世界が狂った日

岩永深琴

 いつからだっただろう。朝、目が覚めると胸の痛みを感じるようになったのは。胸に手を当て、締め付けられる痛みを堪えるのが習慣となったのは。

 いつからだっただろう。人と足並みが大きく違うことに気づいたのは。まるで下駄を履かされてフルマラソンををしているようだったのは。

 いつからだっただろう。何気ない日常の中でふと死にたいと口から出てくるようになったのは。まるで学校にいる時に帰りたいと思うような気安さを持つ言葉になってしまったのは。

 いや、違う。初めからそうだった。身の丈に合わないことをやらされて、逃げ出して、大口叩いて、それも中途半端で、何も残らなかった。何も残らなかったことが悔しくて、みっともなくしがみついて、それでも結果を出せなくて、いっそのこと消えたくなった。

 先月ついに二十三になった。同級生のほとんどは社会人として働き出したというのに自分は何もしていない。何かを成そうとしても、何をすればいいのかわからない。それじゃ駄目だと自分に言い聞かすも、それを許容するような自分がいて、堂々巡る。なにも成せないで一日が終わるばかり。

 昨日、幼馴染経由だが、ついに実家から勧告を受けた。いつまでもこうしていないで早く帰ってきて家督を継げという内容だった。これまでも似たような勧告は受けてきた。ただ違うのは一人の人間を寄越すという点である。

 寄越すとされた人間は幼馴染。家と家同士の繋がりで知り合った仲だ。アイツは俺のことを一番理解している人間だ。だからこそアイツだけは一言も「帰って来い」とは言わなかった。いいや、アイツのことだからこうなることを見越して言わなかっただけなのかもしれない。

 痛む胸を押さえ、立ち上がる。コップに水道水を注ぎ、喉に流し込んだ。焼けるような乾きが多少和らぐ。もう一度、流し込む。むせた。

 朝っぱらから何をしているのだろうと思うと気が滅入った。カーテンの隙間から流れ込む朝日が、窓を飛び越えてくる喧騒が胸の痛みを深く重くする。まるで体が吐き出したいとむせているようだった。

 大声をあげて子供のように泣き叫べば、多少なりとも気分は晴れるだろう。ただそれをするには大人になりすぎてしまった。それでいて大人にもなりきれていないのだからバツが悪い。テレビで同年代が活躍する姿を見ると俺は何をしているのだと泣きたくなってくる。最近では旧友が大企業に就職したとかそういう話題まで飛び込んでくるものだから、もはや流す涙すら枯れ果てた。ただ胃液だけは水位を増していく。

 スマートフォンの画面が突然明るくなる。そこには幼馴染の名前が表示されていた。マナーモードで音は鳴らないが、どうやら着信しているらしい。暗がりの部屋で画面だけが煌々と輝くそれはまるで実家からの無言の圧力を比喩しているようだった。

 手に取り、画面を見つめる。切れることを祈るもなかなか諦めてくれなかった。仕方なく出る。アイツの静かな声が聞こえた。

「やあ元気かい?」

 開口一番でそれを訊くかと苦笑してしまう。

「元気じゃねえよ」

「おお、それはたいへんだ。きみはいますぐかえってくるべきだー」

 えらく棒読みな返事だった。

「用がそれだけなら切るぞ」

「ごめんよ。そっちには昼には着くから迎えに来てくれないかな」

「そっちが勝手に来るのになんで迎えに行かなきゃなんねえんだよ」

「土地勘がないから君の家がどこかわからないし、君のお父さんの代わりとしてわざわざ立候補してあげた恩人にその言い草はないと思うよ」

「わかったわかった。迎えに行きゃいいんだろ。横浜駅辺りで待ってるからついたら連絡しろ。どうせいつもので来るんだろ」

「うん。愛車で風になってくる」

「んじゃ切るぞ」

「都内は久しぶりだから、観光名所なり美味しい食事処でも調べておいてくれると嬉しいな」

 切った。横浜は都内じゃねえよと悪態つきながら。

 時計を見る。九時過ぎ。頭が重く、布団に腰掛ける。眠気が覚めるまで、と誰にするでもない言い訳をした。寝た気がしない体を休ませる。気だるいながらも、幼馴染と話したおかげか心だけはいくらか休まったのか、胸の痛みが多少収まっていることに気がつく。やはり気心が知れているというのは話していて心休まる。それがたとえ連れ戻しに遣わされた者だとしても。

 机を見る。そこには昨日、途中で投げ出したペンと紙が転がっていた。紙にはコマ割りに吹き出し、ペンはインクにつけて使用する作りになっている。いわゆる漫画を書くのに使うものだった。

 道具だけはいっぱしのものを揃えたが、どうにも本人の資質がないのか、努力が足りないのか、もしくはその両方か、選考を通ったことがない。それなりのものは書けている自負はある。だが、それはそれなりであって、多くの投稿者の中で戦い抜けるものではないらしい。いうなれば光るものがないのだ。

 机に向かい、ペンを取る。

 自分の人生すらも光るものがないと言われているようで悔しさがあった。ただそれを認めたくなくて再びペンを取った。思うように進まなくて、焦りが現れ始める。ふと時計を見ると十一時を切っていた。

 のそのそと支度を始めることにした。時間には間に合わないだろうが、アイツ相手ならば問題ない。アイツだって時間通りに来るとは思っていない。互いにわかりきっているためわざわざ口にすることはない。

 準備を終え、駅へと向かう。もうこの時には約束をした十二時をとうに半分は過ぎていた。最寄り駅である川崎駅は歩いて、十五分ほどの距離だ。駅に近づくに連れて、どこか活気めいてきた。

 今日は休日だったかと思い、腕時計に目を遣る。平日だった。だとしたらこの活気はなんなんだろうと疑問を感じる。駅に近づくに連れて、活気ではなくどよめきに近いものだと気付いた。

 川崎駅構内に入ると、鳴り止まないアナウンスとごった返す人並みで溢れかえっていた。ほぼ全ての路線で同時に人身事故でもないと起こりえないような混みようだった。改札前に辿り着くまで、幾人となく肩がぶつかり、足を踏まれ、もみくちゃになった。

 アナウンスではやはり人身事故と説明していた。

 死んだ彼らのことが羨ましく、そして尊敬した。

 死にたいといつも願う割に実行に移そうとしない。実行に移す勇気がない。だが彼らは成し遂げた。勇気のある者だ。彼らと俺との間にはその超えられない溝がある。それは海よりも深い。

 俺にはその溝に飛び込む勇気がない。仄暗い底に飛び込めば楽になるとわかっているのに、もう何にも怯えることはないとわかっているのに、ただただ先を見通せないだけで足が竦んでしまうのだ。

 ゆえに惰性の日々を過ごしてしまっていた。

 恐怖に負けず黒く染まった谷底に飛び込めた彼らのことを俺は尊敬する。

 人混みから離れる。

 復旧を待って横浜駅に迎えに行くより、直接こちらに来てもらった方が早そうだと結論付ける。スマホを取り出し、連絡を取ろうとした。だが、しばらくかけてみても着信すらしない始末であった。

 トンネルでも通っているのだろう、と仕切り直そうとして一度切る。そこでこちらがわの電波状況がよろしくないことに気付いた。電波が一本も立っていないスマホをポケットに仕舞い、どうしたもんかとため息をつく。

 このまま帰る気も起きず、せっかく外に出たとしても遊ぶ金すらない。誰だ貧乏暇なしといった奴は。働きたい職につくために努力しても暇が有り余っている奴もいるというのに。

 何か創作のネタになればと聞き耳を立てることにした。聞こえてきたのは電車遅延に対する不満ばかりである。しかし、よくよく聞けばその中に違和感のある言葉が混じっていることに気づく。それはあの組織のせいとか何か、不安だとか何だとか眉唾ものであるものだった。

 正直なところ、頭が湧いているとしか思えなかった。

 あまりにも陳腐な内容で聞くに耐えず、帰ろうとした。その直後のことだった。背後からつんざくような悲鳴があがった。振り返ると混み合いにいた人らが一斉となって走りだし、こちらへ向かってくるではないか。

 俺は避けることすらできず流れに潰された。

 体中に軋むような痛みを感じた。衣服には数多の踏跡が残されていた。唸りをあげる鈍痛ではあったが、何があったのか知りたい欲がまさった。地面に手をつき、顔を上げる。先ほどまでの人混みが嘘のように人気がなくなった。背後からざわめく声が聞こえた。まだ逃げているらしい。何が何やらわからないままその場に座り込む。踏まれた箇所を撫で、痛みが引くのを待った。

 そうしていると改札から一人の女性が怯えた様子で駆けて出てきた。焦げ茶色のショートカットをした女性であった。紺のパーカーを着た女性は少女から大人に成りかけているような年齢に見える。その容姿にどこか既視感を覚えた。

 面識があったかと考えていると、その女性が俺の目の前でそれはもう盛大にコケた。顔面から思い切り良く突っ込んだ。受け身もなにもとれていなかった。そのまま痛みでうずくまると思いきや、女性はすぐに顔をあげ、立ち上がろうとした。だが、踏みだそうとした足から崩れ落ちる。足首を挫いていた。

 目の前でこれ見よがしに痛がるのはやめて欲しかった。目の前に自分しかいない状況では率先して声をかけなければならなかった。

「――おい、大丈夫か?」

 そこで初めて女性は俺に気付いたように目を丸めた。

 丸い瞳が潤んでいたことにも今気付いた。そりゃ顔面からいったら痛いだろうからなと思う。

 女性は俺に手を伸ばす。すがるように、求めるように。それは痛みからではなく恐怖からきていたように感じられた。

 俺は悩む。伸ばされた手を掴むべきか否か。

 悩む俺の前に改札からもう一人現れた。

 その姿に目を疑った。頭皮が薄い、中肉中背の中年男性だった。普段はスーツで会社勤めでもしていそうな顔のつくりであった。問題なのはその格好である。上半身裸、下半身に至ってはブリーフ一丁という始末。

 女性は中年男性が現れると怯える様子に拍車がかかった。ほぼ真っ裸の男に追われたらそりゃ怖いだろうと納得する。ただ駅員まで逃げ出すことはないだろうと人っ子一人いない駅を見て思う。

「た、たすけ……」

 女性は途切れ途切れの言葉を振り絞った。

 中年男性はカニのように両手を挙げ、ゆっくりと迫り始めた。

 頭が痛くなる、もとい呆れて頬が緩んでしまう状況ではあったが仕方ないと思い腰を上げることにした。

 女性に覆い被さろうと中年男性に向けて踵を切る。

 加速し。勢いそのまま跳んだ。

 足先を目標に向ける。

 いわゆるライダーキックという形になった。

 正直なところ見た目の派手さと打って変わって受けた側の痛みは少ない。足裏という面を使っているからだ。当たるところも腹部から胸部。上手くみぞおちに入ればそれなりではあるだろうが、期待はできない。動作自体も大きいため、避けようと思えば避けれるものである。ただ、蹴り『飛ばす』という点だけで見れば全体重が乗ったそれは素人仕込みのものだとしても十分効果が期待できた。

 足先から触れる感触が伝わる。全体重が中年男性へと移動するのを感じた。

 中年男性は後方へ大きく飛んだ。多少は踏み応えるものだと思っていた。だがそんな素振りは一切なく、地面に落ちた。落ちてからも身動きひとつしないその様を見て、頭からいったのではないかと背筋が凍る。

 足をいためた女性を抱え上げると、その場から慌てて後にした。その場に残ってでもして、警察を呼ばれては大変だからだ。

 どこからか聞こえてきた「ヒーローだ!」という子供の歓声に、見られてしまったと冷や汗が流れた。

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