第5話
懐かしい。ここに来るのは高校一年生以来三年ぶりだった。
一年四組のプレートで示されていたその教室の中をこっそりと覗くと、中には紛れもないTさんが、何故だか当時の僕の机の前に立っていた。僕はまた深くため息をついて、右手に握りしめたハンカチ入りの小箱をじっと見つめる。
「はあ……やらなきゃいけないんだろうな。高校時代に後悔したことなんて山ほどあるのに、なんでこれなんだ……」
Tさんの姿を教室のドア越しに見つめながら、ああやっぱり綺麗な顔をしているな、なんて気色の悪いことを考えている自分につくづくうんざりした。こんなところでいつまでも綺麗な横顔を見つめていたところでなんにも進まないのだ。行くしかないぞ、僕。さっさとその目の前のドアを開けやがれ。そして渡して言えばいいのだ、あの時はありがとう、と。簡単だろう? さあ、いざ。
僕は勢いに任せてドアを開けた。その音に驚いたのかTさんは少しおびえたような顔でドアを開けて突っ立っている僕を見た。僕はその表情を見て少しの罪悪感を感じながら、恐る恐る彼女のもとへ歩み寄っていった。Tさんは僕が来るまでそこを動かなかった。僕は当時の自分の机を挟んでTさんと向かい合う形に立った。そして右手に持った小箱をそっと机の上に置いた。Tさんはそれを不思議そうに見ている。
「あ、あの、これ、お弁当箱の、その……お礼です。あの時結局ありがとうも言えなくて、だから、今更なんだけど……」
頭の中で整理した内容の文言とはまるで違う、何を言っているのだかわからない言葉が口からぼろぼろと零れだす。彼女はなんとか理解したようで、それを受け取るとあの時弁当箱を渡してくれた笑顔で言った。
「えと、ありがとうね。あ、でも勘違いしないでね。私は決してあなたに好意を抱いてお弁当箱洗ったわけじゃないからね。先生に渡してくれって頼まれて、そのままってわけにもいかなかったから仕方なく洗ったの。だからこんなお礼されるのも的外れっていうかなんていうか……あ、気持ちはありがたく受け取っておくね。だからこれはいらない、ハイ返す。それじゃあね」
Tさんはそんなようなことを淡々と言い放ち、僕の目の前から、この教室からさっさと消えていった。なんだろう、とびきり悪い夢を見ている気分だ。要するに僕はこのお礼を彼女に渡すことで、好きでもないのに弁当箱を洗っただけでそれを好意だと勘違いしてわざわざハンカチをプレゼントしようとしてくる気持ち悪い豚野郎、になったというわけだ。なんだこれ。なんだこれは。
「……なんだこ——」
それを叫び終わる前に、僕の視界はここに来た時と同じように、目眩のごとくぐらぐらと回りだした。思わず目を瞑り、次に開いた時には僕は自分の部屋に戻っていた。
「お、帰ってきたか。早かったな」
西山がお気楽な声でそんなことを言った。
「な、なあ。一体なんだよこれ、こんなんで本当に直るのかよ。なんだかよくわからないけど、恥をしのいで女の子にお礼を渡したらボロクソ言われて帰ってきたんだけど」
「ん、なんだそれ。それがお前の後悔かよ。あっははは」
「なに笑ってるんだ、笑い事じゃ……」
興奮気味の僕の頭を西山は近くにあった新聞紙でパーンと叩き、頭が混乱している僕に呆れた顔で言った。
「まあ落ち着けって。ほら、その箱の中見てみろよ」
「え、箱って……あれ」
僕の右手には、何故だか机の上にTさんによって置いてかれた小箱が握られていた。自分で持ち帰ったつもりはないのに……不審に思いながらも、僕はその箱を開ける。そこに入っていたのはお礼のために用意した可愛らしいハンカチではなく、どこにでも売ってそうなシンプルなセロハンテープだった。
「お、それだそれ。ほら、眼鏡かけて部屋見てみろ」
西山に促されるまま、僕は眼鏡をかける。さっき触れたヒビを見てみると、何やら印のようなものが付いていた。
「な、なんだこれ」
「それが修復の印だ。そこに合わせて、えーと……なるほどな、そのセロハンテープを貼ってみろ」
「こ、これを……」
こういうときの僕に言われたことをしっかり守って行動する以外の思考は存在しない。セロハンテープを壁のヒビにある印の長さで切って、ぺったりと貼り付けてみた。するとそのヒビはたちまちのうちに引き寄せられるようにくっついて、どこにヒビが走っていたのかもわからないほどに綺麗に壁が修復された。
「な、直った……」
「おう、それでとりあえず一個だな。残りも頑張れよ」
こんなことで異常の原因が一つ取り除かれたというのだろうか。いや、西山もそう言っているし、こんな摩訶不思議な現象を目の当たりにして否定する気にもなれないけれど。
僕はとりあえず、一つの悔いを晴らすことができた。そしてそれはこの時空異常を修復するためのツールとなった。僕は部屋に残る「穴」と「亀裂」を見た。あと二つ、僕は自身の悔いの向き合ってそれを克服しなければならないらしい。今日何度目なのだろうか、深い深いため息をついて、ゆっくり眼鏡を外した。
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