第6話 運命の初レース
マルディーニ 氏は本コースの中央にあるバルコニーで二頭が来るのを待っていた。シルバースターはマルディーニ氏が保有する競走馬の中で一番実績と速度を兼ね備えていると聞いています。ジョージはシルバースターにこのパークでは一番のジョッキー、ドナルド・ハーパー騎手を付けてきました。当然、気に入らない暴れ馬に勝たせるつもりはありません。マルディーニ氏はジョージに向かって、「おいジョージ、俺のクラブでベストな馬とベストなジョッキーを暴れ馬と体の大きな素人ジョッキーにぶつけるなんて、ちょっと大人気ないぞ!」、と、言いながら笑っています。マルディーニはもちろん、厩舎の連中や知り合いを呼んで賭けているのに決まっています。ジョージは馬場のフェンスから振り向いて、「ドン・マルディーニさん、シルバースターにはちょうどよい腹ごなしのレースになりますよ」、と、やはり笑いながら怒鳴っています。そのとき気づいたのですがマルディーニ氏の隣にいるのはドン・アルフォンソ・ガブリエル・カポネ、つまりドン・マルディーニ氏の弟分のドン・アル・カポネです。 出来上がる アーリントン・パークのオープニングの前に見に来たのでしょう。その時の、余興としてこのレースをマルディーニ氏がアル・カポネ氏を呼んでレースを見せるという企画をしたのです。
「おい、ジョージ、アルはあの暴れ馬に賭けているんだぞ。レースが始まる前にそんなことを言うもんじゃないぜ。アルがたいまいな金をシルバースターに賭けてしまったら、誰もあの暴れ馬に賭けるやつがいなくなるじゃないか!」。マルディーニ氏は笑っています。ドン・カポネも笑っています。そこに、登場したのがエイドリアンじいさんの乗る通称「ムスタング(テキサス産小型の半野生馬)」、と名づけられた例の馬です。ちょっと興奮しているのがわかります。すでに体全体に汗が光っています。エイドリアンじいさんはジョージを見つけましたが、声をかけず、その代わりJ.J.を見つけて傍へ寄っていきました。ジョージから20mほど離れて、同じくフェンスに座っているJ.J.に向かってエイドリアンじいさんはこう言いました。「J.J.準備万端整いました。言われたことを忘れずに精一杯がんばります」。この様子を見ていたジョージの顔が真っ青になったのを気づいた者はいませんでした。
さて、いよいよ二頭がスタートラインに向かっています。この当時は今のようなゲートではなく張られたロープがあがればスタートという単純な方法でした。オープニング前のアーリントン・パークは静まり返っています。厩舎の連中を合わせても30名くらいの見物人です。スタートの前のファンファーレはありません。その代わり、マルディーニ氏が大声で怒鳴りました。「レディース・アンド・ジェントルマン、おや、レディは一人もいないかな?」。実際は清掃のお婆さんが一人いたのですが、もうレディではないな、というジョークで、みんなが一斉に笑いました。「みんな聞いてくれ。あのムスタングがここへ来てどれだけ暴れたかはみんな知っている通りだ。ジョージですら手におえなかった。それを、偶然通りかかったエイドリアンと云うヒヨコが見事に沈めたのはみんなも知っての通りだ。あの馬にはエイドリアンでなきゃだめなんだ。妙な馬だぜ。 しかし ここはアメリカ、”Land Of Opportunity”というだろう。誰にでもチャンスを与えにゃいかん。そこで、今日のレースを企画した。ここにいるカポネ氏もそれは面白いといって、200ドルも賭けた。そこで、今日の勝者に俺から100ドルの賞金を出そう。二人とも頑張ってくれ。(God Bless You)」。
スターティングロープがその瞬間あがりました。ジョージがストップウォッチを押しました。シルバースターは大変スムーズなスタートダッシュを見せました。だいたい、エイドリアンじいさんと「ムスタング」にはハンディーが大きすぎます。まず、シルバースターより一回り小さいムスタングに、1m85cmのエイドリアンじいさんが乗り、ドナルド・ハーパーより25cmも大きく、体重差も20kgもあります。スタートダッシュで勝てる訳がありません。しかも、シルバースターとドナルド・ハーパーはスタートを何度も経験しており、ムスタングとエイドリアンじいさんは今日が初めてです。しかし、これはエイドリアンじいさんの中では予定通りでした。最初から判っていたからです。それよりも、ポップコーンが弾けて跳ねるように飛び出したムスタングにシルバースターを後から付いていくだけでいい、抑えて抑えてと落ち着かせることが重要でした。もちろんシルバースターは先行逃げ切り型の馬の様ですから、もうトップスピードです。予定通りに泥跳ねをよけて、右後方に一馬身まで追いつきました。「ムスタング」。も一旦、スピードに乗るとシルバースターに追いつくほどの実力を持っている馬であることにエイドリアンじいさん以外にも驚いた人は多くいました。エイドリアンじいさんはここで注意深くシルバースターを観察しました。鼻息も落ち着いていますし、頭も低い理想の走りを見せています。それに比べムスタングは、多少ですが鼻息は荒く、首を上下に振っています。J.J.に教えられた通りに両手で握っているハーネスをほんの少し引き、それから右手で首を擦ってやりました。ムスタングも理解したように思いました。
第一コーナーと第二コーナーは続けてやってきます。J.J.に言われた通り、過度に体重をインサイドにかけないように、しかしながらシルバースターとの距離を測りながら我慢します。そして、バックストレートでは、J.J.に言われた通りノ「賭け」。に出ることにしました。スピードを上げて、横にいったん並ぶのです。これはシルバースターにムスタングが抜きにかかっていると思わせ、焦らす作戦です。競走馬は競争心が強く、抜かれるのを嫌がる馬が多いのでそれを逆手に取った作戦です。いったん追いつき、シルバースターがムスタングの方をチラッと見た瞬間にハーネスを引いて、また右後方まで下がりました。これで、シルバースターは必死になって第三コーナーまで走る計算です。体力の消耗より、気持ちのあせりを狙っているのです。
いよいよ、第三コーナーの手前に来ました。エイドリアンじいさんはムスタングの首を擦ってやり、「まだまだ我慢」、と声をかけました。息も上がっていませんし、エイドリアンじいさんの目には落ち着いて走っています。そして、コーナーではさっきと同じように体重移動に気をつけながら、回っていきます。そして、一気に勝負に出ると予定した第四コーナーにやってきました。距離的には残り六分の一くらい残すだけです。エイドリアンじいさんは一度だけ、鞭を軽く入れました。これは練習した「合図」。なのです。ムスタングは、スピードを上げシルバースターの横に並び、体がぶつかるくらいまでインにコースを取りました。シルバースターの目は真ん丸く開いて恐怖に満ちています。しかも、計画通り、シルバースターは首を上下に振りだしました。必死になってきた証拠です。
次の瞬間、満を持したように「行くぞ!」、と声を出したエイドリアンじいさんは、鞭をいれ、一気にシルバースターの前に体を持って行きました。残りは440ヤード(約400m)位ですので、後は、ラストスパートです。J.J.にはこのときに体重を前にかけろ、といわれていたので、そうしました。エイドリアンじいさんも驚くスピードになりました。それに、シルバースターの鼻息や、ひづめの音、ドナルド・ハーパーが必死になってたたいている鞭の音がだんだん遠ざかって行きます。いわゆる、ブッチギリの勝利となりました。メインスタンド前がゴールですから、みんなの歓声も聞こえてきました。
ゴールの後、後ろを振り返ると、六馬身から七馬身の差です。快勝でした。うれしくて涙が出てきましたが、拭きもせず、クールダウンのためにムスタングをゆっくりと一周させます。追いついてきたシルバースターの上でドナルド・ハーパーが声をかけてきました。「おい、こんな差し足の鋭い馬は初めてだぜ。それによくやったなぁ、お前のプランはすばらしかったよ」。そういってさっさと行ってしまいました。
ゴールに戻ってくると、全員が待っていました。それに、全員が拍手しながら笑顔で怒鳴っています。たぶんカポネ氏だけが賭けに勝って、みんな負けたはずなのに喜んでいるのです。マルディーニ氏がハーネスに手をかけて、言いました。「おい、みんな、たまげた馬だ!それにこんなど素人のエイドリアンがあの手綱(たづな)さばきだ。すばらしいレースだったよな!」。みんなも肯きながら拍手しています。マルディーニ氏が続けます。「エイドリアン、お前は知らんだろうが、この馬は、たった今、コースレコードを出した。なぁ、そうだろうジョージ」。ジョージは悔しさを隠しながらうなずいています。「ジョージ、お前の手も借りず、手に負えない馬をエイドリアン一人でここまで乗りこなしたんだから俺はエイドリアンをジョッキーとして登録しようと思う。だから、こいつがこの馬の調教師兼ジョッキーということで良いだろう。このマルディーニ様の賭けた金を無駄にしおったこの若造にご褒美として決めたことだ」。意外だったのはジョージが「ハイ喜んで。正直言って負けました。エイドリアンはすげえ奴だし、この馬も、すげえ、としか言いようがありません。明日から、この馬の調教もエイドリアンに任せます」。エイドリアンじいさんは幸せでした。仕事探しに途方にくれていた時に、目と目があっただけの始まりが、コースレコードまで出したのですから。うれしかったこともありますが、本当は人に涙を見られたくなかったので、馬から下りてエイドリアンじいさんは首を抱いてやりました。
少しすると、みんなが厩舎のほうに帰ってゆき、人がまばらになったので、エイドリアンじいさんも馬を引いて帰ろうと思うと、ジョージがやってきました。「エイドリアン、お前がレース前に話した人が誰だか知っているか?あの人はJ.J. ローガンさんといってな、調教師仲間では神様のような人なんだぞ。いまは、昔やったというか、やらされた八百長の責任を取って引退しているが、ドン・カポネさんが厚く保護していると風の便りに聞いたことがあるが、そんな人からアドバイスをもらっていると知っていたら、俺もお前に賭けていたかもな」、と、言って笑いながら去っていきました。そんなすごい人だと知らなかったので冷や汗が出ましたが、感謝しようと探したのですがもういません。あとで、マルディーニ氏に聞いてみようと決めました。
その夜は、厩舎の連中やみんなが集まってマルディーニし主催のパーティーに出ろといわれてバスに乗ってゆきました。マルディーニ氏が手配したバスで、いろんなところをぐるぐる回って走るので、一体全体自分がどこにいるのか分からなくなりました。それもそのはずです。会場はどこかの林の中にある密造酒工場でした。エイドリアンじいさんは禁酒法のせいもあってアルコールはまったく飲んだことがありませんが、同じ、アイルランド系の厩務員に進められて、アイリッシュビールを頼みました。黒いビールでその上に乗っている泡で三つ葉のクローバーが描いてありました。これは何かとその厩務員に聞くとシャムロック(Shamrock)だと教えてくれました。つまり、アイルランドの国花でシロツメクサ(クローバー)、コメツブツメクサなどの、葉が3枚に分かれている植物の総称で、アイルランドの象徴です。シャムロックは家族のアイルランド系の環境で知っていましたが、ビールの泡の上に描かれているのには感動しました。それに、3月17日の聖パ通りックの祝日にはみんながシャムロックを胸に飾るか、緑色のものを身に付けて祝うのです。これは、聖パ通りック卿が『シャムロックの葉が3つに分かれているのは「三位一体」。を表しているのだ』と説明し、キリスト教を布教したことに由来している、と教えてくれました。(ちなみに、幸運を呼ぶと言われている四葉のクローバーとは関係有りません。)
アイリッシュビールといえばギネスが有名ですが、エイドリアンじいさんの先祖はキルケニーの出身で、「キルケニー」、というビールもあります。そんなことを考えていると、ハタと気が付きました。ムスタングの正式な名前が浮かんできたのです。三位一体といえば、競走馬、ジョッキー、それに調教師や厩務員の裏方だし、自分がアイルランド系であることの誇りもこめて「シャムロック・スター」。にしようと決めました。マルディーニ氏に話すと、「約束したからお前の自由にしていい」、と、言ってくれました。それにシャムロック・スターに決めた理由も気に入ってくれました。(後々、アイリシュ系の人口が比較的多い地元のシカゴで人気が爆発的になる起爆剤になる事になります。)
パーティーの後、同じようにぐるぐるバスは走って、厩舎まで戻ってきました。シャムロック・スターにお前の名はシャムロック・スターと言おうと馬房に来ると、後ろからマルディーニ氏が追いかけてきました。そして、愛用の中折れ帽をエイドリアンじいさんに渡しました。「お前もジョッキーとしての気品がいる。この帽子をやるから、シャムロック・スターと言ったな、あの馬に乗るとき以外はこれを被っていろ」。その、リボンに約束の100ドルが挟んでありました。「ありがとうございます」、と、答えると、「いいさ。約束だから受け取ってくれ。俺はうれしいんだ。お前には、馬と目が合うだけであの暴れ馬を乗りこなした。俺は馬を見る目が無くとも、自分が人を見る目は誰よりも優れているとお前が証明してくれたからな」、と、言って去っていきました。
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