2.新月の残酷さ。首筋に出来た痣と、人を信じるということ。

 物心がついた時には、人を信じることが出来なくなっていた。それについて悲観することは無かったし、その感覚が異常であることに気付いた時には、このように生きるしかないのだから仕方がないと割り切っていた。


「カヤ先輩の彼氏、自殺したんだって。知ってる?」


 横文字の長ったらしい名前のコーヒーを啜り、チサトは目を細めながらそんなことを言った。


 オープンしたての喫茶店に連れて来られたかと思えば、こんな話題を振られるのだから嫌気が差す。そもそもどこの誰が聞いているかも分からないこの人の多い店内で、そんな後ろめたい会話を始めようとするのはナンセンスだろう。


「お前は大学生、俺は高卒のフリーター。お前の学校の先輩の身辺事情なんか知るわけないだろ」


 軽く一蹴するが、チサトは悪びれる様子もなく、コーヒーを啜った。プラスチックの容器の中の液体は俺が知っているコーヒーとはかけ離れていて、それが自分の体内を通り抜けるのを想像するだけで胃もたれを起こしそうだった。


「ねぇリクくん。リクくんは私を置いて死んだりしないよね?」


「死なないよ」


 考えるだけ不毛な話だ。遊び呆けた挙句親に頭を下げて入学させてもらった私立大学を三ヶ月で辞め、それきり地元に帰るでもなく家賃三万五千円のアパートとアルバイト先の居酒屋の往復。休みの日はパチンコ。


 こんな自堕落で生産性の無い生活に甘んじておきながら、今更自ら命を絶つ気など湧かなかった。


「リクくんがいなくなったら私ダメだからね。絶対にどこにも行かないでね」


 チサトは綺麗に巻いた栗色の髪を揺らし、ほんのりと濡れた目で俺の頬の辺りを見た。そのように見えた。


「死なないさ」


 俺はチサトではなく、何かに向けてそう言った。それを聞くとチサトは安心したように目尻を緩め、スマートフォンを忙しなく弄り始めた。


 別の男とでも連絡を取っているのだろうか。


 もしかしたらこの喫茶店を出て別れた後に、チサトは家に帰らず真っ先に同じ大学に通う男の元へ向かうかもしれない。


 そうして俺が知らないその誰かの胸に抱かれ、一糸纏わぬ姿で、普段俺には聞かせない声で哭くのかもしれない。


 あり得ない話ではないはずだ。


 俺に対する過度の依存を仄めかす発言も、俺という都合のいい男を繋ぎ止めておくための餌でしかないのかもしれない。


 そうである確証などないが、そうではない確証もどこにもない。疑う理由は、それだけで充分だった。


「チサト、今日はこれから何か予定はあるのか? 何もなければ俺の部屋に来ないか」


 チサトは濡れた瞳をこちらに向け、頷いた。彼女の頭を支える細い手首から伸びた手、指先で、赤いマニキュアが毒々しく輝いていた。悪趣味だと思った。



 昼下がり、明かりも点けず、カーテンも開けず、空調機から風が吹き出す音だけが時の流れを示す四畳半の部屋で、俺達は交わった。


 隣の人に聞かれちゃうね、と妖しく微笑んだチサトの首を絞めると、空気を取り込もうとしていた喉がごろごろと鳴った。壊れてしまいそうだと思った。構うものかと思った。


 俺がチサトの中に射精した後も、彼女は生きていた。壊れていなかった。


「死んじゃうかと思った」


 微睡みの中にいるような、恍惚とした表情を浮かべ、チサトは言った。


「この痣、すごく嬉しい。リクくんが私につけてくれた痣。どう? 私って気持ち悪い?」


「そんなことない」


 俺はチサトの頭を撫で、そして抱き締めた。首筋の辺りを綿毛のような柔らかい髪の毛がくすぐった。安心感があった。こうして身体を重ねている限りは、嘘が嘘ではなくなるような、そんな気がした。



 猜疑心はその翌日には俺の右肩の辺りに居座っていた。顔も形も判らないが、恐らく何でもないような顔をして欠伸でもしているのだろう。そんな彼の言葉を敢えて俺が口に出すとするならば……


「昨日はお楽しみだったね。気は紛れたかな?」


 こんなところだろう。いざ口に出してみるとそれは、舞台のスポットライトに酔う役者の台詞のようだった。


 確信がある。今後どのような衝撃的な出来事が起きても、こいつはその次の日には俺の右肩に張り付いて同じようなことを言うのだろう。


 チサトを呼び付ければ、彼女は講義を休んでこの部屋に来るかもしれない。だがもしかしたら、大学で作った別の彼氏にやり取りを見せて嘲笑うかもしれない。どちらとも証明することが出来なかったので、俺は何も考えずに二度寝することにした。



 そのまま寝坊した俺は、済し崩しにアルバイトを首になった。このままでは来月の家賃が払えないが、大した焦燥感も無かった。


 チサトとも連絡を取らず、ただただ数日の時が過ぎるのを待っていただけだ。


 放置していたペットボトルの中身は酷く澱んでいて、藻のようなものが浮いていた。それを見ても処分する気にはなれないくらい、全ての事柄において無気力だ。


「リクくんは私を置いて死んだりしないよね?」


 チサトの言葉が脳裏を過ぎった。


 ほんの数日前には間を置かずイエスと答えられていたその問いに、今の俺はなんと答えるのだろう。


 俺がいなければ生きていけない。そんな言葉が欺瞞でしかないことを、俺は知っている。


 俺と出会うまでこうして生きてこられた人間の、そんな言葉をどうして信用することが出来る? 数日間とは言え、そんな言葉を吐いた舌の根も乾かぬうちから俺の知らないところでのうのうと生きる彼女を、どうして信用することが出来るのだろうか。


 この蟠りを胸に残したまま、チサトとの交際を続ければ、俺は彼女を殺してしまうだろう。そして彼女も、俺のこんな独白を微笑んで受け止めるのだ。


 それは残酷なことだ。


 受け入れると微笑むチサトの本意がどうであれ、その確証を得る術を知らない俺にとっては悍ましい蛇の甘言と同じことだ。


 仮にチサトが紡ぐ言葉の全てが真実だったとしても、それが嘘に変わる日はやってくる。一瞬の安寧に身を委ねて、その現実に放り出されてしまうのは……考えただけでもぞっとする話だ。


 裏切られる前に裏切ってしまえ。


 右肩の猜疑心がほくそ笑んだ。それもいいかもしれない。そう思えた。



 明けない夜はない。だから耐え忍び、今日を生きろ。


 使い古された言葉だし、少なくともこの二十一年間、一度も猜疑心の夜が明けることはなかったので、その言葉を信用することなど出来ない。


 時刻は丁度零時。スマートフォンの画面に並ぶ四つの零が日付けが変わったことを告げていた。死ぬには良いタイミングだ。俺は、冷たい夜風が吹き荒ぶ冬の海に来ていた。


 一度思い立ってしまえば早かった。世間のボトムラインを体現したような人生を送ってきたのだ。それを終わらせる為の猶予期間など、半日もあれば事足りる。今までの人生で、唯一誇れることだと言っても過言ではないだろう。


 普通はこんな時、何ヶ月も何年も苦悩し、時には手首を切りつけ、枕を濡らし、そんな物語のような段階を踏んで死へと辿り着くのだろう。


 そういう意味では俺という人間は文学的リアリティに欠けているのかもしれない。だがそれもどうでもいいことだ。この人生を後世に語り継がれたところで、誰の記憶にも留まらずに忘れ去られたところで、俺には関係ない。


 この世界に真実が無いことに絶望を抱いてしまった反面。そういった悲観すらもどこか俺の知らない領域へと消え去ってしまったのかもしれない。


 今夜は新月だ。冬の海を照らすものは何もなく、砂浜と水との境界線は限りなく薄い。この線を踏み込むには、自分の命を断つには、丁度いい日だ。


 生きたいという気持ちが無いと言えば嘘になる。だが俺は、今まで俺を取り巻く有象無象を疑って生きてきたのだ。今更そんな些末な感情を騙したところでどこも痛みはしない。


 新品の煙草の箱の封を開け、一本だけ取り出す。死ぬ前に、一本だけ吸うと決めていた。


 か細いライターの火を手で包み込み、火が点いた煙草の煙を一気に肺に取り込んだ。


 一年ぶりの煙草の味に大した感慨も湧かなかった。ただ、脳が痺れるようなニコチンの感覚が身体を重くしただけだった。


 煙草を辞めたのはチサトが嫌煙家だったからで、俺自身それに気遣って辞めることに大した苦痛は感じなかったのでそうした。ただそれだけの事で、深い意味はない。


 なのに何故、今更になってチサトの顔を思い出してしまうのだろうか。


 声にならない声を上げることを、止められなかった。嗚咽を堪えることが出来なかった。


 手足が震え、吸いかけの煙草を持つことも出来ないのに、足は何かに誘い込まれるように境界線に近付いてゆく。


 砂浜と海の境界線に立つと足の震えは止まった。


 嫌だ。生きることは、こんなにも苦しいのに、何も信じられないことはこんなにも痛いのに。


 どうして俺は、この線を踏み越えることが出来ないのだろうかーー


 ここで踏みとどまってしまえば、また苦痛が顔を出す。右肩の猜疑心はつまらなそうな顔をして俺を罵るだろう。そして、そこまで猜疑心に絶望していながらも、俺は俺に依存するチサトの言葉を信用してやることも出来ないのだ。


 独りで生きていくことは出来ない。だから、裏切られてもいい心算はしていた。出来るだけ裏切る可能性を小さくするために、依存癖のある彼女を作った。


 それでも平穏はどこにも無くて、生きることに絶望してしまったのに。


 俺は、絶望したまま生きていかなければならないのだろうか。


 境界線を、踏み越えられない自分を呪い、泣いた。


 誰も見ていない場所で、泣いた。


 

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