前に心労で倒れてしまうという限りなく確信に近い不安を持った。
「それじゃ、何があったのか話してくれ」
そこで再び会話が途切れる。言葉を紡ぐために言葉を捜していた。
今度は言葉を待った。待つ間、先ほど言われたことを考える。助けを求められることがヒーローの資質だと言われた。逆説的に言えば、力があってもヒーローではないということだ。だが力がなければ人を助けられない。助けを求められる資質というのはヒーローである必要条件であって、人を助けるための必要条件ではない。
ならば何故俺に助けを求めた。ヒーローだから、でほとんどの問題が片が付く。まともなシナリオならそれ以外の理由があるはずだ。そこに読者が納得できる理由がなければ物語のもの字も書いたことがないド素人が書いたものだ。
空気が震える気配がした。女性が何かを言わんとしているのを感じ、思考を女性の発する声に傾ける。
「追われているのです」
漫画ではこのパターンはいくつか思い当たった。組織に追われていたり、面倒くさい人間関係で追われていたり、ファンタジー要素が入っていたりするとモンスターなんてものもある。どれも解決するまで問題がつきまとう。ゆえにそこは目を瞑る。問題は解決時間だ。人間関係で追われているのならば最短一時間で済む可能性がある。最悪なのは組織だ。拘束時間は最短で一日から最長で数年単位まで掛かる。作品のものによっては世代を跨ぐことすらある。
「誰に?」
心から願う。一日で終わるものを。
「ある組織です」
心から嘆く。面倒臭え。
「……それについて詳しく話を聞く前に答えて欲しいことがある。どうして俺に助けを求めたんだ?」
女性は初めて間を置かずに答える。
「一目見て、ヒーローだと直感したからです」
このシナリオはド素人以下のものだった。
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