誘外

 清海の所属する研究室は完全放置型のそれで、学生は卒論さえ提出すれば無事卒業出来る。料理のレシピやゲームの攻略資料を書き散らしたものでも体裁さえ整っていれば受け付けてくれるといった噂さえある。多くの学生はその空いた時間を就職活動に利用していた。少数の例外が清海達や別のグループだ。

 清海がここを選んだのは修了が容易いからではない、神醒術の研究において、教授の名がそこそこ有名であったからだ。実施に関して碌な才能を示せなかった自分でも、神醒術に係り、名を成せるのではないかと考えたからだった。しかし運よく転がり込んだ場所の内実は彼の考えていたものとは違っていた。この学校の研究室は八幡学園大等部に於ける所謂広告塔の一つだった。秘匿される事の多い神醒術を当たり障りのない範囲で世間に公表する、そんな役割を担っていたのだ。教授が月の半分を出張で不在とし、満足な指導も無く、既存技術の資料のまとめだけをやらされる日常が一年近く経って、漸く清海はそれを理解した。自身の神醒術に対する未来が閉ざされているに等しいことも。

 それは自覚の無い怠惰に因る結果であったが、清海には理不尽として捉えられていた。情熱も動機もあった。だが運が無かったのだと彼は責任を先ず無形のものに押しつけた。しかし鬱屈する精神は責める相手を求めだし、彼は段々とそれを周囲に向ける様になっていった。とはいえ彼は当たり前の若者でしかなかったから、具体的な行動によって何かする訳でも無く、同様の不満を抱えた友人達と、教授が悪い取り巻きが悪い、と日々愚痴を溢し合っているだけではあった。

 研究室はその立ち位置からある程度の資料へのアクセス権、研究設備が与えられていた。指導する者が不在がちな為、凡百の徒には満足に利用する事が出来なかったが、自ずから学び活用してみせる能力のある学生も幾人かはいた。彼らは勝手に自分たちだけで研究らしきものを進め、どうやら何がしかの成果を出せるところまで辿り着こうとしているらしかった。そうした事に気付いた時、あるいは清海が彼らに教えを乞うことが出来ていれば後の惨劇は起こらなかったのかもしれない。少なくとも清海がああなる事は無かったに違いない。しかし、清海は彼らに近付くことは無かった。それどころか、蔑みの眼で見ていた。これは清海だけではなく、研究室の全ての人間がそうであった。彼らは身嗜みに気を遣わな過ぎ、会話の中で唐突にアニメの感想を求め、触手が幼女をどうのと変態じみた話題を辺りかまわず交し、奇声に近い声で笑う。そういった人種だった。

 清海がその会話を聞いたのは偶然だった。その日彼は友人が講義を終えるまで待つつもりで、誰もいない部屋の机に伏して微睡んでいた。ぼんやりとした意識の中に、背後の仕切りで切り取っただけのスペースから話し声が滑り込んできた。そこは件の連中が普段から溜まっている場所だ。どうやら二人が話している様だが、一人の声はぼそぼそとして聞き取れなかった。そもそも彼には会話を聞き取っているという意識さえ始めは無かったのだが、その内容を理解した時、彼は衝撃に数分ほど我を忘れていたらしい。気付くと声の主たちの気配は消えていた。彼はゆっくりと音を立てない様に立ち上がり、恐る恐る仕切りの向こうを除く。簡易な長机とパイプ椅子が四つ。机の上には紙束やファイルが乱雑に散らばり、しかしそんな中にそれは確かに有った。会話の内容が真実ならそれは大したものの筈で、無造作に置かれていていいものではなかった。神醒術師が耳に付けるゲートらしきものと、醜い獣と細かな文様が描かれた一枚の絵札。それは、素質の乏しい神醒術師でも神格の顕現を限定的に可能にするという、画期的な呪具。あらゆる状況が否定しているのに、清海はどういうわけかそれを疑うことをしなかった。彼の脳裏にあったのは誰かに見つからないうちにそれを持ち出さなければならないという願望。理性ではなく、ほんのわずかによぎる道徳心が伸ばす手を震わせる。

 数分後、清海は友人に、先に帰るとメールを送り、リュックを抱きしめ駆けるようにして帰路についていた。

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虎身忘心譚《こしんぼうじんたん》 茶版 @nekamanoTEA

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