5.糸が切れた人形。クッキーを食べ続けた彼女は、自分の身体を火に焼べる。


 愛される才能が、生きていく上では必要だ。


 莫大な富を築いた資産家は、孤独感に苛まれ、満たされぬまま死ぬ。たとえば偉大なるギャツビーのように。その手の話は腐る程聞いてきた。


 だから私はそれらを反面教師にして、人に愛される振る舞い、思考、容姿を、徹底的に研究してきた。


 私の、この十九年間の人生には愛が満ちていたと断言出来るし、これからも、そのように生きるのだろうという確信があった。



「えぇ? 貰ってもいいんですか? ありがとうございます、大切にしますね」


 汚らしい格好をした豚のような男は、傅きながら私に新型のゲームハードが入った箱を差し出してきた。ので、私はこの男が求めている笑顔を作って、それを受け取る。


 豚は鼻息を荒くして、にんまりと笑った。このゲームハードを買う金で、その吹き出物だらけの肌をどうにかすれば、少しはマシになるだろうに。そう思ったが口には出さなかった。


 アイドルグループに所属していると、こういう事がしばしばある。所謂、ファンからの貢ぎ物というやつだ。


 私が所属しているアイドルグループでは、原則としてファンからの差し入れは受け付けていない。ファンレターの直接手渡しも厳禁で、ライブイベント後の出待ちもそこまで騒がしくはなかった。


 アイドルがファンから差し入れを受け取る。その光景を浅ましいものと捉える風潮が一般的だからだろう。私にはそれが、とても不条理なことであるように思える。


「お嬢さん可愛いね。クッキーをあげよう」


 その言葉を享受し、クッキーを食べる権利を得られるのは、才能がある人間だけだ。そして才能が無い人間は、それを見て嫉妬に顔を歪める。そのようにして人間は分けられるべきであり、凡ゆる事柄においてその構図は真理なのだ。


 それを阻むというなら。誰もが平等にクッキーを食べる、そんな理想論だけを掲げるというならば、最初から何もしない方が賢明だ。何もしないということは、究極的に考えれば、何者に対しても平等ということだ。そのようにすればいい。


 貢ぎ物を差し出してきた豚の手を握り、もう一度礼を言って、私はその場を後にした。正直これ以上同じ空気を吸うことに耐えられるほど、私の精神は寛大ではないし、こんなかさばる荷物を渡されたとあっては私の腕力を考慮しても、はやく目的地に辿り着きたい。辿り着かなければならない。



 所属事務所に顔を出し、荷物を置いてレッスン場に向かう。渡されたゲームハードのせいで少し腕が痺れていたが、この程度のことでレッスンに支障をきたすわけにはいかない。ローカルアイドルグループとはいえ、皆意識は高く、その中でリーダーというポジションを任されている私には、如何なるときであってもその役割を果たす必要があるのだ。


 異性に媚びを売る。それだけが人に愛される為の努力ではない。


 往々にして同性受けが悪い女というものは長い目で見れば異性からも敬遠される。そして、同性からの高い評価を獲得するには、常日頃からひたむきな努力をアピールする必要があるのだ。


 差し出された供物に、羨望の眼差しに溺れてしまえば、まるでメッキを剥がされたかのように、私というコンテンツは色褪せる。そうなるくらいならば死んだ方がましだ。



「おつかれ、ルミナちゃん」


 レッスンが終わり、帰路につこうとしていたその時、ミユキさんが声をかけてきた。同メンバーの一人で、年は私の一つ上だ。しかしグループのリーダーは私ということもあって、この人とは上手く距離を取れずにいた。


「お疲れ様です。ミユキさん、今日はいつにも増してダンスのキレが良かったんじゃないですか? 私、ついていくのに精一杯でした」


 私はレッスンの後に会話した人全員に、必ず褒め言葉をかけるようにしている。それは具体的であればあるほど良いが、抽象的な褒め言葉しか思い浮かばない時にはほんの少しだけ、遜るようにする。


 媚びていると思わせない、さりげない褒め言葉は人間関係をつつがなく保つのには効果的だ。


「そう? いつも通り一生懸命やってるだけよ。それよりもルミナちゃん、最近この辺りで通り魔事件が立て続けに起こっているの、知ってる?」


「通り魔?」


 私なりの気遣いを一蹴されたことに対しては特に何も思わなかった。既に生活習慣として定着してしまったことだし、それが目に見えて結果に結び付かずとも、それに対して腹を立てることは数年前に卒業していた。


 それよりも、ミユキさんの口から飛び出してきた通り魔という単語が私の意識を強く引きつけたのだ。普段ならば対岸の火事で飛び交う単語の一つとして処理してしまう、そんな単語が、何故かいつもより身近に感じた。


「そう、通り魔。先月の中頃くらいかな? それくらいから既に三件、同じ市内で猟奇殺人が起きてるのよ。犯行の手口はどれも同じ。刃物で首から上を滅多刺し」


「へぇ……怖いですね。そんなこと聞いちゃったら、一人で帰るの怖くなっちゃうな……」


 当たり障りの無い言葉を返す私は、通り魔とは別のことを考えていた。その事件の少し前、年が明けて間も無い頃、私が心から憎んでいる人間の恋人が、首を吊って自殺したことを。


 自殺した人間の名前は確か、一ノ瀬カズヤだった。しかしそんな事はどうでもいい。私の意識の焦点は、彼が椋木カヤの恋人だったということに向けられていた。


 あるいは、私はこの通り魔事件が一月の半ばに起きたことを、どこかで聞いて忘れていたのかもしれない。私の無意識下に眠っていたその鍵語によって、その少し前に起きた一ノ瀬カズヤの自殺を知った記憶が呼び起こされた。そのように考えるのが妥当だろう。


 そんな些事によってふつふつと沸き上がる、椋木カヤに対する怒りを、私は上手く隠せているだろうか。



 そこから先の会話は、よく覚えていない。


 物騒な世の中だから、くれぐれも気をつけてね。といった、そんな当たり障りのない結末を迎えて会話は途切れたと思う。


 電車の座席で揺られながら、私は椋木カヤという人間を想像した。



「今付き合っている私よりも、振り向いてくれるかも分からないカヤ先輩を選ぶっていうの?」


 その通りだ、と、当時の恋人は言った。私が十七歳、高校二年生の時だ。


「嫌だ、どうして私じゃなくてカヤ先輩なの? ちゃんとした理由が無いなら、私帰らないから」


 夕焼けが肌を焼く、初夏の日だった。彼の家の前で、その言葉通り足に根を生やして居座るつもりは無かったが、こんな見苦しい嘘を吐いてでも、椋木カヤよりも私の方が劣っている何かが知りたかった。


「あの人は嘘を吐きそうにないからだ。例えば俺が何か悩みを持ちかけた時、お前なら多分、俺のことを気遣って、俺が欲しい言葉をかけてくれるんだろう。でも、あの人はきっと、たとえそれが俺を傷付けることだったとしても、正直に思ったことを言ってくれる気がするんだ。お前はそれを自分勝手だと言うかもしれないけどな。それでも、取り繕われない安心感っていうのは、本当に縋りつきたくなるものなんだよ」


「私が取り繕って付き合ってるっていうの?」


「逆に聞くけど、そうじゃないのかよ」



 私は何も答えられなかったーー


「お前の事が嫌いになったわけじゃあないんだ。むしろ好きだ。ただ、カヤ先輩の方が好きだというだけで。だからこそ、好きなお前を裏切るような真似はしたくないから、こうしてけじめをつけてる」



 私は、声を上げて泣いた。恋人に別れを切り出されたことが悲しいからではない。


 愛される。その一点において、私が唯一誇れる、自分自身の長所において、椋木カヤという女に、完膚無きまでに打ちのめされたことが悔しいからだ。


 私を抱き締めようとした彼の腕を振り払い、私は何のあてもなくひたすら駆けた。


 私の人生に泥を塗った椋木カヤが憎い。


 細心の注意を払い、常に愛されるように心がけ、人の考えを汲み、そのようにして磨き上げた、私の愛される才能を……


 あの女は、なんの努力も無しに踏み越えていったのだ。


 その後、椋木カヤが誰かと交際を始めたという噂は耳にしなかった。一ノ瀬カズヤが彼女の恋人であるという情報も、自殺の噂と一緒に高校生の頃の同級生から聞いたものだ。


 結局、私の矜恃を傷付けておきながら、"彼"の想いは椋木カヤに伝わらなかったことになる。ただただ、不愉快だ。



「あの……キャットラスの日比谷ルミナさんですよね?」


 内臓を焼き払ってしまいそうな回想から私を引き摺りあげたのは、今朝私に差し入れをしてきた豚とそう変わらないような豚だった。親戚だと言われても全く不思議ではない。電車の窓から差し込む夕日の光を帯びて、それはただの豚から、哀愁を帯びた豚に変わっていた。


「あの……僕あなたの大ファンなんです。良かったら握手してもらえませんか!」


 今日という日は、昨日までと何ら変わらない平凡な一日になるはずだった。


 今朝、気持ち悪い豚からゲームハードを受け取ったこと。そのせいで腕が痺れたこと。ミユキさんに、通り魔事件について聞かされたこと。それら一つ一つは、私の人生を脅かすようなものではなかったはずだ。


 しかしそれらの点は繋がり、辿り着いてしまった。過去のものとして記憶の片隅に押しやった、椋木カヤという女に。


 憎い。

 憎い、憎い。

 憎い、憎い、憎いーー


 それは破壊衝動のように思えた。今まで取り繕ってきたものを、椋木カヤには"敵わない程度"の、人に愛される才能を、他の誰でもない自分自身の手で消し去ってしまいたいという。


「うるせぇんだよ、豚」


 豚の顔は一気に青褪めた。新興宗教にはまり込んだ信者がある日その信仰の無益さに気付いた時も、きっとこんな風になるのだろう。とても滑稽だ。


 私は、人目も憚らず大声で笑った。


 自分がしでかした行為が可笑しかったし、アイドルという、自分が信仰する偶像自身によって偶像破壊され、呆然としている豚の顔が可笑しかった。


 一頻り笑った頃に電車が止まった。私は、今朝貰ったゲームハードの箱を座席に置いたまま電車を降りた。背後から私を呼び止める声が聞こえたが無視した。


「あははははははは!」


 はっきりとした発音で笑ってみる。


 その不愉快な声は、周囲のどよめきは、私自身が壊れてゆく音だった。

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