岩永深琴
昨日のあの騒ぎが嘘のように川崎駅は日常を取り戻していた。実態は半裸のおっさんが暴れていただけだが、昨日怪人が現れたという設定なのだから厳重警戒でもしていると思いきや警官の一人もいなかった。
ヒーローが朝から職質もとい任意同行を求められたわりに、怪人には甘い世間だなと毒づきたくなった。もっとも自分に厳しい世間は昔からだったと嘆息する。
物陰に隠れた。
厳しい家庭で育ったため、幼馴染の言うことも警戒しなければならない。基本的には我が家の頼み事には二つ返事の幼馴染ゆえ、幼馴染の前に現れたと同時に取り押さえられる可能性がある。それも高いと見ている。
遠くを見渡す。
幼馴染がどこにいるのかを捜した。下手をすれば、取り囲まれ、地元に強制連行される可能性も無きにあらず。任意同行の方が生易しい扱いを受けるはずだ。
幼馴染――夏目睦月のことはすぐに見つけることができた。スキニージーンズにライダースジャケットというある時期から見慣れた格好が目に入ったからだ。緑の黒髪を流し、それに縁取られた小顔からは切れ長の瞳が覗いていた。長く流した髪は以前よりも長く、艶やかさを増していた。
先ほどとは違う意味合いで嘆息が漏れた。ミステリアスとも、深淵の令嬢とも言われた睦月はあいも変わらず綺麗なままだった。
その隣の男性に焦点を合わせる。
小柄な睦月の一回りも二回りも大きい、アメリカンヒーローみたいな筋肉が盛り上がった体躯をしていた。三十後半らしき男性は縦縞のスーツに身を包み、見方によっては睦月のボディガードのようだった。
きっとあれが助けてくれたという男性なのだろうと結論づける。ただ、睦月の家柄ならばあれぐらいのボディガードの一人や二人は連れていそうなので判断に困った。実際、似たような体格の世話役が実家にいたから余計にだ。
周囲を警戒する。
捕らえようと潜伏している者がいないかどうか嗅ぎ出そうとした。それらしいのは見つからなかった。
多少は信じてみようという方に気持ちが傾くものの、昔遊ばないかと誘われ出かけたら臨時の指導役を頼まれたことを思い出し、信じてみようという天秤の腕は上がる。もう少し下がり、さらに広く周りを見渡そうとした。視界の隅に見覚えのある人影が映る。直感的な何かが睦月の共犯者を気付かせてくれたに違いない。
漫画を書き続けている弊害を肌で感じつつ、よぎった人影に焦点を合わせる。
グレーのパーカーにチェックのフレアスカートを身につけ、手にはベージュの手提げ鞄をぶら下げた女性。栗色のショートヘアを手櫛で梳かす姿はとても可愛らしい。その可愛らしさは周囲の視線を自然と集めていた。その女性は中居芽衣だった。若手女優として知らない者はいないという彼女は引力めいた魅力があった。
芽衣と目と目が合う。
すると芽衣はこちらに駆け寄り、抱きついてきた。釘付けになった視線は芽衣を貫いて自分に突き刺さった。ズキズキと。
恥ずかしさから芽衣の肩を掴み、離そうとした。だが、そうすることはできなかった。
芽衣は泣いていた。瞳に涙をため、俺の胸を握り拳の底で叩いて感情をぶつけた。
「心配したのよ」
「……悪い」
連絡することをすっかり忘れていた。あまりにも間抜けなせいで余計な心配をさせてしまったことを謝ろうとした。
「ばか」
芽衣は続ける。
「ばか! 心配したんだから!」
胸を叩く強さが増した。
「本当に悪か――」
芽衣の肩越しに微小を浮かべる黒髪の乙女が見えた。睦月だった。
いじり倒す、というマイムマイムでもしているかのような自己主張がその微笑から垣間見えた。
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