岩永深琴
網膜に焼き尽くせなかった、それが今の心境を語るのに適当な言葉だった。
あの裸族が部屋の奥へと慌てて退散した後、芽衣にリビングに通された。水色チェックのクロスが掛けられたテーブルの前へと案内され、椅子に座って寛ぐよう芽衣に言われる。身内の恥を知られてしまったからか、恥ずかしさが赤みとなって表に出てきていた。恥ずかしさからなのか、それともふつふつと湧いてきた怒りなのか芽衣はその言葉を残して裸族が逃げた先へと早足で歩いて行った。
睦月と自分は言われるまま深い木の色をした椅子に腰掛ける。睦月の唇は裸族を見た時から始終歪んでいた。加えて視線が俺の一挙手一投足から離れようとしない。これはどうも俺の反応を見て楽しんでいるということみたいだ。
その視線に怪訝な目で応えた。
「眼福だったね」
「お前はな」
「女性から見ても可愛らしかったとは思うけれど、君は男色家なのかい?」
「怒るぞ」
「住所実家に教えてもいいかい?」
「ああ言えばこう言う」
「君の幼馴染を務めるんだ。これぐらいはできないとね」
抑揚のない声ながら睦月は微笑んだ。その声と表情から、睦月の感情がどこを向いているのか検討もつかなかった。
「それにしても広いマンションだな、ここ」
話題を変えた。やけに開放的な家だった。今いるリビングですら、我が家であるマンションの五倍近くは広かった。それに加え、何部屋か他にもあるというのだから芸能人の資金力には驚きを隠せない。
「僕らの実家に比べればなんてことのない程度だけどね」
「実家暮らしめ。大変なんだぞ、毎月の家賃捻出すんの」
「まったく、愚痴るぐらいなら帰ってくればいいのに」
「俺にも意地ってやつがあんだよ」
「意地しかないくせに」
二度目の『ああ言えばこう言う』を心中でつぶやき、他に変える話題がないかを探す。
「そういえばあのおっさんはヒーローなのか?」
「ああ、鈴木のことかい。彼は今世間じゃ知らない人はいない大人気ヒーローみたいだよ」
「みたい?」
「ここ数日で僕も大きく世間擦れしたみたいでね。あまりヒーローというものについてわかっていないんだよ。――それにしてもこっちも驚いたよ。まさか君がヒーローになっていたなんてね。実家の親御さんも鼻が高いだろう」
「実家は関係ないだろ」
「それが通じるような規模の家柄じゃないだろ。僕の家も君の家も」
返す言葉はなかったが、その受け答えに安心した自分もいた。睦月はしっかりと現実に足がついていた。ヒーローなんていなかったという認識を共有することができる人が増えるのはありがたい。それが気心の知れた仲だというのは感謝すべきことだった。ただ一つ文句を言うのなら、もう少し中身が大和撫子な幼馴染であって欲しかったぐらいだ。
「まあいい、あのおっさんもヒーローだったなら何か聞いていないか?」
「――とりあえず、そのことについては置いておこう。彼女らが戻ってきたしね」
睦月が顎で向こうを見るように示す。
そこにはジーンズと深緑のジャージを着込んだ裸族とそれを引っ張ってきた芽衣がいた。芽衣は裸族に頭を下げさせた。「すみませんでした!」と謝り倒す二人にどうしたらいいのかわからず「見なかったことにするからもういい」とこれ以上引きずるなという思いで投げかけた。
しかし、彼女らはそんな意を介さず、あろうことか裸族の方が「え、勿体無い。覚えといてもいいんだよ」とぬかした。芽衣はそんな裸族の頭を鋭角的に引っ叩く。裸族の頭が空っぽなのかえらい高い音がした。
「めんご。めんご」
裸族は片手で拝むように謝った。
どうしようもない弛緩した空気に睦月が切り込む。
「眼福だったし、それぐらいでいいよ。それよりも聞きたいことがあるんだ」
「なになに、この千恵ちゃんになんでも聞いてくだされ」
裸族はするりと芽衣の手から抜けると睦月の前に移動した。
「君はヒーローと怪物を架空のものだと思うかい?」
「むしろ今でも架空のものだと思ってるけど」
裸族は当たり前のことをどうして尋ねられているのだろうという調子で答えた。「そっちの子はどうなんだい」と続けて芽衣に尋ねる。
「そうよ。スーツアクター以外のヒーローなんてありえなかった」
「どうやら君たちも此方側みたいだね、安心したよ」
睦月はまるで自分の家のように「現状把握したいから座りなよ」と促した。二人は椅子に座り、さあ始めようかというところで裸族が手を上げる。
「二つほどいい?」
「何?」と芽衣が対応する。
「いや、何が何やらまったくついていけてないんだけど。この人たちは誰? それに大事な話するなら奥で寝てるあ奴は参加しなくてもいいんですかい?」
芽衣は両手でぽっかり開いた口を覆った。
「薫くんいるの?」
「いますよ。それもソファで寝てます」
「んー起こしてきた方がいいのかしら」
「起こしてこよっか? ただあ奴がここに現れるとは思えないけど」
悩む芽衣に俺は「他に誰かいるのか」と尋ねた。他に誰かいるならばどちら側の人間なのか確かめたかった。此方側ならば、いやあちら側であっても生の情報を得られるならば十分だった。それも此方側が圧倒的に少数だと思われる世界では、そんなことを町中で問いかけていれば頭がおかしくなったと思われる。それは避けたいと思うのは当然のことだ。
「うん、男性モデルの子が一人いるんだけどね。呼んだほうがいいかしら?」
「呼んでくれ。今は一つでも多く情報が欲しい」
「わかった。呼んでくるわね」
芽衣はすぐに戻ってきた。後ろにのっしのっしと肩を揺らす長身の男を従えて。その男は顔の一つ一つのパーツがガラス細工のような美しくも脆い蠱惑的な魅力があった。同性ながら、綺麗な顔をしていると思ってしまう。
男は俺らを見るなり、その巨体を芽衣の後ろに隠した。
「だ、誰ですか?」
縮こまる体躯の男に呆れて声も出せないでいると芽衣は男に「大丈夫だから、この人たち怖くないよ。悪い人じゃないよ」と小さい子をあやすお母さんのように優しく説得を始めた。
「いやはや、驚いた」とまったく驚いていないような口振りで驚きを口にした。続けて「まさか女優さんだけでなくて、未来の金メダリストと話題の不思議系モデルにまで会えるとは思わなかった」
「金メダリスト? モデル?」
「そこの二人は長距離ランナーとモデルだよ」
裸族と大男を今一度視界に収める。大男の方はモデルとしても納得のできる容姿であった。ただあんなに人を怖がって、視線を集める仕事ができるのであろうかという疑問が生まれた。裸族は正直なところ身軽そうではあるものの長距離を走れそうな強靭な足を持っているようには見えなかった。
「そこの裸族がランナーだよな?」
裸族を指さす。指差された裸族は胸を張った。
「あたしこそが今をときめき、未来に羽ばたくメダリススト野崎千恵だよ! えっへん」
「裸族の癖に」
「裸族じゃない! ちょっとばかし性的な悪戯が好きなだけだ」
この裸族は裸族ではなく、単にそのことしか考えていなかった。
「脳内桃色乙女が」
「おお、いいねえ。助兵衛なあたしがちょいと可愛らしく聞こえるじゃないか」
脳内桃色乙女と対人恐怖症の男。よくこんなのと付き合えるなと芽衣のことを尊敬した。
「もういい、さっさと座れ。説明してやる」
脳内桃色乙女は席につく。芽衣にどうにか説得されモデルも渋々座った。
「それでお兄さんや、そのヒーローってのはなんなんだい?」
俺は昨日と今日にかけて巻き込まれたことを説明した。芽衣を助けたところは桃色乙女の「やるぅ」という茶々が入ったが無視した。
「――そんなところだ。アンタはどっち側だ?」
ぼそぼそと男は音を漏らすように「ひ、ひーろ、なんて仕事知らなかった」と口にする。場の雰囲気で流されたようにも思えるが、わざわざ問いただすこともないだろう。見極めが必要となるが、どちら側かの情報は得られる。
「そうか。それじゃ何か今の話を聞いて何か気付いたこととか補足したいこととかはないか」
誰一人手も声もあがらなかった。互いにアイコンタクトで何もないよねと確認しあっていた。その中で睦月が「なにもないようなら君のことについて伝えなきゃいけないことがあるんだ」と進言する。
「なんだ?」
「本職ヒーローが言っていた君の扱いについて」
「俺の扱い?」
「そう。――ただ、長くなるからどこかで食べながら話そうか」
時計の針はもうすぐ十二時を示そうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます