3.色のない世界。消えたミルククラウンと、消えない哲学的ゾンビ。その二つを明確に分かつもの。
刺激があるからこそ人間は輝く。
それは光の裏側にある影であったり、水に波紋を彩る一石であったり、必ずしも優しいものではない。
だからこそ、私達は生きているのではないだろうか。
私は犯された。朝方までクラブで遊び呆けていた帰りだ。冷たい風を浴び、酔いを冷ましながら帰路についているところで数人の男に羽交い締めにされ、ひと気の無い路地に引き摺り込まれた。
私の中に熱い棒を挿入し、一心不乱に腰を振る男達は、家畜小屋の豚のようだった。それくらいの感想しか抱けなかった。
幸い大した抵抗はしなかったので衣服はそこまで乱れてはいなかった。何食わぬ顔で始発電車に乗った私を見て、強姦された後の十代の少女だと思う人はいないだろう。
自宅に着く頃には、犯された感覚を思い出すことも出来なかった。無理に思い出そうとすればそれは脳内のフィルムに焼き付けられた只の情報として処理され、どんどんそのリアリティを欠いてゆく。
今という境界線を越えて生き続けているからこそ、その線を越えられない過去の出来事がこんなにも色褪せて見えるのだろう。悲しいことだと思う。だが、ただ、それだけだ。
「今日も朝帰り?」
父親がドア越しにそう語りかけてきたので、私はそう、と答えた。
母親は私が幼い頃に、別に男を作って家を出て行った。母親の顔を思い出すことは出来るが、それも当然境界線の向こうの作り物なので色褪せている。
だからと言って、今私のそばにいる父親がリアリティのある人間かというとそうは思わない。私が家に帰ってきて落ち着いた頃を見計らってドア越しに声をかける。その時に当たり障りのない会話をすることもあるが、特に深い干渉をするでもなく会社に行き、夜遅くに帰って来る(その頃には大抵私は外に出かけているので具体的に何時かは把握していない)。その繰り返しだ。
こんな作業は別に私の父親じゃなくても出来る。そこらの中年の男を捕まえて、一定の報酬を支払うからそのようにしてくれと依頼すれば私の父親の代替が出来上がる。あるいは既にそうなっているのかもしれない。そう思えるくらいには、私は父親と久しく顔を合わせていなかった。
哲学的ゾンビーー
そんな言葉を思い出した。見た目や容姿は普通の人間と変わらず、解剖して中身を見ても変わらない。ただ、彼等には意識というものがなくて、何かによって定められたプログラムに則って行動している。
私以外の人間の全てが、そのように思えた。
唯一、私のこの十九年の人生において人間味を感じられる正真正銘の人間を見たことがある。名前は椋木カヤ。私が在学していた高校の一つ上の先輩だ。生徒会長をやっていた。
私が通っていた学校はそこまで偏差値も高くなかったが、その先輩はとても優秀で、彼女が有名な国立大学に合格した時には学校中が彼女を祝福した。
優秀な生徒会長というキャラクターを演じる哲学的ゾンビ。そのようには思えなかった。学校の催し事の際に壇上に立つ彼女は、時折物憂げな表情を浮かべていた。
それは彼女の人形のような白い肌、黒々とした長い髪によく似合ったし、私以外にもそれに惹きつけられた人間はいただろう。だが私以上に彼女のそれに惹かれた人間はいないと、断言出来る。
私を取り巻く光の無い世界において、彼女は唯一の輝きだった。それは時の境界線を隔ててもなお輝きを増し、私の脳裏に焼き付いている。
高校を中退し、行き摺りの男漁りに精を出す今の私の生き方も、椋木カヤという人間の影になって、その輝きを強めたいという無意識の願望の現れなのかもしれない。そんな都合のいい妄想に耽り、私は自分という産業廃棄物の存在を肯定している。
財布の中身を見ると、そこには入っている筈の紙幣が入っていなかった。恐らく今朝犯された際に、中身を抜き取られたのだろう。財布を振ると、数枚の小銭がぶつかり合って虚しい金属音を立てた。
ついてない。が、若い女である私が楽に金を稼ぐ手段など幾らでもある。まずネットで女を買いたいと求める声を探す。幼く見えるようメイクをして、清楚に見える服を着て、あどけない表情を浮かべて指定の場所で待つ。ただそれだけだ。後は相手の好きなようにされる自分を傍観しているだけで、数日は遊んで暮らせるだけの金が財布の中に入ってくる。
父親が私を女に産んでくれたことには、感謝している。セックスに伴う痛みなどとうに感じなくなってしまったし、どこぞの馬鹿がこんな私の身体に金を支払うというのだからむしろ好都合でしかない。
そのようにして自分を貶めても、刹那の光は舞い込んではこなかった。
友達募集、と称した掲示板から手頃な買い手の投稿を見繕い、午後七時には家を出た。待ち合わせの時間は八時だ。ホテルの料金が、その時間からだと安くなる。合理的な判断だとは思ったが、面白くはなかった。
地元の駅から四駅離れた駅のロータリーで、相手の男を待つ。空腹の時は待ち時間がやけに長く感じる。この感覚はあまり好きではない。駅前の飲み屋街の灯りは煌びやかに輝いているのに、私の世界には相変わらず光は無かった。
待ち合わせ時間を五分過ぎた頃に、援助交際用に使っている携帯電話が鳴った。
「着きました。どこにいますか?」
私は電話越しの声を聞いて、身震いを止められなかった。ぞわりと背中を舐めるような感覚が、そこにはあった。
声の主に何も答えず、周囲を見渡す。色の無い世界。その中にぽつりと、悍ましい色を孕んだ何かが立っていた。それは細い針金細工のような体躯の男で、くたびれたスーツを纏っていた。短く刈り上げた髪。黒縁の眼鏡。少し欠けた頬。
それは、私の姿を確認すると、口をあんぐりと開いて目を丸くした。
「ユリカ……?」
「お父さん……?」
私を金で買おうとしたのは私の父親で、私がそれを受け入れた相手は、私の父親だった。
父は私に駆け寄るなり、思い切り平手で頬を打った。痛みはあったが、それに対して特に感情は湧かなかった。むしろそれが父親の当然の反応だと思うし、たとえ自分が普段十代の女を金で買っている下衆な男だったとしても、父親である以上はそうする権利があると思う。
だから私は父親の罵詈雑言を受け入れたし、一度も反論はしなかった。ただ一言だけ、彼の言葉の合間に挟んだだけだ。
「私は、お父さんに抱かれてもいいよ」
親子という関係を破壊してしまうには、その一言で充分だった。
父は声を押し殺して泣いた。そして、私の手首を強く握り、駐車場に停めてあったワンボックスカーに、重い荷物を放り込むように押し込んだ。
車の中で私は父と交わった。そして、ホテルで二回交わった。下卑た感覚のせいでその間ずっと鳥肌が立っていたが、苦痛ではなかった。
むしろ気持ちいいと思えてしまう自分の異常さが苦しい。実の父親に、欲望の捌け口にされ、中に射精され、私はだらしなく涎を垂らして喘ぎ、よがった。狂っていると思った。
「もう、家に帰ってこないでくれ」
行為が終わり、私が備え付けのコーヒーを淹れて差し出すと、父はそう言った。散々私の中に射精しておいて、随分と思い切りのいい言葉だなと思った。
父はまた泣いた。自分の不道徳を呪った。貞操観念の無い私を罵倒し、昔去った私の母親を詰った。
「俺は精一杯やってきた。やってきたつもりだったんだよ」
財布から一万円札を八枚抜き取り、それをテーブルに叩きつけ、父はシャワーも浴びずに出て行った。父の背中があった場所からベッドに目を移すと、シーツに出来た大きなシミが見えた。私と父が交わった痕だ。
今ここで、シーツをきつく縛って、それで私が首吊り自殺を図るのはすごく適当な行為だと、ふと思った。
父親に犯され、勘当された。それはとても悲しいことだ。だが……
今私が見ている世界には、色がある。
悲しみに打ちひしがれていようと、少なくとも私は今こうして生きているのだ。この世界に宿った悲しい色がそれを実感させてくれる。とても苦しくて、嬉しい。
父だった男が手をつけなかったコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。コーヒーカップの中の黒い液体に、コーヒーフレッシュを注ぐ。白と黒は混ざり合い、優しい茶色になった。絵の具だとこうはいかないのに、コーヒーだとこんなに暖かい色になるのは不思議だ。
コーヒーフレッシュの最後の一滴を、少し高い位置から落とした。
白い雫はコーヒーの水面にぶつかり、暖かい色の冠を作り上げた。それはとても綺麗で、私の脳に、鮮烈に焼き付く。
ミルククラウンが、永遠に崩れなければいいのに。けれどそれは叶わない。私が永劫の色を望めば望むほど、それは色褪せて消えてゆく。
強い想いという額縁に無理矢理はめ込んでみても、それは黄ばみ、埃被って、いずれ消えてしまう。刹那とは、そのようにして死ぬ。
今私が感じている悲哀も、これから見るであろう鮮やかな光景も、全て消え失せてしまって、その果てにいったい何が残るというのか。何も見出せなかったし、見出したくもない。
濡れたシーツの上に寝転び、背中に伝わるシミの冷たさを噛み締めながら、私は自慰をした。
オーガズムに達した瞬間、誰かが撃ち出した弾丸がこの部屋の窓を貫き、私のこめかみに突き刺さればいい。そう思ったが、それは現実にはならない。
決して越えられぬ不可逆の境界線を呪い、声を上げて、泣いた。
あれも、これも、全て境界線の向こうに置いてきた。否、私は置いていかれた。
何もない、色の無い世界に一人取り残されて、私は生きている。
それがとても、痛くて、その痛みも境界線の向こうに行ってしまうのが怖くてーー
自分の首を絞めながら、また、泣いた。
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