【三】夢転

 私は明宮先輩を屋上のドアの前に待機させた。もし元道がいたら、二人そろって身を落とす可能性があるからだ。二人はそういう仲である。

 ドアを開けると、やはりそこには彼がいた。

 正直言って、彼を説得する言葉はまだ決まっていない。そのうえあんなことがあって、話すきっかけがまるで出てこない。

 彼は屋上の汚れた底面であぐらをかいていた。ただ座っているだけである。まだ自殺しようとしていないわけだ。

 周囲には、彼女を除き誰ひとり人間はいない。私はそっとドアを閉めて、彼のもとへと近寄った。そして彼の横に二歩分空けて、汚れた底面に正座した。

 すると元道が言い聞かせるように独り言をつぶやき始めた。私はそれで普通じゃないことを確信した。

 私は器用すぎた。生まれてすぐに母の名をつぶやいたのだという。半年で歩き始め、一つで流暢に話し、二つで字もまっすぐ書けるようになった。その上に可愛がられ、欲しいものは全て手に入ってきたのだから私はボンボンだ。小学生の頃から人生がつまらなくなってきた。だから普通じゃできないことをだんだんとやり始めた。中学の予習から始まって、漢数英検は全て一級を取ってきた。百メートルの走りは十秒。泳ぎは五十秒。跳び箱十五段。弓道十段、剣道六段。正直言って、これ以上やってもバカバカしいだけでやる気は出なかった。通知表はオール五が当然でつまらないからテストを白紙で提出したこともあった。理解されないかもしれないが辛かった。やることすべてが、成功へと落ち着くのだよ。

 元道はそこで一旦口を止めた。そして頭を片手で抱えると、バリケードのためのフェンスに近寄るためか立ち上がった。

 私はだんだんと行く元道を止めなかった。彼に非常に嫉妬し、激怒した。凡人の努力を侮辱するかのような成績。凡人の私に分かるはずもないことを訴えて、苦しみを共有してもらおうとの発言行為。そのうえで、私を襲っておいての反省は一切ない。

 なんという自己中。これで様々な才能があるのだから、私は今猛烈にムカついているのである。

 元道はフェンスに近寄ると、ハァとため息をついた。飛んだとしても、私は死ぬことができないだろう、とフェンスをよじ登っていった。続けて、屋上の隅に立って自分の書いた本を読み始めた。生存の理由である。元道は再びため息をついて最後に訴えた。

「私にも壁が欲しかったよ。おかげでこの世では負け犬だ」

 元道は持っていた本を、とともに空に投げ捨てた。

 そこで怒りを通り越したのか、単に冷静になれたのか、私は動くことができた。

 あなたは負け犬です。理由は覚えていないが私が彼にかけた第一声はそれであった。さらに続けて、あなたは私に負けました、と今から見れば勝手なことを私は口にした。

 元道はなぜと返し、座って聴く態度をとった。

 本番に強いのか、私は答えを用意していたかのように答えた。

 人間、死んだら可能性は潰えます。結果も形になります。ここであなたが死んだら、あなたの結果は形になります。その程度で終わってしまいます。だから、私があなたを超えることが、時間の差で確定します。すなわち、あなたは負け犬になります。凡人に負けた、ただの天才小説家です。

 乾ききった風が、私と元道の黒髪を乱した。それはシリアスな状況を、一層にそうにさせた。

 それからひと呼吸、敗北宣言されたのは初めてだよと彼は笑った。一瞬、ひと呼吸の間が絶句したかのようにも見えたが、元道はあっさりとこちら側に戻ってきた。

 私はひと安心するどころか、もどる彼を見て緊張した。彼の正面容姿に夕日が綺麗に重なって、まるで神様のように見えた。だから、私は恐れ多くて目をそらした。英傑に喧嘩を売ったと今気がついた。超えられない壁のようなものをそこに見た気がした。いや、その壁を私は無我夢中にも作ってしまったのだ。

 元道は何やら、計画通りといった感じで満足そうだった。「負けるのは初めてのことだ。君は僕に勝ったのだから、私のライバルになりたまえ。死ぬことを諦めてやったのだから、それでいいね」と笑ってきた。

 私は、元道のそれに、お手柔らかにと言わずにはいられなかった。というより、ライバルになるつもりはそもそもなかったのだ。

 けれども、後悔の気持ちもなかった。その理由は説明できそうにないが、私はこの時、小説を書いていこうと心に決めたのである。

 その後である、明宮先輩が、大好きな元道に抱きついたのは。彼は心配かけたね、とキザに謝っては彼女の頭を優しく撫でていた。

 私は、この時ようやくひと安心した。まるで、かごの外に出た鳥のような気分であった。


 私はその晩、バイト先に出勤した。

 学校が非常に重たくてやる気など全くなかったが、サボるわけにもいかない。花金だと自分を奮い立たせ、控え室に私は足を運んだ。

 そこには、中学時代の友人である香奈かながいた。私が同年全員男子だけだよぉ~、と口を滑らせてしまったことから、わざわざ私のバイト先に足を揃えてくれたなんともありがたい友人である。

 そしてもうひとり、つい最近までここにおらず私もこのタイミングで、彼ここに入ったんだと知った青髪の少年、刃釜夏器である。

 本来の私なら、親しい彼女にまっさきに話しかけたのだろうが、インパクトが強すぎて思わず夏器と彼を呼び捨てにしてしまった。ついでに、ドアを動かす手も止めてしまった。

 彼はおはようございます上条さん、と目をへの字にして私に近寄ってくる。して、今日から働かせてもらうことになりました、宜しくお願いしますと手を出してきた。

 私はそれの意味が理解できなかった。香奈にハンドシェイクと言われてようやく行えた。私はぎこちなくなれないそれをこなすと、付け加えるように「こちらこそよろしく」と述べた。

 男性とそれをしたのは記憶上これが初めてで、入ってすぐ横にある鏡で私は自分が赤面していることに気がついた。逃げたいと思ったが、先に香奈に逃げられて仕方なくここで待つことになった。

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