メンヘルハッピーデッドエンド
相川由真
1.サイコロを振る腕。建設的な死と、彼と私の共通点について。
「どうした? 楽しくないかい?」
寒波の影響で外は吹雪いており、窓から望む景色は閃光のように通り過ぎる白い雪の線だけだった。
今年はホワイトクリスマスになりそうだ。そんな風に、三日前にカズヤと笑い合った時には、まさか自分がこんな憂鬱なクリスマスを過ごすことになるとは思わなかった。
「ちっとも楽しくない」
この強烈な吹雪の中、クリスマス料金と称していつもより割高になったランチを食べに行くのは利口な選択ではない。その程度の分別はつくつもりだが、私はなんでもなさそうな顔をしてボードゲームに勤しむカズヤに、筆舌に尽くし難い、悪意のようなものを抱いていた。
二人で向かい合うには少し大きなテーブル。その上に広がったボードゲームの盤面では赤と青の駒が一つずつ、競い合うように隣り合わせのマスに並んでいる。
「今日はクリスマスなのよ。どうして私は恋人と二人で、よりによって今日、ボードゲームをしなきゃいけないの?」
我ながら酷い物言いだと思った。カズヤに当たったところで天候が回復することはない。それでも、私のこの苛立ちはカズヤにぶつけることでしか解消出来ない気がしたのだ。
カズヤは困ったような顔をして、頬を掻いた。それは彼が何か言いたいことがあるのを、無理矢理抑え込む時の癖だった。
また困らせてしまった。そんな風に胸の奥を刺す罪悪感を、彼は解ってくれるだろうか。
「君の番だ。サイコロを振りなよ」
全てをしまい込んで、彼は私に促した。
その通りに、サイコロを振り、出た目の数だけ赤い駒を進める。止まったマスは、交通事故に遭い、一回休みと書かれたマスだった。
私はボードゲームの中でも嫌なことばかりね、と言った。するとカズヤはシニカルな笑みを浮かべ、テーブルの上で両手を組み、その上に顎を乗せた。
「不思議だね。現実の僕達は何かにつけて休みを求めて、それが実現するととても嬉しい気持ちになるのにね。どうして盤面で休みを得られるとこんなに嫌な気持ちになるのかな?」
「現実で交通事故に遭って休みになったって嬉しいわけないじゃない」
「そうかい? 僕は嬉しいけどな」
カズヤはそれだけ言うとサイコロを振った。カーディガンの袖から伸びた細く白い手首、その中央で存在を主張する、リストカットの赤い痕が揺らめいた。
私とカズヤが出会った時から、その赤色の線は彼の左手首に住み着いていた。
その傷が出来るに至った、彼の昔の経験を、私は知らない。それについて下手な探りを入れることは、彼のパーソナルスペースを脅かすことのように思えたし、それによって私と彼の関係が揺らぐことが怖かった。
私はそれを良しとはしなかったし、カズヤもそのように考えていたと思う。
彼の過去を共有出来ない自分に腹を立て、私が彼と同じところに、自分で傷をつけた時も、彼は何も言わずにただ抱き締めてくれた。どうして、とは聞かなかった。私と同じように接してくれたことが、その時はとても嬉しかった。
身体の表面を目に見えない薄い膜のようなものが覆っていて、それが私と他者を致命的なまでに隔てているのだ。
その膜はカズヤの身体にも、私の両親にも、カズヤの両親にも纏わり付いている。
その膜を破り捨て、直接身体に触れようとすれば、たちまち私達は壊れてしまうだろう。それは境界線なのだ。そうして仕切られている以上、私達はそれを踏み越えてはいけないし、踏み越えたいと思ってはいけない。
そう思ってしまったが最後、関係は壊れてしまうのだから。
「二回連続で六だ。生き急ぐ人生だね」
溜息混じりで、少し気取ったようなカズヤの声が私の意識を覚醒させた。
私は物思いに耽るとぼんやりとしてしまう癖があるので、よく人の話を聞いていないと指摘されるのだが、カズヤはそれを特に気にもせず、私が一人で我に帰るのを待ってくれる。
今こうして、何を急かすでもなく微笑んでいるように。
余裕のある彼の態度を見ていると、時々私は彼にとってどうでもいい人間なのではないかと不安になる。
しかし私に何も求めず、ただ微笑んで甘えさせてくれるカズヤが好きだった。矛盾しているように思うが、その感情だけは真実なのだ。
お互い、もう二十歳だというのに、そんな男女が交際しているというのに、私達は一度もセックスをしていない。彼がどうなのかは知らないが、私はまだ処女だった。
私達の交際を知る人達にはよくそのことを冷やかされるが、肉体関係ありきの交際に、私はなんの魅力も感じていない。カズヤが私に何を求めているのか、求めていないのか、それは彼の境界線の向こうに隠された答えで、私に知る術はない。けれど、私達の交際の上っ面において、彼は私の身体を求めてはいない。
それがとても心地良く、私はそれに甘えている。
私はサイコロを振った。彼と同じように傷を入れた左手で。
出た目は一だった。
私の番を一度飛ばし、二回連続で六の目を出した彼の駒と私の駒との間には、大きな隔たりが出来てしまっていた。
「もういい。別のことをしようよ」
我儘だ。このボードゲームを楽しむつもりは最初から無かったが、それでも私は渋々了承した。にもかかわらずこんな自分勝手な言葉を、息を吐くように漏らしてしまう自分が嫌だ。
「もうすぐ終わるよ。少しだけ付き合ってくれよ」
カズヤはボードゲームをやめようとはしなかった。赤い手首を曝しながら、彼はまたサイコロを振った。出た目はまた六だった。
「カズヤばかり良い目が出る。ますます嫌になっちゃう」
「君の目だって良い目かもしれないじゃないか」
「六が一番良いに決まってるじゃない」
幼稚な反論を被せる自分が滑稽だ。私は何を言っているのだろう。元より、こんな退屈なボードゲームの勝敗なんて微塵も気にしてはいなかったはずなのに。
それに気付いた時には、何故か私の頬は緩んでいた。カズヤはそんな私を見て笑った。そのように、見えた。
「ねぇカヤ。早く生きることはそんなに良いことではないと思うよ。一の目でも二の目でも、時には六よりいいことだってある。むしろそんなケースはかなり多いと思うよ」
彼は一区切り置き、傍に置いたマグカップに口をつけた。中身は饐えた匂いを放つ、安いインスタントコーヒーだ。すっかり冷めてしまって、美味しくはないだろう。
「死んでしまうその時に、全てにオチがつくその時にやっと、あの時出た目は良い目だったとか、悪い目だったとか、そんな風に理解出来るんじゃないかな? ゲームの途中で目の良し悪しに駄々をこねるのは、少し早いさ」
「じゃあどうして皆競争するの? カズヤだってそう、何でもないような顔して、頑張り過ぎなくらい勉強してるじゃない」
カズヤはとても優秀だった。私達の出会いのきっかけは、同じ大学の同じ講義を取っていて、たまたま席が近い事が多い、そんな在り来たりなものだった。
だから彼が常に優秀な成績を収めていることを私は知っていたし、交友関係にも恵まれていることも知っていた。しかし彼の手首の赤色を知ってしまったせいで、彼を取り巻く華やかな経歴全てが、何らかの強迫観念から逃げ続けた足跡のようにも思えるのだ。
身体を覆う膜が、境界線が、霞んできた。
「カヤ、僕はね。ゲームの途中で賽の目をどうこう言うつもりはないんだ。ただ……」
賽の目の答えを、はやく知りたい。
カズヤはそう言って、サイコロを振った。出た目はまた六だった。先に行くよ、と言った彼に、私は返すべき言葉を言えなかった。
年が明けて間も無い頃に、カズヤは死んだ。
死因は首吊りによる窒息死だったらしい。遺書は無かったと、カズヤの母親は言っていた。
私達の関係を知っていた大学の友人はこぞって私に彼の今際の際の言葉を問うた。だが私はあのクリスマス以降カズヤと会うどころか、連絡すら取っていなかった。
それに関しては別段珍しいことでもなかった。お互いに大学の事やプライベートの事で忙殺されることもあったし、むしろそういう時に無理に連絡を取り合わなかった事が、交際が長く続いた理由だったとも思う。
長く続いた。だからどうしたというのだろうか。
私のゲームはまだ終わっていない。カズヤは先にゴールしてしまったのだ。
私達の交際に、意味はあったのだろうか。それを夢想することを、カズヤはよく思わないのだろう。
私達は別の場所でサイコロを振り、同じ目を引き当てて交わった。その意味を、意義を知るのは、一足先にゲームを終えたカズヤだけだ。そう考えると、私はカズヤというものについて何も知らないのかもしれない。
だから知人にカズヤのことを問われても私は閉口するしかなかったし、カズヤの母親に、カズヤと交際して幸せだったかと問われても何も言えなかった。
残ったのは虚無感だけだ。
うら寂しい廃工場の一角。カズヤはここで、年明けの冷えた夜中に首を吊った。
カズヤは、泣いていたのだろうか。あるいはいつもの調子で、微笑んでいたのだろうか。
道の傍に転がった消化器は埃を被っていて、その本来の役割を果たすことは無い。ゴミとして気軽に処分することが出来ないからこうして放置され、誰の記憶からも消し去られて、彼はこうして佇んでいるのだろう。私と同じだ、と思った。
カズヤと交際していた私は既に皆の記憶からは消え失せていて、代わりに彼等の前で私を演じるのは、恋人を失った私だ。
そのようにして人は生まれ変わりを繰り返す。考えてみれば当然のことだ。だがそれを考えてしまったら……それは……
私は、私の身体を覆う膜を、境界線を、否定しようとしている。
「僕にはね、境目が見えないんだ」
私が二十歳の誕生日を迎えた日の夜、安い個室の居酒屋で酒を酌み交わしながら、カズヤはそんなことを言っていた。
「境目?」
「そう、境目」
水割りの麦焼酎で唇を濡らし、カズヤはほんのりと赤くなった顔を上げた。その目はうっすらと濡れていた。その時のカズヤは、酔っていた。
「分からないんだ。僕は人のどの部分まで踏み込んでいいのか。どのように踏み込めばいいのか、全然分からないんだ。言葉で人を傷付けて、僕の目の前に血が流れて、そこでやっと気付くんだ。間違えていたことに」
彼の吐露に、その時私はなんと返しただろうか。私も酔っていたし、カズヤが珍しくそんな弱音を吐いていたことが印象に残っていただけで、肝心な、私の答えの部分にだけ深い霧がかかっていた。
私はコートのポケットからカッターナイフを取り出し、うっすらとした白い線に成り果ててしまった、カズヤとの共通点に沿って刃を這わせた。
表皮の下の柔らかい肉がぷつり、ぷつりと裂かれる感覚と、痺れるような痛みが通り過ぎると、かつての赤色が顔を出した。ただ、それだけだった。
泣きたかった。暴れたかった。誰かに八つ当たりしたかった。カズヤの名前を呼びたかった。カズヤが辿った道を追い、解答に辿り着きたかった。
けれども私が振ったサイコロは変わらず一の目を示し続けていて、そのどれもを選択することは叶わない。
何かの境界線を踏み越えて、彼はそのまま帰ってはこなかった。彼は解答に辿り着いたのだから、それは当然の理だろう。
だが、残された私はどうなる? この目に、一体どんな意味があるのだろうか。
カッターナイフの刃を握り締める。鋭い痛みは血となって掌から零れ落ち、床を濡らした。
カズヤを失ってしまった。私は彼を追えなかった。引き止められなかった。彼の死を、理解することが出来なかった。
それよりも、私が悲しいのはーー
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