狂った世界で正気な人々
中居芽衣
今日はオフだった。
去年一年間、ドラマや演劇、映画で引っ切り無しだった私は、今月久しぶりに長期のオフを取ることができた。その初日である今日は長らく会えていなかった二人の友人らの顔を見に行くつもりだった。
その二人とはテレビ番組がキッカケで知り合った。そのテレビ番組の内容は『日本全土が期待する若者たち』という名のえらく仰々しいものだったのを記憶している。私は役者代表。二人はそれぞれ男性モデル、長距離ランナーとして呼ばれていた。そこで私と長距離ランナーが仲良くなり、そこにたまたま居合わせた男性モデルが巻き込まれる形で友人となった次第だ。
友人となったはいいものの日本が期待するほどの若者らはなんだかんだ忙しく遊ぶ機会をなかなか持てずにいた。そこで考えたのは皆で一つの部屋を借りて、暇な時に各自勝手にその部屋に上がり込むというものだった。そして、善は急げで次の日には部屋の契約を交わしていた。
その時は良い判断だと思えた。
ちなみに私はえらく大雑把な性格だと周囲の人間はそう漏らす。
私は私自身が忙しすぎてその場に行けないことを考えもしなかった。だからランナーの女の子に「中居ちゃんはドジっ子だねぇ。そこがそそるねぇ」とお尻を撫でられてしまっている。ドジっ子という仲間内の評価とセクハラに甘んじている私は、どうやら世間様にも甘んじられてもいいと思われたみたいだった。
それはというのも今日という日を楽しみにしすぎて寝過ごし、慌てて乗り込んだ電車の中で起こった。上半身裸で、ランナーの野崎ちゃんがこの場にいたら「乳首がびんびんですなぁ」と鼻息を荒くしそうな――閑話休題、どこかの裸祭りに参加していそうな出で立ちの男性が電車の中に突如乗り込んできたのだ。
乗客は不審者が一人乗り込んだにしてはありえないほどに騒ぎになり、あれやこれやのうちに無人になってしまった。
ようは私は逃げ遅れてしまったわけで。
男性が鼻息を荒くし、両手で何かを揉むような仕草をしながら一歩ずつ近づいてきたことに気づく。ようやく私は慌てて逃げ出した。ワンテンポ遅れるのはセクハラ慣れをしてしまったせいだと野崎ちゃんに責任転嫁しながら必死で足を回す。電車を飛び降り、階段を駆け上がり、改札を抜けた。
あと少しで逃げられる、そんな思いが私に生まれた。
それはいうなれば気の緩み。
足がもつれ、挫いてしまった。
襲われる恐怖から立ち上がろうとしても痛みでどうにもならなかった。
襲われる――演劇の中ですら演じたことのない想像が私の中で膨れ上がる。全身を余すところ無く弄られ、いたぶられ、嬲られる。服を剥ぎ取られた私は白濁した液をかけられ、放置される。そんな無残な格好で私は放置される。
「おい、大丈夫か?」
その声で私は目の前に人がいることに今更気付いた。濃灰のチノパンに深緑のシャツで地面に座っている。まるで睨んでいるような、面倒くさそうな目で私のことを見据えていた。一言で言えばガラの悪そうな、普段ならば近寄ろうともしない人種であった。
藁をもつかむ思いだった私は手を伸ばした。
助けてください、と声も出せずに助けを求めた。
男性はおもむろに立ち上がると、私の横を駆けていく。
――見捨てられた。
そう私は思った。
虚空を捉えたままの私の視界が揺れた。
あの男性が私を抱えていた。
男性の背中越しに上半身裸の男が倒れていた。
この人が守ってくれた――そう理解した。
そして、恥ずかしくなった。私は見捨てたと短絡的に考えてしまった。男性は守るために立ち向かってくれた。しかも、私を連れて逃げてさえくれている。
酷く暑くなった顔を隠すため男性の胸に押し付けた。
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