新崎薫
きっと僕は早く死なないと壊れてしまう。
そのことを改めて思い知らされた。人通りが少ない夜道ならどうにか一人で出歩けるようになった。だからここに来れる日は丑三つ時に家を出て、徒歩で向かっている。そうして皆が揃うまでひと眠りし、ようやく出会うことができた心許せる友人らと共に過ごす。それだけが僕が壊れずに生き長らえているただ一つの理由。
ところが今日、中居さんに起こされたと思ったら見知らぬ二人がいた。訳の分からないことを尋ねられた。何を訊かれたのか覚えていない。ただ精一杯訊かれたことに答えていた。中居さんがフォローしてくれていた気もするが、そのことも覚えてられないぐらいにテンパっていた。
昼食にも誘われた。だが断った。知らぬ者と同じ空気を吸うことに耐え切れなかったから。仕事であれば己をどうにか奮起することもできた。僕を守ってくれるマネージャーも近くにいるから。ただそれをやるにも入念な心の準備が必要であった。そして、いつも心をすり減らしたせいか熱を上げていた。
今もソファの上で流した脂汗が引くのを待っていた。
帰ろう。
まだ日が高いうちから外を出歩くことに不安がないと言えば嘘になる。むしろ、吸血鬼の如く日に焼かれてしまうのではないかという錯覚までしてしまいそうだった。ただ、ここで二人が戻ってくるのを待って再び心をすり減らすよりは、多少の無理を押してでも自分の部屋という名の居城に籠していた方が多分にマシだった。
一人の外出は怖かった。
身を守ってくれる人がいないのは背筋が凍る思いだった。それを普通の生活を送れている人が聞けば一笑に付すものである。こんな当たり前のことがどうして怖いのだ、と。普通の生活を送れなかったからだと答えるしかない。
だから、人が怖い。言葉が怖い。布団を被り、呪詛のように死にたいと願う日もあった。そんな僕が周囲の支えでここまで社会復帰できたことは感謝している。でも何かの表紙に身投げしてしまいたくなる衝動に駆られる。世界が滅びることを望んでしまう。
外へと続く扉の前に立った僕は、呪詛を吐く。大丈夫と世界に対する恨みつらみを込めながら。
扉を開く。
陽気を纏った風が吹き抜ける。
ただそれだけのことなのに足が竦んだ。
早く帰ろう。
地面ばかり見て歩き始めた。
それがいけなかった。向かいから声がした。我が物顔で街を闊歩する不良らのものだとすぐにわかった。下を向いていたせいで気付くのが送れてしまった。限界まで道を譲り、どうにか事なきを得ようとした。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
――通り過ぎていった。気付けば手の平には爪が食い込み、尋常ではないほどの汗で濡れていた。緊張が抜けていくのがわかった。まだまだ苦難は続くにしても、最大の苦難は去った。どうにか家まで平穏無事に辿り着けそうだと希望を持てた。
「さっきの、新崎薫とかいう奴じゃね?」
そんな会話が後ろから届く。
心臓が絞まる。
早く立ち去らないと。
焦る気持ちと裏腹に足は竦み動かなかった。
後ろから肩を捕まれ、強引に後ろを向かされた。
「おう、やっぱり新崎薫じゃねえか」
声をあげたのは不良の一人。それは数人の仲間たちに自慢するように僕を引っ張り、突き出した。彼らの前に踊り出ることになった僕はやはり竦んで身動きの一つも取れない。不良らは僕を小突き回して遊び始める。
痛かった。やめて欲しかった。声が出なかった。遠くから見ている人と目があった。逸らされた。
「お兄さーん、モデルって儲かるんでしょ? 分けてよ」
最初に引っ張ってきた不良が口にした。喉が締め付けられたように声が出ない。それをだんまりと思ったのか仲間を煽り、殴る蹴るにまで発展した。
竦む足で逃げ出せず、その場で亀になって耐えるしかなかった。不良たちが笑い出す。僕のあまりの不格好さに。
泣きたかった。悔しかった。こんな尊厳の形もないような格好をさせられて、ただ耐えるしかない自分が情けなかった。
鈍痛が何度も襲い掛かる中、僕は願った。こんな奴ら全員死んでしまえ、と。
声が聞こえた。
耳に届くのではなく、直接脳内に語りかけられているような声だった。その声は一言「ならやればいい」と告げた。
気付くと新たな痛みがやってこなくなっていた。
顔を上げると、不良たちは胸を抱えて悶え苦しんでいた。
わけもわからず、でもチャンスだと考え、急いでその場から離れた。
脳裏にはあの誰かの声が残っていた。
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