第8話  師匠、J.J.

けたたましい鐘を鳴らす音で目が覚めました。この鐘が当時のレースのスタートを合図する鐘でした。あまりにビックリしたので、ベッドから転げ落ちたエイドリアンじいさんをみて、J.J.は大声を出して笑いました。J.J.は昔から目覚ましの音はこのスタートの鐘の音と決めているようでした。「いいか、エイドリアン。まず聞いておくゾ。このスポーツが好きか?」、と聞かれたので、「はい、そても」、と、答えました。「それなら、今日からお前の人生でもっとも重要なことを学ぶんだ。必死になってほしい。挫折していったやつらは、必死になれなかった。酒におぼれたやつもいる。必死にならなかったら分からない、そして見えない世界がある。どんなことでも重要なことは、必死になることだ。普通の人間には見えない世界に連れて行ってやる。そのために必死になってついて来い。それから、必死になれる奴には素質がいる。その秘訣とは、必死になってやろうとすることを本当に好きかどうかだ。お前はシャムロック・スターが好きだろう?レースが好きだろう?俺はわかったんだ、あのレースのときにお前の目を見てな。こいつはきっとシャムロック・スターのことをこよなく愛している。それに絶対に勝ってやる、という意気込みを感じたんだ。だから、おれは、レースやジョッキーのことを何も知らんお前に、ポイントだけを教えたんだ。あのレースはシャムロック・スターが自分で勝ったんだ。あれはただの運だ。これから、本レースに出るともっと多くの競走馬が相手だ。へぼ馬もいれは、すごい馬もいる。それに、シャムロック・スターがいつも絶好調とは限らない。それを見極めてコントロールしてやるのがジョッキーの仕事だ。お前は自分からここにやってきた。それは好きだからだ。男は全員ゲームが好きだ。しかし、必死になれる奴にはそういう素質がいる。俺はもう何年も弟子を取っていない。お前で最後だ。だから、必死になってくれれば、後は任せろ。いいな」。エイドリアンじいさんが頷くと、「そうと決まったら、早く着替えて準備しろ。下で待ってる」。


階段を下りていくと、ベーコンの焼けたいい匂いと、コーヒーの香りがしてきました。おなかが、グーと鳴るのを聞かれたのではないかと、心配して見回すと、部屋の奥からJ.J.が出てきました。「若いってのは悪いことじゃない。しかし何で若い奴らはいつも腹を空かしているんだ」、と、テーブルに準備している女性に向かって言いました。「エイドリアン、かみさんの、クリスだ」。エイドリアンじいさんは頭を下げると、180ポンド(82kg)はあるこの南部訛りのご婦人は、「あんた言ったじゃない、若い人はいつもハングリーだって。だから、大きくなれるんじゃよ、って。おなかの具合はあたいが面倒みるけんど、頭と心は今日からあんたが大きくしてやんな」。 J.J.はコーヒーをすすりながら笑っています。頷きながら。


納屋に住んでいると良いこととを悪いことがあります。いいことは霜が張った外に出なくても厩舎に行ける事で、悪いことはベッドルームまで例の匂いがすることです。J.J.はエイドリアンじいさんを厩舎の入り口まで連れて行きました。そこには、いつ連れてこられたのか分かりませんがシャムロック・スターがエイドリアンじいさんのことを待っていました。他に、3頭の競走馬がいました。すべて、カポネさんの持ち馬だそうです。いつもの通り、ボロ(糞や尿で汚れた寝わら)を掃き出しきれいにしてやります。シャムロック・スターも邪魔にならないように協力してくれます。外に出しておいたボロは通りあえずそのままにしておき、新しいわらを敷いてやりました。 そのとき、J.J.は寄ってきていいました。「エイドリアン、シャムロック・スターのご機嫌はいかがかな?」 「はい、いいようです」、と、答えると、「何でそれが分かる?」、と鋭い目で怒られました。「エイドリアン、さっき必死になれといったよな。それなら、シャムロック・スターのフンや尿をなぜ、手でつかんで匂ってやらんのだ。馬の体調を見るのにはいろいろな方法があるが、一番確実なのが、排泄物の温度、硬さ、においを自分で判断することが一番だ。さあ、やれ!」。J.J.の口調には厳しいものがありました。ちょっと、抵抗はありましたが、いわれた通り、触って、匂ってみました。長い時間続けているとJ.J.は、「お前、初めてシャムロック・スターの糞を触ったんだな?」、と、言って笑っています。「貸して見ろ」、と、言って今度はJ.J.が自分自身で確かめています。「少し、栄養のバランスが悪そうだが、夕べ、遅く連れてこられた事を考えると、こんなものだろう。いいか、エイドリアン、これから、毎日、自分でシャムロック・スターの糞を調べろ。慣れることだ。そして学ぶ事だ」。


夜が明けて、ハーネスや鞍をつけて、散歩に出ようとすると、J.J.と厩舎の人らしい黒人二人とで残りの三頭が表で待っていました。「エディーとハロルドだ。これからしばらくは一緒に働いてもらい。こいつらに早く馴れてくれ。それに、帆走するんだからシャムロック・スターにも他の馬に慣れさせなきゃならんしな。それから、今から通るコースをよく覚えておくんだぞ。自然の中を歩かせたり、トロッティングさせるコースとレースが出来るコースとがあるから場所をおぼえておけよ」。エイドリアンじいさんはJ.J.と二人の乗る馬の後に続いて、シャムロック・スターを歩かせました。明るくなってはじめて分かったことは、ここは、競馬場より広く、本格的なトレーニングが出来る設備があることです。そのとき初めて、カポネ氏がすごい金持ちだと知りました。


こうして、エイドリアンじいさんの人生でもっとも学ぶことの多かった一週間が始まりました。J.J.から教わったことは山のようにありました。毎晩、ノートに整理して書きとめておきました。たとえば、「まず、力の強い馬が速い馬だと思ってはいん」、と、言うことでした。力の強い馬は、筋肉が発達して短距離にはむいているものの、その筋肉の重さが体力のなさを生むのだと言うことでした。問題なのは、瞬発力を生む良質の筋肉を養うことだと、習いました。そのための、運動の内容や食事などを馬の性格を考えて与えてやらなきゃいけない。もちろん、これは通常、厩務員と調教師がやるのですが、ジョッキーとしてもそれを見抜く目を養わなければならない、と習いました。シャムロック・スターは他の競走馬に比べて体が小さい変わりに、鋼の筋肉を持っていました。しかも、J.J.が気に入ったのは筋肉の量です。最適な量だということでした。


他にもいろいろノートに書いていきました。たとえば、馬場の読み方です。当時はあまり芝のコースはなかったんですが、同じダートでも、距離、たとえば1,100ヤード(約1000m)の短いレースもあれば2マイル(約3200m)以上のコースもあり、各種の距離を、雨の日、雪の日、晴れの日、強風の日、無風の日によってまったく違うのです。また、午前中なのか午後なのか、出走時刻も重要なポイントです。さらに、競走馬の読み方です。まず、馬の年を理解しておくことです。競走馬はだいたい25年位の寿命ですが、2歳ごろから5,6年でレースを引退します。シャムロック・スターが2歳ですので後、5年はレースに出ることが出来ます。しかしその5年の期間でも、一年一年走り方が変わるのです。次に、馬の性格です。強気の馬、弱気の馬、易しい馬、意地悪な馬、気の短い馬、のんびりした馬、スピード馬、耐久馬、逃げ馬、先行馬、差し馬、追い込み馬とさまざまです。もちろん相手のジョッキーの質も重要です。気性が荒いか柔和か、馬をどの程度知って乗っているか。(ジョッキーは雇われも多く、自分が乗っている馬をあまりよく知らないこともあるのです。)それに、意外に重要なのがジョッキーの体力です。小柄なジョッキーが多いので体力もポイントとなります。J.J.は事細かに説明してくれました。常に馬上での話ですので、後で思い出しながらノートに記録を取るのは大変でした。


J.J.が続けます。「最後に目が重要じゃ。糞を手でつかむ事や体温で体長を測るのも重要だが、よいジョッキーは馬の目を見て判断する。馬の健康、体力、気力を目でわかるようにならにゃいかん。調教師もジョッキーも馬との共同作業だから、常に馬の状況を把握しとかにゃいかん。人間は口でものを言うが馬はしゃべれん。だから、コミュニケーションをどうとるか。それは調教師やジョッキーが常に気をつけてやらにゃいかん。だから、目を見てわかってやれ」。


「最後に重要な事を教える。コーナーを廻るとき重要な事をな。馬が走るとき、右前肢を左前肢より常に前に出して走ることを右手前という。これは後肢を大きく踏み込んで大地を蹴るための推進作用からくる歩法で、左前肢の場合も同じ。それでは馬は右利きなのか、左利きなのだろうか。普通はどちらでもこなすのだが、なかには先天的に“右利き”とか“左利き”という馬もいる。ただいえることは、動物は大体心臓がからだの左側についているので、左利き、左手前で走る方が自然のようである。人間の陸上競技のトラックが左回りということもこれを裏書きしている。競馬ではアメリカのコースは左回り。日本では右回り 、ヨーロッパでは左右の両方のトラックがあるそうです。前足のいずれかに慢性の故障のある馬は、はっきり、右、左のどちらかの手前を苦にするようだ」。エイドリアンじいさんは目がドングリの様に大きく見開いて、口を半分開いたままでした。全く新鮮な情報でした。さらに、J.J.が続けます。「それで、利口な馬は体のバランスを保ち、速度を落とさずにコーナーを回るために、故意か自然にか、分からんが、自分で調整しようとする。これを『手前変更』と呼ぶんだ。覚えておくといい。ジョッキーのお前と シャムロック・スターの両方が同時に手前変更の瞬間を共有できれば、差し馬の シャムロック・スターとしては、よりスムーズに速度に乗って仕掛ける事ができる、と云うもんだ」。


エイドリアンじいさんはこの一週間で山のような知識を得ました。必死になった一週間でした。最後の夜、J.J.と夕食後、語り合いました。J.J.がどんな経歴の人かとか、何でカポネ氏の所にいるとか、話してくれました。J.J.は、ニューヨークの生まれで、小さいころから、競馬場で使い走りをしていました。学校には行った事はなく、今でもスラスラとは新聞も読めません。その代わり、周りのことに関する感性は優れていました。特に馬のことに関しては、どんな有名な書籍より物知りでした。そんなJ.J.は巨漢でしたので、ジョッキーはあきらめ、最初から厩務員を経て調教師になりました。厩務員時代の先生は有名な人で、競走馬も優秀な馬ばかりでした。レースには勝ち続け、馬主は手放しで幸せでした。しかし、悪い奴はどこにでもいるもので、一攫千金を狙った悪事をたくらむものです。そんなある日、J.J.は競争相手の調教師から八百長を暴力で強要されたものの、きっぱりこれを断りました。しかし、相手は、J.J.が調教していた競走馬の飼い葉に薬物を投げ入れ、結局、この競走馬は負けてしまい、レース後、死んでしまいました。J.J.がはじめて銃を手にしたのはその時でした。競争相手の事務所に殴りこんで八百長を持ち込んだ男を撃ちましたが肩を貫通し、命には別状はありませんでした。ところが、この事務所は、ニューヨークで新興マフィアの傘下で、即座にそのマフィアがJ.J.を探し始めました。


当時、この新興マフィアと対立していたのがス通りト・ギャング から大組織を築いたジョニー・通りノでした。通りノは、この事件を知るとJ.J.を見つけ保護してやりましたが、J.J.はすでに、毒物を使用して八百長をした、と誤解されコミッティーから追放処分を言い渡されています。もちろん、バックにはマフィアが加担していましたが、J.J.は殺人未遂で警察に追われ復帰は無理でした。しかし、通りノは子分のマルディーニとアル・カポネにシカゴ行きを命じた際に、一緒に連れて行けと命じたのでした。J.J.は今でも警察に追われていますが、当時の手配書などは風化しシカゴでは少なくとも安全でした。今回のアーリントン・パーク競馬場の競走馬の買い付けは影でJ.J.が責任者だったのです。買い集めた中にシャムロック・スターがいたのですが、自分には手がおえなかったのに、エイドリアンじいさんがいとも簡単に手なずけたことに驚愕したと同時に、「目と目があった時に意思の疎通があった」、との話があって、自分の時代が終わったことを察したそうです。だからこそ、その若者エイドリアンに自分の知識をすべて植えつけたかったのでした。


翌日、J.J.は別れのときに送りには出てきませんでした。少しさびしい思いでしたが、また会えると思って、送りの車に乗りました。今日は、シャムロック・スターが移動しないため、家に帰ることにしました。車の運転手が、『エイドリアン、J.J.さんからの贈り物だよ!』と、包装紙通りボンでくるまれたものを手渡しました。急いであけて中を見ると、ジョッキーユニフォーム、ヘッドギア、鞭がセットになっていました。ユニフォームにはアイルランドの誇りであるシャムロックの三つ葉があしらってありました。もちろん色はアイルランドの色、薄緑です。エイドリアンじいさんは涙がこらえ切れなくて、でも運転手に見られたくなくて、下を向いてこらえていました。こんな素敵なプレゼントは生まれて初めてでした。その夜の家族とのディナーは家族全員がもらい泣きするほど感激しました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る