10『紋章術講師の憂い』
夏休みの姿が見えてくる七月半ば。響が奏を師としてから、およそ一カ月半が過ぎていた。
気温は日に日に上がっていき、「今年一番の猛暑」が連日続いている。事実、早朝に起きても気温も湿度も高く、ランニングが億劫になってきている。さすがにそれでやめるほど、響の意志は弱くはないが。
通学するだけでも体力を吸い上げられるこの季節は、地獄という形容詞すら相応しい。
「けど、ここの部屋って涼しいですよね……」
学園の敷地のはずれにある二階建てのプレハブ。小屋と言っても差し支えない外観を誇るそこの一室で、響は何とはなしに呟いた。
普通科の公立高校ですら空調が入る時代だ。十年前の魔獣大災害を機に、魔術師育成に力を入れているこの国が、魔術学園に空調を設置しないはずもない。
だがそれでも科学の結晶であるクーラーは、どこか人工的な、非自然の温度調整しかできない。
その点このプレハブ全体は、実に自然な涼しさを保っている。確かに学園の隅に追いやられるあまり、年中木陰に入る場所であることは事実だが、それだけでこんな、秋のはじめごろのような涼しさは説明ができない。
クーラーが稼働する音もせず、そもそも室外機もない。では一体この冷気は――?
「紋章術に決まっているじゃない」
さも当然という風に、紋章術講師――長津田春花はうそぶいた。
「氷を作って部屋の温度を下げるなんて幼稚な方法ではなくてね、これは冷風を発生させて流し続けるものなの。派生元素の風の温度をいじって、あまり強く吹きすぎないように流すだけ。ありったけの魔力を注ぎ込めばかなりの時間持つ上に、手間もほとんどかからないの」
「そ、そうですか……」
「それに、クーラーは夏バテの素とか言われているけれど、紋章術ならその心配はないわ。分かるでしょう、この自然な涼しさが。もともと魔術の元素はその土地の自然に起因するものでね。だからこそ、機械的に作り出した涼しさなんて足元にも及ばない、自然で心地よい涼しさが生まれるわけなのよ」
「…………」
長々と、自分が考案した紋章の解説をする春花。
確かに、そう考えてしまえばこの冷房システムは有用なのかもしれない。夏バテ防止などは、それなりに魅力的な要因んだ。戦闘ではなく、普通に製品として売り出せば良さそうだが、魔力に肩がある以上それは不可能だろう。
とはいえ、
「電気代を抑えて、自分の魔力だけで気温を調節できるなら、そっちを取りますよね」
「少し勘違いしているようだから訂正するけれど、私は別に電気代のことなんて考慮に入れてないわ。どうせ学園に使われる費用から支出されるんだもの。私の懐からは何も出て行かない以上、紋章術を使う理由にはなり得ないわ」
「……そうですか。じゃあ、どうしてそっちを?」
「決まっているじゃない。紋章術を愛しているからよ……!」
「あの、やめてください」
この変態講師に個別授業を受け始めてからの時間も、奏と過ごした時間とそうは変わらない。だから毎回のように起こる変態行為にもいい加減慣れたのだが、それでも目の前で紋章が描かれた紙に顔をうずめ、荒々しく息をされてはたまらない。
妙齢の女性にこんなことを言うのもアレだが、非常に気持ち悪い。
春花は響の懇願に動きを止め、ちらりと一瞥。
「はあ――っ」
「…………」
長い長いため言いをつき、やれやれ仕方ないとでもいう風に大様に肩をすくめ、
「フヒヒヒ……フヒッ」
「今のやめようとした流れなんだったんですか」
流れなど何のその。授業再開より己の欲望を優先して、再び紋章に顔をうずめた。ジト目で抗議する響に、しかし春花はマイペースを崩さない。
「紋章と愛をはぐくむ時間がかけがえのないものだということくらい、貴方はそろそろ理解した方がよいと思うのだけれど」
「授業中に変態行為に勤しむのは慎むべきだっていい加減気がついてほしいんですけど……」
週二回、春花の個別授業を受けている響だが、この一カ月半、春花が紋章に顔面を擦り付けずに授業を終えたところをまだ一度も見たことがない。響に対する授業はほぼ善意に甘えている形なので強くも言えないが、本来の大人数に対する抗議でもこの調子では、そのうち学園を追い出されてしまいそうだ。
「まあ、紋章術の授業は大人数ではないけれどね。一〇人いればいい方と言えるわ」
「それはこの前聞きました。そんな現状を何とかするために、先生は俺に授業してるんでしょう?」
「その通りよ。でも、貴方は魔術自体ろくに使えないものね。紋章術の性質上、すでに使える魔術の効果を変えずに多少のリライトをするというのならできるけれど、そもそも使えもしない魔術は紋章に起こすことができないもの。教えたところで、それを実践に活かせるかどうかという部分を、私は心配しているのだけれど」
「ぐ……。いや、俺だって最近はちゃんと成長してますよ。成長速度も速くなりましたし。元素の射出までは八割成功できます!」
「本来は今の時点で、成功は前提条件。夏休みまではひたすら威力と速度を鍛える段階だったはずよね? しかも夏休み明けは、派生元素の生成だったはず」
「…………」
キュルリンとの試合のおかげで、響の魔術成功率はうなぎのぼりだった。それが平均には劣っていようと、響の中ではかつてないほどの成長速度。
それでも周りは常に先を行っているし、そもそも響の魔術は無駄が多いと奏にも注意されている。言われてすぐ直せるような才能がないのが残念でならない。そのせいで紋章術を学ぶことになっているわけだが。
押し黙る響に、春花は嘆息。手に持っていた紋章を机に置くと、隈に縁どられた目をジッと向けてくる。
「別に私は、魔術が使えないから負けが確定してるなんて思ってないわ。紋章術の助けがあれば、どこへだって行けると考えているもの」
「行けませんよ」
「いえ行けるわ。でも、貴方のようにちょっとかじった程度では無理ね。どこへだってとはいかない。だから聞くのだけれど、――貴方、本当に勝てると思っているのかしら?」
「…………」
咄嗟に答えることができなくて、響は沈黙する。
本当は勝てると断言したい。勝てると信じたい。
だが、周りとの差は歴然だ。邪道――戦術を身に着けたとしても、それで並べるかは正直分からない。奏からも再三くぎを刺されているが、何か予想外のことが起こり、それに対処できなかった瞬間、響の敗北は決定する。
だから響はその問いに答えることができない。それは響が日々研鑽する中で、常に頭の片隅にある懸念だから。
「私としては、勝ってもらえば問題はないけれど、紋章術を使って無様に負けられでもしたら、紋章術そのものにまで傷がつくから、歓迎できないわね。もし負けたら、呪うわよ」
「負ける前提で話進めないんでくださいよ。頑張りますし頑張ってますから」
黒いローブに漆黒の髪でそんなことを言われると、いよいよ本当に魔女にしか見えてこない。手に毒リンゴが入ったかごでも持っていれば完璧だ。
幼児が見たら泣きそうな形相で脅してくる春花を押しとどめ、響は研鑽していくことは約束する。
それに春花は眉をひそめるが、元からある目つきの悪さに隠れて響には気づかれない。咳ばらいを一つし、春花は傍らに置いていた教科書を手に取ると、
「まあ、約束した以上教えはするけれどね。あまりに上達が見えなかったら、序列決定戦での紋章術の使用を禁止するわ」
「最初から才能がないのに、さらに縛りまでって勝てるわけないじゃないですか……」
そうして授業は再開する。放課後に行われる、紋章術の特別講習が。
九月――序列決定戦までに残された時間は、半分を切っていた。
* * *
――魔術学園は分類としては高等学校ではあるが、その敷地は大学のキャンパスと同程度の敷地を有している。
当然校舎も一つではなく、訓練場も含めて一三号棟まで存在するマンモスっぷりだ。これは一〇年前の魔獣大災害をうけ、国が優秀な魔術師の育成に力を入れるようになったことに起因する。
それだけの規模になると、普通の公立高校にはあまり存在しない設備が設置されていることもある。
食堂はそのうちの一つだろう。別段珍しいわけではないのだろうが、校舎のうちの一つを、一フロア丸々使ったそこは、それなりの規模がある。
とはいえ、魔術学園は敷地だけでなく生徒数も多い。一学年五〇〇人もいれば、いくら規模の大きい食堂と言えど、全員が入り切るわけではない。だから、昼休みには、軽い戦争のような様相を呈することになる。
「一人だと、その戦争の影響も割と少ないわけだけど」
所狭しと並べられたテーブルの一角。通路も人ひとり通るのがやっとなくらいの間隔しかない場所で、うどんをすする響は、周囲の喧騒を傍目に見ながら、自分が”いない者”として扱われていることの数少ない恩恵を享受していた。
昼食を一人で食べにくる生徒は少ない。それゆえに、生徒のほとんどは席を確保することに手惑う。
例えば三人で来ていても、その分の席が固まって空いていないと困る、という風に。空席がまばらな食堂では、席を確保するだけでも一苦労だ。
一人だと、空いてさえいれば座れるので、響はそれなりに有利だった。
「別にそんな恩恵いらないけど」
それに、あくまで他よりは楽だというだけで、毎回スムーズに確保できるわけではない。なんとも小さな恩恵である。
そうやって、恵まれているんだか恵まれていないんだか分からない自分の境遇に思いをはせてながら食事を続けていると、
「冷たっ」
背後から軽い衝撃。ばしゃっという音がして響は頭から水をかぶった。
反射的に背後を振り返ると、そこには見知った顔がある。隼人と、その取り巻きだ。
三人は下卑た笑いを顔に張り付け、響を見下ろしている。手にはトレイがあって、そこに乗せられていたコップは、響の方に口を向けて倒れていた。
「おう菖蒲、悪ぃな。あまりに雑魚いんで見えなかったわ」
「…………」
「まあ最近暑いし、良かったじゃねえか。涼しくなったろ」
声音に謝意など皆無。ただ嘲る響きだけが存在する。
周りは一瞬で静かになった。響と隼人のやり取りを、遠目に面白そうに眺める視線がいくつもある。
見るだけで不快な表情に聞くだけでいら立つ声音。さすがの響も、一言言おうか迷って、
「いや、わざとじゃないならいいよ……」
「はっ! 別にお前みたいな”落ちこぼれ”に謝る必要もないのに謝ってんだから、許すのが当たり前だろ。そもそもテメーに許す以外の選択肢なんてないんだよ。思い上がんな」
「…………」
どう見てもわざとだが、響は穏便に済まそうと努力する。しかし隼人は、その響の姿勢が気に入らなかったのか、眉間にしわを寄せ詰め寄ってきた。
取り巻きは面白そうに、何も言い返さない響を眺めている。
いったい何が面白いというのか。沈黙を守る響に、隼人は、
「はっ! 言い返さねえとか、メンタルまで豆腐かよ。あーこれだから”落ちこぼれ”はよ。クソつまんねえ」
響が腰かける椅子の足を乱暴に蹴って去っていった。
馬鹿にするだけ馬鹿にして、人を不快にするだけして隼人は去っていった。取り巻きもそれに続いて、ニヤニヤと見下しながら歩いて行く。
「はあ……」
一息ついて、響は周囲を見渡す。
一年生の間に、響が”落ちこぼれ”だという事実が浸透しているのは知っていたが、上級生にもかなり広まってしまっているらしい。それも顔までセットで。そうでなければ、無関心どころか楽しむなどできるはずもない。
当然ながら食堂にいるのは一年生だけではないのだ。
図らずも、師弟ともに相当な有名人になったものだが、片方が悪評というのは皮肉なものである。響としては、たとえ好評でも有名になりたいわけではないが。
「
濡れた髪と、制服の一部を元素を生成して乾かす。本当なら、風と同時に生成してドライヤーのように使いたいのだが、あいにく風は派生元素。習うのは二学期からで、響の場合習得するのはさらに先だろう。
燃え移らないように火力は抑えめ。もともと平均未満のクオリティが限界のため、加減はさして難しいことではない。
そうして淡々と魔術を行使し、水をかけられたにもかかわらず堪えた様子のない響を、不機嫌な視線が見ていて、
「おい菖蒲。ちょっと来いよ」
――その不機嫌を放課後にまで持ち越して、隼人は、椅子に座ったまま手早く荷物をまとめる響の横に立っていた。
突然声をかけられて、響も目を丸くし、それからその背後にいつもの取り巻きがいないことに気がつくと怪訝な顔をした。
「いつもの二人は?」
「ああ? あいつらのことなんてどうでもいいだろうが。それより来いって言ってんだよ」
「いや、何で……」
放課後は誇張なく、すべて訓練で埋まっている。放課後に割ける時間は、響にはない。理由のはっきりしない呼び出しに応じる理由などどこにもないのだ。
「なに一丁前に理由なんか聞いてんだよ。何も聞かねえで付いてくりゃいいだろうが」
「俺、この後予定があるから、行けないんだけど」
「知ったこっちゃねえよ、テメーの予定なんて。つべこべ言わずに来い。雑魚のくせに、俺にシカトこいてんじゃねえぞ」
「してないし……。どこに行くのかもどうして行くのかも分からないと……」
「調子に乗ってんじゃねえぞ」
ガンッと、響の座る椅子が、食堂の時よりもいつっそう威力を高めて蹴られた。
隼人は、その理不尽な暴力に言葉に詰まる響の胸ぐらをつかんで、
「なあ菖蒲、テメー最近調子がいいみたいじゃねえか。元素が生成出来て? ちょっとばかり魔術が使えるようになってきて? よかったなあ」
「…………」
内容とは裏腹に、隼人の声音はひどく冷たく、そもそも隠すつもりがあるのかどうかも怪しい苛立ちが含まれていた。
「それで強くなった気にでもなってんのか? 水乾かすのにわざわざ魔術を使いやがって、自分の成長を見せつけたかったのかよ」
「いや、そんなつもりは……」
「はっ! なかったってか? 知るかよそんなこと」
「…………」
分からない。隼人がどうしてここまで過剰に反応し、苛立ちを響に向けているのかが理解できずに沈黙する。
今までは見下すだけだったはずだが、今の隼人からはわずかな焦りすら感じられる。
「”落ちこぼれ”が。どうせ予定っつったって鍛錬だろ。訓練場で一人寂しく。前に実らねえ努力はやめとけって忠告しておいてやったはずなんだけどなあ」
「実ってなくないよ。少しずつだけど上達してる」
「”落ちこぼれ”のくせに俺に口答えすんな。テメーには才能がねえんだ。隅っこで大人しく惨めにしてりゃ、俺みたいな天才に目ぇつけられることもなかったのになぁ」
掴んでいた胸ぐらを投げるように話し、響を椅子に投げる。おそらく、単純に体力だけで考えるなら鍛えている分響の方が上だろうが、暴力という点なら隼人に軍配が上がるだろう。
響はバランスを崩し倒れこみ、椅子もろともひっくり返った。地面から隼人を見上げる――弱者の視点に立たされる。
隼人は、ひっくり返った衝撃と痛みに顔をしかめる響を見下ろし、表情から焦りを消して、いつも通りの傲慢を宿した、意地の悪い視線を投げかける。響が、ここ数カ月の間馬鹿にされるたびに見て来たその瞳だ。
不快を植え付け、常に自分の情けなさを意識させてきたその表情――響の嫌悪する表情で、隼人は口を開いた。
「もう一回言ってやる雑魚が。菖蒲、ちょっと来い。試合だ。調子に乗ってる”落ちこぼれ”に、俺とお前の格の違いを見せてやる」
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