第11話  出会い

当時、1936年のことですが、エイドリアンじいさんも26歳になり、ほかの馬の面倒を見るようになりました。もちろん、ジョッキーとしてはシャムロック・スターだけですが、調教師として、若く新しい馬が来ると調教をすることがありました。エイドリアンじいさんは持ち前の「目」。で馬と会話し、すぐに手なずけてしまいます。厩舎ではもちろんジョッキーの顔で通っていましたが、マルディーニ氏には調教師の実力も見逃しません。しかも、シャムロック・スターはもう競馬には年を通りすぎていました。最近では、レースの出場回数も減り、勝つことも減っていました。エイドリアンじいさんの今後のこともあり、調教師の道を究めなくてはならない時期に来ていました。しかし、エイドリアンじいさんはジョッキーとしてはシャムロック・スター以外の馬には重過ぎます。それで、自然に調教の時間が増えてきました。マルディーニ氏にとっては、エイドリアンじいさんの「目」。を活用できるのはジョッキーということではなくむしろ調教の仕事だと考えていました。


そんなある日、真っ黒な来たばかりの馬を調教することになり、やけに暴れる馬だと思っていると、ふと、昔シャムロック・スターと出会った日のことを考えていました。息が荒く誰でも前足や後ろ足で蹴ろうとする馬で、ほかの者には手がつけられません。マルディーニ氏はエイドリアンじいさんがいるので、こんな馬でも安値で買い付けてきます。エイドリアンじいさんは、シャムロック・スターのときと同じようにまず「目」で語りかけ、肌を触れることで気を沈めていきました。周りではおとなしくなったこの馬を見て拍手喝采です。シャムロック・スターの隣に入れて、これからも調教することになったエイドリアンじいさんは徐々に競走馬としてのトレーニングをしてやることになりました。


馬は総じて中動物が好きです。妙だと思われるかもしれませんが、犬や猫などがそばにいると結構おとなしく、安心する馬が多いのです。もちろん反対に毛嫌いするのもいますが。また、逆にもっと小さい動物、たとえばねずみや蛇が大の苦手です。この若い馬にはシャムロック・スターという、今では落ち着いた「仲間」がいるためすぐにエイドリアンじいさんには慣れました。エイドリアンじいさんは動物好きが講じて犬を拾ってきていつも一緒にいました。この犬がこの若い馬と仲良くなりました。誰かがビッグ・マックに因んでスモール・マックと呼び始め、定着しちゃいます。シャムロック・スターはアーリントン・パークだけですがスモール・マックはアーリントン・パークでも家でも一緒でした。その当時、エイドリアンじいさんは実家の近所に一人で住んでいました。独立しなければならない年ですし、不規則な時間の生活で、警官の規則正しい生活をこれ以上、乱したくなかったのです。


そんなある日、ハーネスをつけて厩舎の周りを散歩させるため乗馬し、木の下を通ったとき、急に「チップモンク(シマリス)」が、落ちてきました。それが、この若馬の鼻先に落ちてきたものですからたまりません。エイドリアンじいさんは放り出され、しかも、ハーネスを引いたためエイドリアンじいさんの体の上に馬が倒れてきたのです。エイドリアンじいさんは気を失い、馬は気が狂ったように走り去りました。後で、数人で取り押さえ厩舎に戻されましたが、エイドリアンじいさんは気を失っており、すぐに救急車でマウント・プロスペクト・ゴルフ・コースの隣にあるマウント・プロスペクト・ホスピタルに運ばれました。結果、肋骨二本と左腕と左足を骨折していました。手術担当医によると、あと数インチずれていると内臓が破裂していたかもしれないところだったそうです。しかし、長期的な入院になるものの、命には別状はありませんでした。幸いにも。


エイドリアンじいさんは回復が早く、生きていることに始めて神に感謝しました。しかし、毎日、退屈で不自由な入院生活にはうんざりしていました。シャムロック・スターやスモール・マックが心配ですし、とにかく暇でした。楽しみはラジオから流れてくるベースボールでした。当時、頂点を極めたベイブ・ルースがヤンキースを去り、ブレーブスに移籍していました。その後、引退後、ドジャースのコーチをしていましたが、あまりパッとしない終焉でした。ルー・ゲーリックも引退していました。ベースボールを沸かせたのは若きジョー・ディマジオという選手でした。背が高いシシリア島からの貧しいイタリア系の選手で、彗星の如くデビューしました。彼は足を広く開き、いわゆる、スタンスの広いフォームから渾身の力をこめてバットを振りぬきます。この豪快さがファンを魅了します。また、守備では軽やかな足捌きと華麗な送球でヤンキースに新しいヒーローとして台頭してきました。


エイドリアンじいさんは毎日試合のあるときは必ずラジオを片手にこっそり病室を抜け出して、放送を聴いていました。エイドリアンじいさんには、クリスティーナという看護婦が担当していましたが、いつも、エイドリアンじいさんに困らされていました。病棟から消えるエイドリアンじいさんを探し回らなければならないからです。しかし、彼がマウント・プロスペクト・ゴルフ・コースの近くのいすに座ってラジオを聴きながらいつもゴルファーを見ていることに気づいてきました。もうひとつ、エイドリアンじいさんに困らされるのは見舞い客です。レース関係の友人はいつもトラブルメーカーでした。酒をこっそり持ってきてみんなで飲み始めたり、騒いだりするので警察沙汰になりそうなこともありました。しかも、エイドリアンじいさんの隣は妊婦と新生児がいたので問題となりました。それに、肋骨、左腕、左足と骨折しているので手がかかってしようがないのです。手がかかるブラックリストの先頭がエイドリアンじいさんでした。


そんなクリスティーナはそれでもエイドリアンじいさんが好きでした。酒を飲んで騒ぐのも手がかかるのも何もエイドリアンじいさんのせいではないのですから。それに、着替えと体を拭くという看護婦の仕事を絶対にさせてくれませんでした。恥ずかしいのです。そこがかわいいとクリスティーナは思っていました。エイドリアンじいさんは決していい加減なことは言いませんし、無理難題をクリスティーナに要求もしません。ベースボールの好きな若者です。マウント・プロスペクト・ゴルフ・コースのベンチに行けば必ずいますし、見つかると必ず、申し訳なさそうな顔をします。そこがまたかわいいと思っていました。


クリスティーナはアーリントン・パークが好きでよく家族と出かけていました。非番の時には一人で読書やナッピング(居眠り)にいきました。アーリントン・パークは競馬場がメインですが、レースのあるときにはアンティークショップや美味しいハンバーグ店などの出店が出揃い、楽しい気持ちにさせてくれる所です。当然、シャムロック・スターやビッグ・マックの愛称で呼ばれているジョッキーは知っていました。回りの誰もが話しているので否が応でも覚えていました。病院の中でも競馬好きな医師や看護婦がいっぱいいました。でも、この入院している患者は「マクドナルドさん」、としか呼ばないのであの、ビッグ・マックとは分かりませんでした。厩舎からの見舞い客も「柄の悪い一団」、としか思えませんでした。


しかし、そんなある日、厩舎の連中がほかの馬の搬送中にシャムロック・スターを一緒に運び出してエイドリアンじいさんに会わせてやろうという計画たて、エイドリアンじいさんを表まで誘い出しました。また、ベースボールを聞きにマウント・プロスペクト・ゴルフ・コースのベンチに探しに行こうとすると、エイドリアンじいさんが「クリスティーナ、ちょっと一緒に表まで来てくれないか?」、といってきたのです。左の足と腕を固められているので松葉杖ではこけて怪我しやすいので、介護だと思ってクリスティーナはついていきました。そこで、搬送用のトラックから出てきたのは、それは美しい黒い馬でした。エイドリアンじいさんは長年会えなかった旧友にでも合うように無言で撫でてやっています。クリスティーナはロバや農耕植馬なら見たことがありますが、こんなに近くで本当の競馬の馬を見るのは初めてです。

「クリスティーナ、近くへよって撫でてごらん?」、と、エイドリアンじいさんに誘われてシャムロック・スターに触れました。競走馬はあまり女性に近づけません。理由は多くの女性が香水を付けているのと、怖がる人が多いため、逆に馬が怖がるからです。看護婦のクリスティーナが香水を付けているわけでもないし、暴れた時の馬の怖さを知らないため、すんなり近寄って撫で始めました。


クリスティーナはこのとき、エイドリアンじいさんがこの馬に接するときの優しい目に感動しました。とても優しい目でした。馬とエイドリアンじいさんは長い時間、無言で寄り合っています。美しい光景で感動したのでした。ふと、トラックの馬の名札を見ると「シャムロック・スター」、と書かれていました。「エイドリアンさん、この馬はひょっとして、あのシャムロック・スター?」。エイドリアンじいさんは無言でうなずくと、クリスティーナはこの人がビッグ・マックなんだと気づきました。そういえばビッグ・マックが落馬した話を聞いたような気がします。ショックでした。なぜ言ってくれなかったのでしょうか?私が担当なんだから言ってくれてもよかったのに、とも思いましたが、あんな有名な人なのに、そんな素振りを見せないエイドリアンじいさんを尊敬もしました。

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