岩永深琴

 女性をゆっくりとおろすと、床に座り込む。肩で息をし、壁に背中を預ける。

 無我夢中で走っていた。とにかくその場から離れることだけしか頭になかった。気がつけば、どこかの施設の中にいた。吹き抜けのエントランスホール、周囲にはチェーン系の飲食店が軒を連ねていた。白熱球の温かみのある光が建物内を照らしていた。

 目の前の女性は柑子色の光を受け、艶のある茶髪が一際その色合いを強めていた。そのフチの中にある瞳は憂いの色をしていた。

「おい、大丈夫?」

 女性が尋ねた。

「……大丈夫だ」

 呼吸を整え、答える。上手く呼吸が整わず、机に向かいっぱなしの生活を見直すべきだなと危機感を持った。

「感謝するわ、本当に助かったわ」

 女性は礼を述べると「ちょっと待ってて」と言い残し、どこかへ向かった。数分もせずに戻ってきた女性の手にはペットボトルのスポーツドリンクが握られていた。

「はい、これ飲んで」

 半ば無理矢理手渡されたペットボトルの封を切り、口にした。一度、口から離し、呼吸を整えると、一気に流し込んだ。体が水分を欲していたのか飲み干してしまった。

「助かった。いくらだ?」

 財布を取り出し、小銭入れを開く。大体百五十円ちょっとだろうと予想し、小銭が間に合うかを計算し、夕食代はいくら残るのかも計算してしまう。女性はそんな自分を見てとんでもないといった様子で大きく両手の平を左右に振った。

「気にしないで! これはほんのお礼よ!」

 このまま茶番を繰り返すのはナンセンスと結論付ける。

「――わかった。ところで聞きたいことあるがいいか?」

 ネタの一つとしての意味合いもあるが、何より好奇心で聞きたかった。

「なあに?」

「あの変態は一体なんなんだ」

 普通ならば正義感の強い誰か辺りにとっ捕まってすぐに終わるところを、あの男は捕まることなく、それどころか駅員ですら逃げ出していた。あの危険物の一つすら所持していないことが丸わかりな丸腰半裸もやし体型の中年男性一人に対し、その反応は異常が過ぎた。過敏症と例えても遜色ない様だったと踏みつけられた体が記憶している。

「……ごめん。わからないわ」

 うつむく女性を見て、つい先程襲われかけた女性にする質問ではなかったと反省する。

「悪かった。アンタに訊くことじゃなかったな」

「いえ、大丈夫です。――少しお話したいので喫茶店に行きませんか?」

 断る理由もないので喫茶店に向かうことにした。財布の中身に一抹の不安を覚えたものの、つい数分前に襲われかけた女性の誘いを断るのは些か良心が咎めた。その一方、今でも辿り着けていないだろう幼馴染の心配など一つもしていない。ざまあみろと内心ほくそ笑んでいる始末でもある。

 そりゃ親が遣わした使者よりは目の前の困っている女性だ。それに贔屓目なしで見ても、可愛らしい容姿である。お近づきになるかどうかは別として、話したいと言われるのは悪い気はしない。

 心の中の天秤が大きく傾き、その反動で幼馴染が投石機から放たれた石のように記憶の彼方へ飛んでいった。もといふっ飛ばした。そうして近場の喫茶店に二人で入る。老齢のマスターにラジオが流れているような昔ながらの喫茶店である。

 アイスコーヒーを頼み、一本足のテーブルに向かい合わせで座る。

「そうだった。まだ自己紹介がまだだったわね」

 女性は自分の胸に手を当てる。

「私は中居芽衣よ。よろしくね」

 人の良さそうな笑みで手を差し出される。あの恐怖で染まった顔とは違う、中居芽衣本来の良さが出ている笑顔だった。笑顔を観察していると、せがむように差し伸べられた手を揺らされた。慌ててその手を握る。

「岩永だ」

「うん、岩永さんね。覚えたわ。下の名前はなんていうのかしら?」

 深琴――そう言ってしまえれば楽なのだが、この名前だけはどうにも好きになれず人に言う時も戸惑ってしまう癖がある。それもこれもこの名前に込められた意味が自分の人生のレールにしか思えない。人にとっては至極どうでもいいことで、長い反抗期の一種であることも自覚しているがやはり嫌いなものは嫌いだ。

 そんなことを考えてしまっていると、言いにくい事情があるのかと勘ぐられたらしく「あ、言いにくい事情があるなら無理にとは言わないわ」とフォローしてくれた。今流行の素っ頓狂な名前だと思われたのか、それとも本名を言うとマズい立場にあると思われたのだろうか。前者だとするならば、いっそそこまで頭のネジがおかしい親ならば改名して新しい人生を送れただろう。後者ならば犯罪者疑惑を持たれるのはあまり面白いとはいえない。

「深琴だ。深いにお琴の琴で、深琴」

「なんだーいい名前じゃない。きらきらしてるかと思って焦ったわ」

 前者だったか、とハハハと愛想笑いして話を逸そうと頭を働かす。

「なんかラジオでニュース始まったみたいだな。ローカルだから、速報でなにかさっきの事件のことやってるかもな」

 あれから十分と経っていないのにやっているわけがない。そんな確信は二人してラジオに耳を傾けていると塗り替わってしまった。

 速報です。川崎駅に怪人が出現しました――そんな音声が静かな喫茶店に流れた。

 芽衣と顔を見合わせる。聞き間違いではないことを互いに理解する。そうしてどちらからともなく「どういうこと」と口にする。互いに答えはなく、自然とラジオに再びラジオを耳を傾ける。

「一人の人物が怪人を撃退。そうして襲われていた女性を救出。その人物は救出後、名を告げることもなくその場を離れた。怪人を倒せるのはヒーローとなる資質を持った類まれな人材です。その人物を見つけましたら警察などに一報をお願いします」

 頭が痛くなる内容だった。怪人だけでもお腹いっぱいなのに、ヒーローやら警察などが出てきて、無理矢理口に食べ物を詰め込まれているようだった。

「ヒーローってどういうことなのかしら?」

「俺が知るか」

 頭を抱えていると老齢のマスターが「お嬢さん、ヒーローとは怪人を倒すことができる唯一無二の存在。多くはこぞって名乗り活躍していますが、中には目立ちたく者もいるのですよ。ですから、これです」と人差し指を唇に当てる仕草をした。

「これなの?」

 芽衣は同じように人差し指を添えて尋ねてきた。

「身に覚えがない」

「良かった。私がどこかおかしいのかと思ったじゃない」

 胸を撫で下ろす芽衣。

「しかし、一体どういうことなんだ。テレビのドッキリだとしても悪趣味が過ぎるぞ」

 そんなことを口にすると、芽衣は何か考える素振りをする。合点がいったのか一人で頷いていた。そうして身を乗り出し話題に乗ってきた。

「そうよねそうよねっ。いくらなんでも悪趣味よね!」

 ドッキリだった場合を考えると、思いっきり飛び蹴りを喰らわしてしまったので間違いなく訴えられる。それを考えるとなかなかに肝が冷える。

「――ま、今日みたいなことはもうないだろうけどな」

 ネタとして使うには突拍子もなく、オチもなく、あるのは投げっぱなしの設定だけ。作り物の世界ならともかく、現実で続きがあってたまるかという気持ちが芽生えた。それは生来の意地みたいなものだった。

 唯一得られたこの女性との会話を楽しんで一日を終えよう。

 そう思い、アイスコーヒーのストローを揺らした。

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