虎身忘心譚《こしんぼうじんたん》
茶版
己失
昨夜の歓喜、超越、全能感は既に一切合切、焦燥と恐怖に取って代わっていた。
日が高く昇った頃の遅い目覚め、そして己の状況を突きつけられた時から今、部屋の中が薄暗くなる迄ずっと、彼はその有様であった。
カーテンの隙間から、赤い空が彼の眼を射した。その瞬間、赤に因る想起で彼を飢えが支配する。腹から雷鳴の様な音が鳴り、胃が収縮し、痛みを伴い主張する。堪らず清海は腕を床につけて寝台から這い出した。立ち上がろうとするがあまりの欲求に急かされて、中腰の半ば四つん這いに近い格好で、隣室の冷蔵庫へと向かう。叩きつける様にして横に引いた戸の硝子にひびがはしった。進路にあった椅子を払い除けて進み、冷蔵庫を開け放つ。視線を走らせ眼に付いたパックの豚肉をビニールごと引っ掴んで、大きく裂けた口内へ放り込んだ。常なら二食分はあるそれは今の彼には一口にも足りず、鋭く不揃いに並んだ牙であっという間に肉を咀嚼し嚥下する。なまじの量の肉の味は、彼を満たすどころかより強い飢餓感を生んだ。冷蔵庫には男の一人暮らしにしては多様な食材が収められていたが、彼の食指に叶うものは他に無く、野菜などは口に近付けると吐き気を催す程だった。辛うじて卵には強い拒絶を覚えなかったので、殻ごと含んで噛み割り、啜る。だが、それでおしまい。冷蔵庫の中身を乱暴に掻き出してみても何もない。数枚の陶器を落として割ってしまった乱暴さで食器棚の下を開いてみるが、パスタの袋があるだけで、缶詰もスナック菓子でさえ見当たらない。
飢えからくる腹の痛みと、脳に響くほどの鼓動に朦朧として、清海は玄関の方へとふらふらと進む。これ以上はいけない。あの鉄の扉を開いてはならない。そうすればどうしてしまうのか、…彼はまだ、そこにたどり着かないことを選択出来た。それでも体は少しずつ少しずつ扉に近づいていく。
チャイムが鳴った。
全身の毛が逆立ち、昨日とは比べ物にならない変化を遂げた肉体に、既にはち切れそうだった肌着が更なる膨張に耐えきれず、一部音を立てて裂けた。そのまま彼は身じろぎせず呼吸さえ止める。
永いほんの一時の空白が過ぎ、扉が叩かれ彼を呼ぶ声が聞こえた。
それは大学の友人のものだった。恐らく今日姿を見せず連絡も取れない彼を心配して訪れたのだろう。何度か声が掛けられる。そのたびに、清海の理性と暴かれる恐怖と、おぞましい欲望が全てひっくるめて刺激され、そのない交ぜの苦しみに耐えるため、彼は己が身を掻き抱いて締め付けた。
だが先ほどの布が破れる音が聞こえていたのだろう、友人はドアノブに手をかけ回す。回るそれ、開いていく扉、差し込む外灯の光をゆっくりと知覚しながら、清海は何が悪かったのかと考えていた。昨夜の帰宅時、興奮のまま鍵をかけ忘れていたことか。身の丈を顧みず神格を顕現させてしまったことか。あれに手を伸ばしてしまったことか。そもそも何故自分はあんな物を信用してしまったのか。
玄関先の友人は怪訝な表情で立っていた。その顔が歪み、口が開かれようとした時、清海は手を突き出して、友人の頬を口内からその爪で突き刺し貫いていた。口を塞ごうとしただけの筈だったが、起こってしまえば、その瞬間からもうどうでもよくなっていた。その時、相模原清海という理性は失われたのだ。
突き刺した指を曲げ、頬を引っ掛けた容で腕を引き、友人の体を室内へと放り投げた。戸を閉めて振り向くと、両手で裂けた頬を抑え痛みにのたうつ友人が、呼気が漏れるのもかまわず叫ぼうとしている様に見えたので、彼はその爪を今度は友人の肺に突き立てた。血の泡を吹き体を痙攣させる友人から、ちょっと肉を摘まみ引き千切りながら指先を引き抜くと、彼はそれを口に含み、瞳を閉じて咀嚼し、嚥下すると言った。
「あぁ、本橋ぃ、お前、美味いなぁ」
玄関先を天井まで真っ赤に染め上げ、満足するまで獲物を味わった獣は壁に背を預けて腹を擦りながら思った。内臓は不味いから今度から除けよう。
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