4.刻印のようなもの。固有名詞を持たない何かと、それが齎す呪い。


 僕は致命的な矛盾を抱えていました。


 自分のような人間は世の為、人の為にも、消えてしまったほうがいい。誰よりも、そう強く思っているのに、僕は未だに死ねずにいるのです。



 母親に、K大のオープンキャンパスに行ってみてはどうかと強く勧められたので、僕は交通費を受け取ってK大に足を運びました。僕には到底手の届かないレベルの難関国立大学なので、勿論この催し事で、何かを吸収しようという気持ちはありませんでした。


 しかし母親はそうは思っていません。口癖のような、ユウヤはやれば出来る子なんだから、という言葉は、日に日に語気が強まってきているような気がして、その言葉を吐くことによって、自分自身に言い聞かせているような、そんなやり切れない気持ちをありありと感じます。僕にはそれがとても心苦しいのです。


 僕は自分がK大に合格し、有意義な大学生活を送る自分というものを想像してみようと努めました。しかし頭の中の僕の顔は霞んでいて、笑っているのか、あるいは泣いているのか、判りません。そもそも有名な国立大学に合格して何を学べば良いのか、何を目指せばいいのか、僕にはちっとも判らないのです。


 高校三年生の夏休みということもあり、クラスメイトの皆は、それぞれ確固とした目標を持っているように見えました。担任の先生も未だに進路を決めかねている僕を見て業を煮やしたのか、現時点の僕の偏差値から見繕った、手頃な大学のパンフレットを投げ渡してくる始末です。



「皆ちゃんとした目標を持って頑張っているのに、どうして自分のやりたい事も決められないんだ。いいか? 努力というものは無闇にしたって意味が無いんだ。何か一つ、向かうべき場所を定めて、その方向に向かってするものなんだよ」


 とある日の放課後、担任は生徒指導室に僕を引っ張り込むなり、そんな事を言いました。その通りだと思いました。それと同時に、そんな、誰にでも解る簡単な事が出来ない自分が、情けなく思えました。


 使い古された、常套句のような叱咤激励が僕にはとても痛いのです。しかしそれを理解してくれない周囲を恨む気にはなれません。全ては、皆に出来ることが出来ない僕が悪いのです。


 だから僕は死んでしまった方がいい。そのように思います。それを口に出すことによって、また多くの人に迷惑をかけることとなるでしょう。


 死にたいと言った僕を、母親は、泣きながら罵倒します。クラスメイトは、腫れ物を扱うような態度を取ります。担任は、しなくてもいいはずの仕事が出来てしまったと言わんばかりに、不遜な態度を取るでしょう。


 ネガティブなイフばかりが鮮明に思い浮かび、ポジティブなイフに関しては最初から考えることを放棄している。そんな自分の内面を考察すればするほど、僕という人間の価値について疑問を抱かずにはいられなくなるのです。



 オープンキャンパスの参加者が皆こぞってスタンプラリーに精を出している中、僕は木陰に設置されたベンチに腰掛けてその様子を眺めていました。


 生まれつき身体が弱い僕にとっては、この真夏の日差しというものは全身に降り注ぐ凶器のようなもので、また、そのせいで、大多数の人が楽しんでいるイベントに、積極的に参加出来ない自分がつくづく嫌になります。


「少し顔色が悪いようだけど、大丈夫かい? 医務室に案内しようか?」


 僕の隣に腰掛けてきたのは、オープンキャンパスの手伝いに来ている在学生でした。首から提げたネームプレートには、イチノセ カズヤと書かれています。


「いえ、いつものことですから大丈夫です。少し休めばよくなりますから」


 僕がそう返すと、その人は何故か微笑みました。その表情は、この場において確実に適当ではないと思いました。が、おかしな人だと、この人の性質を断じてしまうことは何故か憚られました。


「返事をするのが億劫になったら独り言として聞き流してくれればいい。少し僕と話そうよ」


 そうだ。僕はカズヤという名前なんだ。苗字で呼ばれるのは慣れてないから、そう呼んでくれると嬉しい。と付け加え、その人は歌うような、明瞭かつ朗らかな声色で、語り始めます。


「僕はね、元々この大学に入学するつもりは無かったんだ」


 カズヤさんは、この真夏日には違和感のある、長袖のワイシャツの袖を掌底部分まで引き上げ、そのまま両手を組みました。その動作は何か大事なものを隠すような、そのような繊細さがあるように思えました。


「十八歳になったら死ぬ。そう決めていた。どうしてそう決めていたかは些末な話だから割愛するよ。つまり、だから僕は自分が大学生になる未来なんて想像していなかったし、するつもりも無かった。そうして十八歳の誕生日を迎えた時、そう、僕の誕生日は四月十日だから、丁度高校三年生になったばかりの時だね」


 饒舌に語るカズヤさんの横顔は、まるで絵本から飛び出してきた何処かの国の王子のように整っていました。同性の僕でさえも、ずっとその横顔を眺めていたい。そう思えるほどに。


「その時にふと気付いたんだ。僕の身体は、頭は、僕という人生は、まだ終わることを望んでいないと。自殺志願者のありがちな手のひら返しだと思うかい? そうじゃないんだ。その前日まで僕は、確かに死ぬつもりでいた。けれど十八歳になった途端、死ぬ理由が、動機が、消え失せてしまっていたんだ。僕はその日、学校を休んで日が暮れるまで泣いたよ。それはとても悲しいことだからね」


 カズヤさんのバックボーンは何一つとして分かりません。ただ、彼が発した、とても悲しいこと、という言葉には同調し得ました。死ぬ、死んだ方がいい、一度そう決めてしまった人間が生きるという事は、敗北の結果が見えているゲームに挑み続けるようなもので、その虚しさを、無益さを、僕は理解していました。


「自分は死ぬべき人間だ。そういう風に思っていても、必ずしも死ねるとは限らない。むしろそういう風に望んで、真っ直ぐに死ぬことは難しいことだよ。だから君も、生きている以上は生きなければいけない。何でもないように取り繕わなければならない。死を決意し、実行しうるその時までね。それは生きている人間の責務だし、それを放棄した人間に、神様はエンディングを見せてはくれない」


 カズヤさんの言葉の一つ一つが、僕の胸に深々と突き刺さりました。貴方は変人だと一蹴してしまえばこの痛みを感じずに済むのでしょう。けれど僕は、カズヤさんの言葉に対して耳を塞ぐことが出来ませんでした。


 全てを見透かされているような、居心地の悪さ。全てを許されるような暖かさ。その二つが、このベンチには共存していました。


「どうして僕にそんな話を?」


「決まってる。君が死んでいるように見えたからだよ」


 僕が問うた初めての質問に、カズヤさんは即答しました。そして、独白を始める前と同じように微笑み、彼はスタンプラリーの人混みの中へと潜り込んでいきました。


「カズヤ! サボってないではやく手伝ってよ! 人数が減っても仕事の量は変わらないのよ!」


「怒るなよカヤ、今戻ったよ」


 そんな微笑ましいやり取りが、そう遠くない視線の先で繰り広げられていました。


 狐につままれたような出来事とはまさにこの事だと思います。


 しかしこの数分のやり取りの間に、彼は、僕の中に潜む自殺願望と生存願望の矛盾を許し、この瞬間以降の僕の生き方というものを変えて、去って行きました。何の確証もありませんが、そう思えるくらいには鮮烈な出来事でした。



 その日、帰宅した僕はいつもより晴れやかな顔をしていたらしく、そんな僕を見て、母親は喜んでいました。そんな母親を見ると、僕も嬉しく思いました。そう思うのが、適当であると思いました。



 僕がK大を志願した時、両親は大喜びしました。最初は訝っていた担任も、徐々に伸びてゆく僕の成績を見て、次第に応援してくれるようになりました。


「恐らく五分五分といったところだろう。だがな、俺はお前が合格すると思っている。無責任な言葉かもしれないが、お前がこのまま希望校を変えないと言うなら全力で応援するよ」


 担任の、この言葉に対して頷いた時点で、K大を受験するという僕の未来は決まりました。夏には想像出来なかった、自分がK大生になるという未来が、具体的に想像出来るようになっていました。



 僕は死んでしまった方がいい。そんな気持ちがすっかり影を潜めてしまっていたその時でした。K大に在学していた、イチノセ カズヤという生徒が自殺した報せを耳にしたのは。


 それは僕にとって悲しい出来事でした。しかし、同時に僕は思ったのです。彼は死ぬべき時に辿り着き、然るべき手段を以って自分の命を絶ったのだと。


 それを羨む感情が湧くと同時に、かつて僕が抱いていた自殺願望も、その分厚いベールを脱いで顔を出しました。あるいは、彼は最初から隠れてなどいなかったのかもしれません。自分の内面にある、そのどろどろとした感情を、目を閉じて見ないようにしていたのは、他でもない僕自身なのです。


 しかし今の僕はかつての僕とは違っていました。今の僕は、死んだように生きているのではなく、死に向かって生きているのです。


 全ての事が順当に進めば、僕は今年の春にはK大生になっているでしょう。そこそこの充実を噛み締め、時折死にたくなりながら、それでも、何でもないような顔をして、死ぬべき時までを生きるのでしょう。


 あの時カズヤさんから与えられたその生き方は、いざこうして実感してみると、とても苦しいものでした。



 K大二次試験の前日、その夜。僕は真っ暗な自分の部屋の中で、暗渠の底のような自分の視界を、観察しました。思考しました。


 しかしそこには何もなくて、その行為自体が無意味であるように思えました。この暗渠に焦点を当てず、僕の人生という広い視野を以ってそのように考察しても、同じような感想を抱くのかもしれません。


 それでも、僕は、あの夏の日の出来事によって生かされるのです。


 それは呪いのようでした。


 僕は、呪いによって、生かされているのです。そして……


 死ぬべき時が来るその日まで、何でもないような顔をして、そしてーー

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